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平成22年5月4日 校正すみ

大岡要四郎君を偲ぶ・その戦歴と人生

都竹 卓郎

我らがヨーソロ、大岡要四郎が他界した。

 7月6日のことである。病名はクモ膜下出血、自宅の庭を手入れ中に突如倒れ、直ちに救急車で近隣の病院に運び手術を受けたが、再び起ち得なかったという。6月の参拝クラス会で顔を合わせてから僅か1ケ月、平俗な言い方だが何か狐につままれたような思いを今もって拭い切れない。

大岡とは一号時代の9ケ月半、海岸べりの41分隊で起居を共にした。栃木県は真岡中学、柳田教官の後輩に当たる彼を、『真岡郡下の最高学府』出身などひやかしたことがつい昨日のことのように想い起こされる。

生まれ故郷である関東平野の秋晴れの空のように、明るく爽やかで、カラリとした男であった。

卒業後しばらくは互いに行違い、会うことがなかったが、翌19年春、私は山城から大和、大岡は玉波から時雨の通信士に転じ、以後7ケ月にわたりリンガ、タウイタウイ、春亀方面(春亀とはハルマへラ西ニューギニア方面のこと、形が亀に似ている)、マリアナ海戦、中城湾を経て内地帰投後、再びリンガ、次いでブルネイ湾、比島海戦とほとんど同じ戦場で行を共にした。生え抜きの駆逐艦乗りであった大岡の戦歴の中で最も光彩を放ち、また恐らくは、その後の彼の人生にも大きな影響を与えたのは、この半年間にわたる体験であった。

犬岡がかい潜った修羅場は、大別して三つに区分されよう。その第一は機動部隊主力のタウイタウイ集結後間もない5月末、ビアク島に来攻した米軍に対して行われた渾作戦、第二はそれに続いて起こったマリアナ海戦、そして第三は言うまでもなく比島海戦におけるレイテ湾突入である。勿論、この間にも恐らく戦史には記録されていない幾つかの輸送、あるいは護衛の任務があり、当時既に量的不足を告げていた駆逐艦は、時雨に限らず文字どおり東奔西走の忙しさであった。

渾作戦のことはこれまで余り語られていないが、優勢な敵の制空権下での陸兵輸送という、ガダルカナル戦とよく似た極めて困難な任務であって、この間時雨、五月雨の両艦はB25のスキップボンビングと再三わたり合い、数機を撃墜している。越えて6月7日、16戦隊司令官左近允少将指揮の下にソロンを発した第19駆逐隊の浦波、敷波、27駆逐隊の春雨、白露、時雨、五月雨は翌8日マノクワリ北方洋上でP38 30機、B24 10数機と交戦し8機を撃墜、さらに進撃を続けたが、夜に入って戦艦、巡洋艦を含む10数隻の敵艦隊と遭遇、不測の海戦を行ったため、作戦目的である陸兵の揚陸は中断せざるを得なかったのである。

このような状況に鑑み6月10日、聯合艦隊司令部は第1戦隊の大和、武蔵、5戦隊の妙高、羽黒および2水戦の一部を渾作戦部隊に編入、これらの部隊はタウイタウイからセレベス海を横切り、12日ハルマへラ島西方のバチアン泊地で16戦隊の青葉、鬼怒、および前記の両駆逐隊と合同したが、翌13日あ号作戦決戦用意が発令されたため、ビアク突入を中止、時雨、五月雨、白露(春雨は前記の海戦で沈没、司令新井大佐戦死)を帯同して北上の途についた。

私見であるが、この大和、武蔵を基幹とする大部隊の突入は、もっと早くビアク来攻直後に起案し、実行していたら、戦争全体の帰趨はともかくとして、あの時なりに一つの局面をつくり得たのではないか、いつもながら兵力の小出しという禁忌を司令部は犯し続けたのではないかという気が今もしてならないのだが、当の大岡とそんな話しをする機会はついに永久に失われてしまった。

フィリッピン東方洋上での機動部隊との合同後、大和は3航戦および第4戦隊等と共に前衛となり、時雨、五月雨は本隊乙部隊の2航戦の直衛についてマリアナ海戦に臨んだのであるが、我が方は19日の決戦でさしたる戦果もあげぬまま飛行機を使い果し、逆に20日には敵の大空襲を浴びる始末となってしまったことは周知の通りである。3航戦の小型空母と大和、武蔵を前衛に置いたのは、敵の空襲を引き付けるためのいわば蒔き餌の積もりであったのだが、敵機の攻撃は本隊側に集中し、とりわけ時雨のいた乙部隊は飛鷹が沈没、隼鷹大破という大被害を受けるに至った。この海戦はこちらが飛行機切れで一方的に避退したため、艦の側では本格的戦闘をしたという実感が概して薄いのだが、大岡のところだけは別であった。いつも火くるまを、引付けてしまうような宿命を背負った男であったのかも知れない。

一旦内地に帰投した後、再び回航したリンガでの3ケ月間は、ハルマへラ、パラオ方面への敵の侵攻は進んでいたものの、日夜の訓練に一応専念出来た暫しの静謐(せいひつ)のひと時であった。いつであったか、またどんな用事であったかはもう忘れたが、時雨に大岡を訪ねたときちょうど天気図を眺めていて、のぞきこんだ私が余りにも測点が少いことに驚いたところ、一昨日あたりからの動きをみておればこれでも書けんことはないと言ったことが妙に記憶にのこっている。

