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平成22年5月5日 校正すみ

追悼 鬼山隆三君

三好 文彦

初めに

 鬼山隆三君が逝った。

昭和551113日未明3時2分である。

福岡地区「なにわ会」の万年幹事であり、また当地区海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)合同クラス会のケップガンとして、クラスをこえて一同から親しまれてきた鬼山君が、黙って忽然と去ってしまった。

ご令室速子さんの昼夜を問わずの精一杯の看護と祈りの甲斐もなく、入院加療中の九州大学医学部病棟で、59歳の短い生涯を閉じたのである。死因は肺炎であった。

鬼山家の密葬は、自宅で同月15日午後2時から、つづいて専務取締役として会社経営の重要なポストにあった福岡運輸株式会社の社葬が、19日午後2時から福岡市の福岡斎場でいとも厳粛にとりおこなわれた。

社葬当日は、福岡に珍しくも心地よい小春日和であった。祭壇中央に、菊花にかこまれた鬼山君の遺影があり、遺骨は潮気をふくんだ軍艦旗に厚くつつまれ、軍帽と短剣がその傍にそえてあった。

海に命をかけた遠い青春の証と、今に生きる鬼山君のたくましい意志のように。

海軍関係からは、三校合同クラス会を代表して、西鉄不動産株式会社々長小川治夫氏(70期)から丁重な追悼の辞があり、海軍関係で参列した約50名による「江田島健児の歌」の合唱。一呼吸おいて西部航空音楽隊員による荘重な「国の鎮め」、そして鬼山君の安らかな永眠をこめて「巡検ラッパ」のリズムが斎場一杯にかなでられた。

海軍をこよなく愛し、人と接するに終始善意をもってし、勤務に対しては常に陣頭指揮の人であった鬼山君の真骨頂をしのぶには、まさにふさわしい最後の決別の一刻であっ

た。

戒名は顕正院賜繹浩恵信隆居士。

なお、西部航空音楽隊員の招碑は、西部航空方面隊司令官池徳空将(74期)と潟Nロダルマ商事代表取締役大谷宏雄氏(74期)の温かい配慮によるものである。

鬼山君の計報に接したのは、出張先の東京であった。1113日正午前、九州朝日放送東京支社(東京・西銀座)に着いたところ、すぐ福岡の会社に連絡するようにとの伝言を聞いた。一瞬、鬼山君につながる不吉な予感が脳裏をかすめた。             

実は、東京を出発する前々日、即ち11日の午後、いつもに似合わぬ、何か硬はった表情の伊集院正年君が、わが社を訪ねてきて『いま、九大に鬼山君を訪ねてきたが、面会謝絶であった。奥さんと会ったが、奥さんの様子から察するに、鬼山君の容態は大変悪いように思えてならない。』という。

それに答えて

『大丈夫と思うよ。鬼山君の生命力は尋常ではないし、きっとよくなるよ。15日まで東京出張なので、帰ったら俺も訪ねてみよう。』

そんな生々しい会話を交して福岡を出発してきただけに、思ってはならない予感を覚えたのである。しかし、それを強く打ち消しながらダイヤルを福岡につなぐと、予感は的中。鬼山君の逝去の知らせが伝ってきた。入院早々の10月末、俺は鬼山君を九大に訪ねた。その時も面会はできず、奥さんと

『ゆっくり養生ですね。きっとよくなりますよ。』と、病棟の冷たい廊下で立ち話をしたのであるが、思いもかけない13日の悲報を聞くと、あの日、あの時、無理にお願いして一目会って声をかけておけばよかったのにと残念に思えてならないのである。

鬼山君逝去の知らせを一刻も早くクラスに連絡しなければならないと考え、まず自宅に電話した。が、何度ダイヤルを廻しても通じなかった。手許にクラス会の名簿があれば、福岡地区はもちろん、東京の連中にもたちどころに連絡がつくのにと思案にくれていたら、ふと、彼ならば在宅だという人物が浮んだ。千葉市在住の泉五郎君である。105番にナンバーをきいてダイヤルをつなぐと、案の定、泉君がいた。

泉君は、突然の九州弁で驚いた様子であったが、鬼山君の不幸を千葉、東京の連中に伝言を依頼し『よしや』という相変らず歯切れのいい泉君の返事をきいて、ホッと肩の荷をおろしたのである。

福岡と連絡がとれたのは、日が暮れてからであった。

それによると、13日午前7時過ぎに鬼山君のご令室から計報がはいり、あとは、伊集院君が福岡、九州をはじめ、東京、大阪の「なにわ会」、それに当地区海軍三校合同クラス会に、密葬、社葬の日時を伝達し終えたとのことであった。

一方、新聞社への社葬社告があり、友人代表をいそぎ決めねばならぬということで、一同協議の結果、一致して当地区の海軍三校合同クラス会の幹事である小川治夫氏にお願いすることになった。

