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平成22年5月4日 校正すみ

太田 威夫君を偲ぶ

浅村晃司

小生、太田威夫とは実に縁が深い。一号時代から南方勤務、そして終戦、復員まで約3年半、行動を共にした。その後、文通はしていたが再会することは無かった。偶々昭和5211月の江田島クラス会で30年ぶりに太田夫妻に会い、歓談することが出来た。

彼は郷里の小松市で木材業を営んでいるとのことであった。それから約5年後山林視察中脳梗塞におかされ、気丈にも自力で山を降り、里にたどり着いたということであった。それから十五年、彼は病床に伏し、遂に再起すること無く昨年12月この世を去った。その間看病をして居られたお母さんがなくなり、続いて数年前に奥さんも他界された。無情この上もないことだ。  

彼の計報に接した時、悲しみよりも、彼が今まで生きぬいた事に対して、「太田、よく頑張ったなあ、本当に御苦労さんでした。」と言ってやりたかった。彼は今やっと奥さんとの安らぎの世界に居るのではないだろうか。せめて彼のためにそのように信じてあげたい。

 

1分隊時代について 

1分隊は穏健な分隊であった。恐らく三号に対して一号は一度も鉄拳修正をしなかったと思う。分隊監事は中川中佐で誠に温和な人格者であった。招き猫の様な恰好で答礼をされた事が思い出されてなつかしい。「達示」について考えて見ると、何と言っても江戸っ子に限る。実に歯切れが良い。東京出身の及川久夫、泉本 修は合格点、和泉正昭は朗読調で平凡、他の一号も誠に平凡であったと思う。

太田は一号の中でも特に温和な方で、たまに達示をする時は目を大きく開いて睨んでいるのだが、余り迫力がなく、その上、石川訛りが出るので恐らく三号の脅威にはならなかったようだ。1分隊の戦死者は、田辺光男、泉本 修、折笠義郎、前橋萩一の4君、生存者の中、病死者は和泉正昭、及川久夫、清水憲太郎、太田威夫の4君、現在の生存者は、戦闘機乗の藤田昇、南方帰りの小生との二人だけとなった。正に「散る桜、残る桜も散る桜」の心境である。

 

トラック島時代について

トラック島の事を思い出すためにトラック島海軍戦記を改めて読むことにした。340頁にも及ぶ詳細な戦記である。この戦記の編集委員長は松元金一であり、その労に対して深く敬意を表したい。

 トラック島第41警備隊に配属された72期は、太田威夫、吉江幹之助、松元金一、そして小生の四名であった。太田は冬鳥の砲台長、吉江は砲術学校で対空射撃の専門教育を受けた防空隊長、松元は春島の砲台長、小生は本部の自衛中隊長として勤務し、アメリカ軍の上陸に備えてそれぞれの使命を果たすべく精励した。

各砲台長は、一城の主であり、自由もきくが、責任も重い。食糧不足を補うための芋作りは戦闘に匹敵するほど重要なものであった。

大砲や機銃があっても、それを操作する隊員が総員栄養失調では戦うことも出来ない。砲台長が一番頭を悩ましていた事だったと思う。自給自足がどこまでやれるか、そんな事を考えると甚だ不安だった。

さてトラック環礁内には春、夏、秋、冬の主な島の外に多くの小島があり、砲台が散在していた。19年6月頃、司令の命により、小生と松元の新米少尉が紙芝居の様な即製の机上射撃要具を携えて、射撃理論の講義と机上射撃の演習のため、砲台巡りをすることになった。

当時松元は爆撃による岩石の破片が左脚に当りギプスをはめ、松葉杖をついていた。各島砲台長の太田の所では椰子酒や椰子蟹の接待を受け、大いに談笑した事がなつかしい。その時、太田曰く、「貴様達の机上射撃、大丈夫か」 そう言われると余り自信が無かった。実際にアメリカ軍が上陸して来なかったから大丈夫であったかどうかは今のところ明らかでない。

次にもう一つ忘れることが出来ないのは、広瀬遼太郎の戦死のことである。彼は20年4月に東カロリン航空隊の偵察機のパイロットとしてトラック島に着任した。そしてある日、41警司令に表敬訪問に立ちよったことがある。小生同席してウルシー方面の偵察について聞くことが出来た。それから間もなく、4月28日、70期の三木琢磨分隊長の操縦する彩雲の2番機として、ウルシー偵察に飛び立つのだが帰還することかく消息を断った。