10月18日捷一号作戦決戦用意の電令を受けブルネイ湾に進出、20日、21日と給油を行った。給油時はタンカーが大和の片舷に着き、反対舷に摩耶、浜風等が順次接舷して東郷、磯山に顔を合わせたことを覚えているが、時雨は別の艦に着いたようであった。ちなみに27隊は春雨、白露、五月雨がすでに失われ、残ったのは時雨のみであった。時雨が同じく単艦の最上と共に、北方航路を進む主力とは別のスリガオ海峡に向かう第3部隊、山城、扶桑の直衛に回されたのは恐らくそういう建制上の都合もあったためと思われる。

 

この部隊の惨烈な運命は既によく知られており、改めてここに書く必要はないであろう。

戦闘の経過は大岡自身が昭和41年5月の『なにわ会誌8号』(比島海戦特集)に書いているので、読んでやってほしい。九死に一生、正に三途の川原から舞い戻って来たような戦さであった。

かなり長文の記事になってしまったが、彼、大岡要四郎の人生の最もホットな部分をここに再生してみた。時雨がついに沈没に到ったときの状況は、まさかこんなに早く彼が逝ってしまうとは夢にも思っていなかったので、つい聞きそびれたままである。

戦後の大岡についても大方知ってはいるつもりだが、とくに他のクラス諸兄以上とは思えないので省かせて戴く。

余り適切ないい方ではないが、人間誰しも多少の『悪心』というものが心の片隅に潜んでおり、それはまた人生の様々な局面を乗り切ってゆく上での一種の抗毒素としての機能も若干は果しているのであろう。ただ、大岡という男は、その種の成分の含有率が測定誤差の範囲内でほとんどゼロではないかと思われる程、芯からハートナイスな男であった。

そういう『誠実さと暖かさ』こそは、恐らく大岡自身として譲ることの出来ない人生の基本姿勢であり、それを頑強に一生貫き通したという点で、まことに貴重な『天性の田舎者』であったといえるかも知れない。

好漢ついに去る。願わくはその眠りの永遠に安からんことを。  合掌。


大岡要四郎君への弔辞

 都竹 卓郎

海軍兵学校第72期の同期生一同を代表し、謹んで故大岡要四郎君の霊位に申し上げます。

この度の君の突然の訃報は、我々の全く夢想もしなかった悲痛事でありまして、この想いは如何なる言葉によっても到底尽くし得ません。

顧れば、昭和15年秋、国家非常の時局に臨み、相携えて共に海軍を志し、栃木県立真岡中学校より参じ来た君と江田島の生徒館で相見えてから、実に半世紀に垂んとする歳月を閲しました。

兵学校当時の君は、誠実にして明朗、剛毅にして朴納、旺盛なファイトと温かい情宜を併せ持った、真にカーデットらしいカーデットして、クラスメートの敬愛を一身に集める存在でありました。その独特の姓名申告の語調を舵取りの号令になぞらえて、我らがヨーソロ(宜候)の愛称が生まれたのもこの時期であったように思います。

越えて昭和18年秋、蛍雪3年の業を卒えた我ら72期が勇躍実戦部隊の配置に赴いたとき、太平洋の戦局は漸く落日の様相を呈し、以後7百日に及ぶ悪戦苦闘の過程で、クラスの過半数、335名を失うという悲運が待ち受けていたのであります。

この間、君は少尉候補生の頃から生え抜きの駆逐艦乗りとして終始南方最前線に在り、文字通り東奔西走、寧日なき状況でありました。昭和19年5月のビアク防衛戦、6月のマリアナ海戦、10月の比島海戦、その他もろもろの作戦に、第27駆逐隊の一番艦時雨の通信士として参加し、とりわけ比鳥海戟ではスリガオ海峡からレイテ湾に突入した第3部隊7艦のうちへ時雨のみが敵の重囲を破って帰投するという修羅場を経験されたその戦歴は、我クラスの中でも一きわ光彩を放つものと言って過言ではありません。

戦争終結後は暫く復員輸送業務に挺身された後、転じて東京商科大学に学び、卒業後は東洋レーヨンに在職、さらに経営コンサルタントとして人事、社員教育の分野でユニークな活動を行われたことは、夙に我々の記憶に新しいところでありますが、この間そのあくまでさわやかなネーヴィーらしい人柄は一貫して変ることがありませんでした。

いまや君も我も60歳台の半ばに達し、激動の青春期に代わる静謐(せいひつ)な人生の秋を互いに楽しみ合おうと念じていた矢先、この訃に会うとは、まことに無念のきわみと申すほかありません。

65年の人生を常に真摯に営んで来られた君を偲び、その眠りの永遠に安からんことを祈りつつ、ここに万斛(ばんこく)の涙と共に弔いの辞を捧げるものであります。

平成元年7月9日 

なにわ会代表 都竹 卓郎

(なにわ会ニュース61号17頁 平成元年9月掲載)

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