TOPへ   物故目次

平成22年5月4日 校正すみ

大熊 直樹君

吉田  

大熊君が逝ってからはや1年以上過ぎた。大熊君とのいろいろな想い出が錯綜し、胸一杯になる。平成5年11月17日三好文彦君から、大熊君が11月16日1955に死去したとの電話連絡を受け暫く茫然となった。前々から急性肝炎で日赤に入院したこと、インターフェロン注射のことを大熊君からの手紙で知っており、手紙の字の乱れに病気がひどくなったのではないかと思っていたがとうとう駄目だったかと、呆気なく若いまま亡くなった大熊君のことを思うと悲しみに堪えない。

大熊君の告別式は平成5年11月19日久留米市梅林寺にて、臨済宗梅林寺導師御出仕のもと読経、焼香、回向と粛々と行われ、日本通運株式会社、西日本港運株式会社、福岡カーゴサービス株式会社、海軍兵学校第72期代表小野義市君のそれぞれの弔辞及び弔電披露あり、参列者多数のうち終了した。大熊君の戒名は直心院大峰良樹居士である。

大熊君は大正11年4月20日、久留米の大熊家8人兄弟の長男として出生し、御両親への孝養と弟妹妻子の面倒を一生懸命にみてこられた。正義感強く清廉潔白、また、頭脳明噺思い遣りがあって情け深い人柄は、多くの人から親しみ期待され尊敬を受けてこられた。趣味は弓道、園芸、盆栽、水墨画等で、特に弓道は曽祖父の有馬藩剣術指南大熊又右ヱ門の血筋を受け、5段の腕前であった。

顧みれば、海軍兵学校時代は、大熊君は17,13,51の奇数分隊、小生は36,54,10の偶数分隊でお互いに接触はなかった。記憶も定かではないが、終戦後復員輸送が終了し、昭和22年と思うが長崎県の佐世保港で復員船の保管をしていたとき、大熊君と親しく付き合うようになった。君は海防艦第8号・第18号艦長兼務、小生は海防艦対馬で保管業務に就き、お互いに艦を行き来し、交遊を重ねた。

大熊君は昭和18年9月15日、海軍兵学校卒業後、軍艦八雲乗組、同年11月15日軽巡洋艦大井乗組、昭和19年3月1日南鳥島警備隊勤務となり同年5月2日着任。大熊君の「南鳥島戦記」によれば、米空軍の絨毯爆撃(島の幅より大きい編隊での爆撃、島を支えている柱が折れるかと思うほどの激しさであったらしい)、艦砲射撃に耐え奮戦した。終戦により昭和20年8月30日、米軍グランド代将との和平交渉に日本代表使節団の一員として出席。昭和20年10月16日、浦賀に復員、その後復員輸送に従事、昭和21年6月17日早崎航海長、昭和22年1月10日海防艦第8号、第18号艦長兼務、昭和22年4月30日退官し、久留米に帰宅した。

当時久留米では黄櫨からの木蝋を原料とした石鹸が造られていたが、粗悪品のため油脂を原料の石鹸の要望が強く、これに目を付けた大熊君は牛馬骨より高圧釜を使って油脂を製造し、久留米の石鹸製造業者に販売し、商売を軌道に乗せられた。君の誘いにより小生は昭和23年4月より大熊家にお世話になり、石鹸用の油脂及び骨粉の製造に従事し事業も順調であった。しかしながら世の中が落ちつくにつれ大企業の資金力、製品品質に押され、久留米の石鹸製造業者も潰れ、そのため油脂製造も止めざるを得なくなった。その後いろいろと製造販売に悪戦苦闘したが、利あらず、昭和24年5月に事業廃止に至った。

その後大熊君は昭和24年9月より昭和26年5月まで協和銀行柳河支店、昭和26年10月日本通運葛v留米支店入社、昭和30年11月同社福岡支店、昭和42年4月同社熊本支店、昭和45年2月同社八代支店長、昭和47年4月同社久留米支店長、昭和48年4月同社本社海運部船舶課長、営業推進部、昭和53年12月同社長崎支店長、昭和56年6月西日本港運鰹o向、代表取締役社長、昭和57年4月日本通運樺阡N退職、昭和58年6月西日本港運椛゙任、昭和59年7月より9月まで急性肝炎にて日赤入院、昭和62年1月西九大運送鞄社、平成3年5月より同年10月19日まで福岡カーゴサービス且謦役社長と、真摯な勤務振りと重責を果たしてこられ社内外での信頼と信用を得られた。

そして、平成4年6月より7月までインターフェロン注射のため九大病院入院、平成5年4月より5月まで食道ガン手術のため福岡市民病院入院、平成5年11月16日死去された。

生前の君を思い感慨無量であり、心から冥福を念じるばかりである。

奥様ご子息のご多幸を祈ってやまない。

(平成7年3月)

(なにわ会ニュース73号8頁 平成7年9月掲載)

TOPへ     物故目次