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平成22年5月4日 校正すみ

軍艦「木曽」物語 故大堀陽一君に捧げる挽歌

名村 英俊

1月14日早朝、大堀陽一君が不慮の事故が原因で他界してはや旬日、「棺を覆う事大いに定まる」というが、無念の想いは日増しにつのる。

1月18日、落合葬儀場の告別式で、泉五郎君が捧げた弔辞は亡き友の生涯を語り、惜別の真情を吐露して遺憾がないが、半世紀余りに亙る交誼に与った小生も、ここに聊かの思い出をつづり、その行間を埋めることを諒とされたい。(以下期友敬称省略〕

思い出はやはり大堀(砲術士)、泉(甲板士官)、香西(水雷士)、横田(通信士)、名村(航海士)の面々が打揃って、義理にもスマートとは申せぬ三本煙突「木曽」に着任した舞鶴の地に遡る。型どおり着任手続を済ませた後の雑談で原田航海長兼副長が「水交社からの報告によると、今年の候補生はカレーライスを二杯以上お代りしたそうだな」との宣うたのが印象的であった。舞鶴の情報管理システムには感心するとしてもこれは正確性に欠ける。「候補生のうちの約1〜2名」と訂正すべきであろうが、その時は誰も黙っていた。

ともあれ、個性的候補生乗艦の報は尾鰭がついて全艦に告知されたのも同然であり、後日、酒保伝票の金額において、また、その酒量において、この尾鰭を実証した名士が存在したことも残念ながら事実である。大堀はこの場面では個性的候補生に入らないことは明かである。

コレスの村上機関長附、浅野庶務主任の顔も揃い、気宇のみ宏壮ながら、実力甚だしく伴わない候補生の「木曽」生活は始まった。大堀砲術士の自慢は発令所長を兼務していることであった。その理由は、発令所長はそんじょらそこらの候補生が任命されることはあり得ない高貴な配置であるらしいからである。

そこで、ガンルームにたむろしているそんじょそこらの候補生が彼に論争を挑む。曰く「大正生れの(うば)桜が腰をかがめて背負っている撞木のような単装砲は見るからにあたる気配がしないではないか」、「荒天時は裸の砲員の保安上休戦にするのか」、更には「貴様の配置に距離時計は置いてあるそうだか、肝心の射撃盤は.一体どこに仕舞ってあるのだ」などなど。既にお分かりの過りこれは議論ではない。嫌味を連発して彼を触発し、そんじょそこらのレペルまでご降臨願うための甚だ非論理的な雑言であるので破壊力に欠けること甚だしい。

果して結果は顔色も変えず、幾分早口になり吃りを交えることはあるものの、極めて平静な反論を引き出すのが関の山。かくて彼は乗艦日ならずしてテッポウ屋どもの陣営に組みし、砲術の鬼を自認することとなる。それに何としたことか、陸奥海湾に出動する直前、65期は藤井卓砲術長の着任来援を得て意気軒昂止まるところを知らない状況となる。

 

木曽の思い出が続く。実施部隊における大堀の生涯の舞台であるから止むを得ない。候補生唯一の公認の表芸は内火艇チャージと決っている。特に軍港在泊中は忙しい。しかるに、本艦の所謂「今年の候補生」は定期の時間になると艦務多忙のせいか急に姿が見えなくなる癖がある。問もなく気付いたことだが、伝令が二ヤ二ヤしながら「航海ス、チャージお願いスます。(本艦は舞鶴所属)」とやってくる回数がやたらに多い。初めのうちは「ひょっとすると俺の操船が旨いことを知ってのことだな」と含点して出かけていたが、そのうち、敵もさるもの、航海しない艦の航海士に無駄飯を喰わせておくことはないと判断しての「航海ス」だということに気がついた。それからはただ崇高な義務感に支えられて奮闘することになるが、航海土にもたまには仕事の都合というものか出来る。その時は、連合艦隊ではあまり例のないことながら泉甲板寸官に礼を尽して出馬を仰ぐ次第となる。とにかくチャージとくれば、そんじょそそこらの候補生は勿論、特にそんじょそこらでない候補生には大きな貸しがある。

「木曽」が呉にやって来たのは19年8月も半ばを過ぎた頃だと思う。小生は潜水学校に行くため。4月に大湊で退艦したから小笠原への輸送作戦は知らない。とにかく、旧知に会う想いで訪問したが、クラスの連中は大堀以外皆転勤し、雰囲気も随分変わってしまっていた。その大堀もソファーにもたれるように座り元気がなかった。今村艦長に「潜水艦乗りは汚い奴」と眉を顰(ひそ)められた。二度目に訪ねた時には大堀はもう入院のため退艦し、土井輝章が八雲から来る予定と聞いた。

長い戦後の空白期が続いた。特に東京と縁遠くなっていた小生はその感が深い。大堀と交際が復活したのは40年代に入ってからだと思う。そり頃の彼は、鞄倹Hで砂糖を担当し、宮崎、沖縄、北海道と油の乗った活躍振りだった。小生が商売替えして銀座に移ってからは、共通する話題も多くなり、往来も結構頻繁だった。彼と話をしていると、何時の間にか「木曽」のガンルーム調になってくるのも可笑しかった。

彼の眞骨頂は勤務先東食を離職するときに発揮される。彼なりの悩みや苦労があった筈だが、決してそれを口にすることは無かった。「1、2年のうちに何とかするよ」と言った通り、彼は余生に挑戦し不動産鑑定土と中小企業診断士の資格を手中にして自分の運命を切り開いた。彼ほどの才能があっての話といえばそれ迄だが、忸怩たる思いに苛まれるベき人士の多きを思わざるを得ない。

何時の頃からか、彼の歩行状況が変っているのに気がついた。昔から大股で歩いたり、走ったりすることは少なかったが、最近のそれは俗に「ヨチヨチ歩き」と称する状態だった。それを訊ねると「足首が痛むので、それを庇うためにやっていることだから大丈夫」との返事が返ってくる。そんな体調だったが、ドン亀連中の会として発足した伊呂波会(毎月第三金曜日、三笠会館)に入会してからは皆勤してくれた。もしも、そのことが、孤独な職場の息抜きの機会となっていたのであれは誘った小生として嬉しい限りである。

今彼との長い交流の問に醸された大堀像を思い返している。沈着冷静な判断と行動、毀誉褒貶に必ずしも妥協しない頑固さ、自助努力への精進、友人に対する寛容さ、そして適当なスタイリストなどが即座に浮ぶ。一万、これは小生の推量であるが、生涯を通じて念頭から去らなかった命題は「健康に対する不安との闘い」ではなかったかと思っている。もし、彼に負の評価が指摘される部分ありとすれば、それは概ねこの命題に遠因する結果であろうと思うが如何であろうか。江田島での留年を克服して、完全に七十二期生して終始したこと、戦場から離れた療養生活の精神的な負担、それに終生を託すべき会社の倒産など多くの試練を乗り越えた彼に、「本当にご苦労さんだった。もう健康のことは心配し.ないてゆっくり休んで欲しい」と述べて追悼の言葉を終る。(2月24日記′)

(なにわ会ニュース82号9頁 平成12年3月掲載)

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