小川治夫氏も、72期の皆さんの諒承が頂けるならということで、社葬当日の弔辞をふくめて、心よくお引きうけて頂いたわけである。

なお、福岡運輸から社葬当日、是非「江田島健児の歌」を参列の海軍関係者で合唱していただきたいという申し入れがなされた。

「同期の桜」など、巷で広く愛唱されている海軍に馴染みの歌もあるが、鬼山専務との最後のわかれにふさわしい歌は「江田島健児の歌」以外にはないという福岡運輸一同の強い要望であった。もちろん、一同その意を諒としたのである。

鬼山君の福岡運輸での日々の活動状況はつまびらかではないが、社葬当日、同社々員代表島田隆士氏の弔辞によると、福岡運輸の全国の支店には「五省」の額がかかげられているという。そして島田氏は「五省」で弔辞の棹尾(とうび)としたのであるが、察するに鬼山君は江田島で培かわれたすべてを会社発展と社員のモラル向上の糧としていたに違いないと思うのである。

(二)

55年9月12日、福岡市内でクラス会を催した。鬼山君に馴染みの料亭「しぼこ」であった。

昭和18年9月15日が、われわれ72期の卒業した日。この日を記念してクラス会を開こうという伊集院君の呼びかけで、例年9月15日ごろを選んで、福岡ではクラス会を開き、昨年は3回目であった。

東京から後藤俊夫、大分県の津久見の小河美津彦、県下の伊集院正年、大坪久幸、竹内茂、花田武彦、平田隆一、井上春海(経33)、三好。それに故堀江太郎君のご令弟保雄氏

74期。旭硝子福岡支店長)、故酒井 洋君のご令弟敏氏(78期・光輝水産社長)を招いてのクラス会で、いまは白髪まじりの戦中派が青春に逆もどりして杯を高く、大いに気焙をあげたのである。

もちろん、鬼山君も出席していた。

『出張帰りから直接来たせいだろうか、少しつかれている。』と言いながらも、鬼山君はいつものように微笑をたたえ、最後まで宴席をはずさなかった。

そして、この日のクラス会が、鬼山君との最後の晩餐になってしまったのである。

誰が、その日を予見していただろうか。運命とは皮肉なものだ。

思うに、そのころ鬼山君の病は、相当進んでいたのであろう。ご令室からきいた後日談であるが、鬼山君は家までの階段を登るにも大変苦痛のようで、丘ではなくて、平地に家を建てておけばよかったと、よく口にしていたとのことである。

ここ数年、鬼山君の体調はすぐれていなかった。52年9月末、リューマチのため約2カ月半入院。あと翌年8月職場に復帰するまで自宅で長い闘病生活をつづけた。しかし、ご令室の温かい看護と鬼山君の不屈の意志で次第に回復。やがて精気をとりもどして再び獅子奮迅の勤務にたち返った。そして、この奇蹟的な快復をみんなで酒を囲んで喜び合ったのである。

それから55年早々、福岡運輸副社長の急死という突然の事態で、責任感の強かった鬼山君は勤務の疲れも倍加したかもれない。それをいやす酒席の回数もふえたのかもしれない。6月ごろ、眼底出血でしばらく自重。幸い大事にいたらず、その後また東奔西走の勤務になり、一見快調に思えたのである。が、実は、それは本物ではなかった。9月末、突然、発熱と腰痛で病床につく。病名は腎孟炎と電話で連絡があり、くれぐれもの養生を伝えたことが、数回あった。その後、容態はおさまらず、1025日自宅で九大中村元臣教授(75期)の診察をうけ、即日入院。ついに還らぬ人となったのである。

(三)

昭和245年だったろうか。終戦後初めてのクラス会は福岡市荒江の鬼山邸で開かれ、10数名が参集。その夜は椎野 広君(機53)の家に吉田 修君とお世話になったことを記憶している。また52年、鬼山君が現在地に居を構えて間もなく、「月見の宴」と銘打って海軍三校合同クラス会を鬼山邸で催し、数十名が集った。

このように、鬼山君は賑やかなことが好きであった。友の来福ときけば必ず出かけた。時には、体調をいたわるご令室の制止をふりきっても顔を出すハートナイスの人であった。鬼山君のこんな魂の招きであったのだろうか。

他界した13日、東京から辻岡洋夫君が福岡に出張。たまたま鬼山君に電話して不幸を知り、通夜の席に。また、密葬当日の15日、福岡で開かれた54分隊会に出席した大谷友之君、河口浩君、富尾治郎君も仏前に合掌できたのである。19日は東京から来福中の後藤俊夫君も社葬に参列するなど、遠来の友の往来は、ただ単に偶然とのみではかたづけられないようである。

15日夜は、大谷、河口、富尾の来福とあってクラス会。伊集院、竹内、平田、吉田と小生が出席、鬼山君をしのぶ追悼のクラス会であった。

   

鬼山君は、もう帰ってこない。

『オーィ、鬼山』と、どんなに大声を出しても、帰ってくるのはこだまだけである。さらば、友よ。

鬼山君の位牌の前で、鬼山君を酒の肴に、生前のつきぬ思い出を語り合おうではないか。

鬼山君は、きっと、いまもそんな賑な時間をまっているに違いない。諸君の来福をまつ。元気でいこう。

 