三木氏は偵察機の名パイロットで、小沢連合艦隊司令長官から感状を授与された我等の一号生徒である。

春島の基地で誠にささやかな炎天下の告別式に太田、吉江、松元、小生のクラス4名が参列した。大柄で色白な長髪の彼の童顔は今でも忘れることは出来ない。

 

終戦後の事について

終戦後、吉江、松元は早く復員したが、太田と小生は2010月頃から2111月まで春島で同じ宿舎で暮すことになった。2011月に米軍が春島に進駐して来た。米軍の指令によって、各海軍部隊は春島に集結し、混成の作業隊が編成された。作業は春島の1300米の滑走路を約500米延長してB29の発着に支障が無い様にする工事が主なものであった。それから米軍の居住施設の建設、道路の整備、水源地ダムの構築、自動革の修理、其の他色々な雑役もあった。士官宿舎が一つあって、8人くらいの若い士官が起居を共にして居た。太田と小生以外は全部大学出の士官で主計科、工作科の人達であった。

我々の任務は作業員の引率、米軍との折衝、通訳等であった。太田は主として倉庫、酒保、烹炊等の作業員の方を担当し、小生は専ら、土木等のハードの方を担当していた。作業の部署によって労働に大きな差異があり、烹炊負、酒保当番等は羨望の職場であったが、土木の方は過酷そのものであった。その最たるものは水源地のダム建設で異常なまでに日本人を憎んでいたフローマンという若い中尉の監督のもとで、隊員の指揮に当った。少しでも手を休めると早速罰直である。重い石を両手で一時間くらい持たせる。真綿で首を締める様なやり方である。そこで小生がフローマン中尉にかけあって、罰直はこちらに委せてもらうことにした。即ち、鉄拳制裁である。隊員もその方を望んだ。隊員と約束して、もし、中尉に咎められた時は、2発鉄拳を振うことにした。向うさんには、鉄拳の方がより厳しく映ったのかも知れない。

昼休みに木蔭で寝転んで居ると、先程殴ったばかりの隊員が小生を起こして酒保から拾って来たチョコレートをくれた事がある。少しかびてはいたが当時の我々にとっては大変貴重なものであった。

此の鬼中尉と4ケ月位付合ったが、2ヶ月位たった頃から次第に柔軟になり、小生を全幅信頼するようになった。時には雑談もする様になった。そして彼がアメリカ本国へ転勤が決り、トラック島を去る日、小生が日本人で唯一人、彼を見送った。彼から握手を求めて来た。「グッドラック、シーユーアゲイン」お互いの幸運を祈り.再会を約して彼は輸送機に乗りこんだ。それから50年、未だ再会を果してはいないが、若し彼が生存しているならば、一度会いたいと願っている。

余談になるがこの話をもとに 「昨日の敵は今日の友」と題して平成7年6月、毎年高山市で開催される英語スピーチ・コンテストに出場した。昨年は連続8年目の出場で 「ケンドー イズ エブリシング フォァ ミー」と題して話し、優秀賞をいただいた。ぼけ防止のために、今年も参加したいと思って居る。

さてトラック島の話にもどるが、太由と小生は2111月、トラック島最後の復員船となった輸送艦桐に乗船し、浦賀に着いたのである。復員者は海軍だけで軍人、軍属合せて645名であった。

我々2人は早速横須賀にある41警司令浅野少将宅を訪問することにした。司令はその時、戦犯容疑者としてグアム島の収容所に拘禁されて居られたのである。奥様は司令の帰還を信じて、主人が帰るまでどんなことがあっても家を支え、主人の体面を汚したくないと語って居られた。然し、司令は遂に帰られなかった。グアム島において刑死されたのである。痛恨の極みというべきかな。

トラック島で終戦となり、海軍の終焉を見届けた我等4名のクラスメイトはそれぞれの世界を求めて飛びたった。あれから50年が経過し、銘々の歴史を綴って来た。その中で一昨年松元が逝き、つづいて昨年は太田が逝った。トラック島での我々の青春時代を偲びながら改めて2人の冥福を祈りたい。

なお、太田君の葬儀には金沢の西尾 博が参列した。

(なにわ会ニュー78号9頁 平成10年3月掲載)

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