72期(関係者含む)葬儀参列者

伊集院正年・夫人、大谷友之、小野義市、大坪久幸、河口 浩、竹内 茂・夫人、辻岡洋夫、富尾治郎、花田武彦、平田隆一、吉田義彦、三好文彦・夫人、中島静子さん(故中島健児ご母堂)、長山芳子さん(長山兼敏長女)

 

☆各クラスからの追悼と思い出など

菊池貞彦氏(71期・昭和商事石油鰹務取締役)

鬼山隆三君とは、海兵同期入学のほか、弟茂樹君の対番をわたしがしたご縁があり、戦後は彼が博多漁港の鉄工所に勤務していたころ、わたしも製氷工場に勤務していて何かと往来があった。その後、彼は独学で経理屋となり福岡相互銀行を経て福岡運輸鰍ノ入社。女丈夫の富永社長の人物にほれ込んだ様子で、その仕事に生甲斐を感じ、全精力を傾注していた。それだけに悩みも多く、ある時は深夜と言うか早朝と言うか、拙宅を訪ずれたこともあった。彼もそうであったようですが、わたしも彼を社外プレーンの一人と思っていた。昭和48年の石油危機の時は、福岡運輸の関東方面の給油がうまくゆかないとの相談をうけたので、利害をぬきにして、わたしの商売に関係なく共同石油を紹介して無事給油をしたことがある。これは今でも続いていると思うが、その時の彼のあの人なつこい笑顔は忘れることができません。彼が病没する1カ月位前と思いますが、突然電話があって、俺は酒が呑めなくなったが明日は宴席があるので困ったというので「無理をするなよ。コップにお湯をついで焼酒でやっています、といって通せよ。」というと、「それはいいことを聞いた。ありがとう。」と電話を切ったのが最後になってしまった。ほんとうに彼は最後まで福岡運輸を愛し、友を大切にした男であった。心から冥福を祈りますと共に奥さまのご健勝をお願いします。

 

大谷宏雄氏(74期・潟Nロダルマ商事代表取締役)

鬼山さんの思い出として、私の記憶していることでは、かつて海軍兵学校時代に、われわれが三号として生活していたころの話が(クラスの誰か記憶にありませんが、そのクラスから聞いた話)一番印象に残っています。そのころの先輩は鬼の一号として、われわれは恐れていたころで、いたる所で待てと掛けられていたわけですが、クラスの一人が、例によって 「待て」を掛けられ、ご達示を受け、「掛れ」といわれて、一目算に自習室のある方向に走り、建物の角を曲って、前方をみると、いまお達示をしたばかりの鬼の一号生徒が、そこに立っているではありませんか。その時、三号の彼は、さすが一号生徒は何んと素早いものだろうと、舌を巻いたそうです。何のことはない。もう一人の鬼山生徒は鬼山隆三先輩の弟さんだったのです。

余りによく似ておられるため、彼は同一人物と思ったわけです。あとでそれがわかり笑い話として残っています。

 

猿渡啓一氏(76期・潟Tニー取締役)

鬼山さんとの出合いは、福岡相互銀行在職中の29年8月である。もともと同銀行は、海軍出身者が少なく、兵学校出身者は6名であった。なかでも鬼山さんは、中学校の先輩でもあり、身近く感じていたわけです。銀行退職後つねにいわれていたことは「銀行は俺の性に合わん。考えたらどうか。」ということであった。おかげで、銀行退職にも思いきりができたし、いま、わたしがあるのも鬼山さんのおかげだと思っている。

 

天野亮二氏(77期・(有)南風苑代表取締役)

十数年前、海兵78期の全国総会が福岡で催された際、鬼山さんやわたし達は招待されて針尾分校へ同行した。帰途近くの震洋艇特攻隊の慰霊碑へ立寄り参拝した。碑の裏面には氏の同期の戦死者の名前が列記されていた。氏はその字を指でなぞり「おう、貴様も死んでいたなあ。おう貴様も……。俺は長生きしたなあ。」と、目を赤くし、しばし立ち去りかねておった。その光景を昨日の如く思い出す。いま鬼山さんは彼らのもとへゆかれた。

 

清水正照氏(78期・佐賀大学教授)

46年の秋のころ、78期福支部で針尾分校跡にバス旅行をした。鬼山さんはわたしたちの分隊監事格で参加して下さった。福岡県糸島の木の里の前で手をふってバスを止めて乗ってこられた。針尾分校跡は茫々たる草原であった。かつての庁舎前広場あたりで、鬼山軍歌係生徒の号令で軍歌演習をした。わたしたち78期福岡支部の参加者の心には、あの時の鬼山さんの元気一杯の笑顔と大きな声が今日も忘れ難くなお生きている。

(なにわ会ニュース44号36頁 昭和53年9月掲載)

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