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大津懿徳君の葬儀に参列して

阿部 

 

大津君の病状が最終的段階にいたっていると聞かされたのは、去る3月22日夜の小クラス会の席上であった。つい先日の2月26日、大山隆三君を失ったばかりであるのに・・・・。そして遂に4月11日、大津が亡くなったとの知らせを受けた。

 

大津君は横須賀中学の出身である。温厚ながら内に秘めた芯の強さがあり、物事を正面からとらえて、じっくりと取り組んで集中するといった性格だったと思う。エンジニアにむいていたといえよう。彼とは同じ部の教務での付き合いはあったが、特に親しい間柄というわけではない。ただ共に飛行機ファンとして、海軍の新鋭機などについて語り合ったりした仲間の一人であった。さすがに横須賀出身だけあって(と私は勝手に思っていた)、飛行機についての情報はたくさんもっていたのでいろいろと教えてくれたように思う。卒業後の進路として、彼は当然航空(第一志望は操縦だったに違いない)を希望したはずで、航空整備の道を与えられ、好きだった飛行機と仕事として取り組むことになったのだから満足であったに違いない。余談ながら私は遂に航空の仕事に就くことができず、趣味に終始したのだから、私からみればうらやましかった一人である。

 

戦後、彼は米海軍横須賀基地に職をえて、技術者として勤務していたことは承知していたが、会って話を聞く機会はなかった。

昭和42年秋の頃だったと思う、当時私は砕氷艦ふじ機関長として、南極航海の準備に忙しかったところへヒョッコリ、彼がウッドワード・ガバナー社の名刺をもって挨拶に来たのである。ウッドワードといえばアメリカの優秀なガバナーのメーカーとして知られており、『ふじ』の4台の推進発電機と3台の主発電機の原動機にもウッドワード社のガバナーが装備されていた。発電機にとってガバナーが命だが、ウッドワードのガバナーは他社のものに比して格段に勝れており、我々運転者はこのガバナーに大きな期待と信頼を寄せていた。だから、よくもこんないい会社に入れたものだと心から祝福したし、彼も得意そうであった。ゆっくり話でも聞きたいと思ったのに何か急いでいるようで、短時間の会話だけで帰っていったのはいかにも彼らしいのだが、思えばこれが卒業後彼との極めてすくなかった出会いで記憶に残る最後である。

 

彼はどちらかといえば孤高を愛するタイプの人であったのだろう、クラスの集まりなどでもあまり会った記憶がない。私も随分出席率の悪い方なのでそういう結果になったのだろうか。お互い年賀状だけの付き合いが続いた。

 

彼は、ウッドワードガバナー社が成田に移って以来、単身赴任で、毎週末帰宅という生活を続けたという。病に取り付かれた一因になったのかもしれない。

平成元年早々勝胱癌のため秦野市の国立療養所神奈川病院に入院した。3月中旬に手術して8月5日退院、自宅療養にはいる。経過良好で同月22日には快気祝いをした(飯田、上田の両人が出席)ということであるが、同年10月初旬には前記病院に再度入院せざるをえなかった。平成2年正月は、一時自宅にもどって迎えることができたものの、それ以後は同病院での闘病が続いたのであった。

 

奥さんの話によれば、4月10日の夜、『これで俺の戦いはすべておわった』と洩らしたという。永い病院生活、激痛との戦いに不屈不投の精神力を発揮した彼も、刀折れ矢尽き、遂にこれまでと己が運命の結末を悟り、従容として死を迎えたというべきか。

 

鳴呼。平成3年4月110309、大津懿徳は不帰の人となった。享年67歳。人生80年の今日、惜しんで余りありというほかはない。

通夜は4月12日夜7時から、自宅でとりおこなわれ、連絡のついたクラス9名が参集して焼香した。斎壇に飾られた写真は勿論大分以前の元気だった時のものだが、パイプをくわえたあかるい笑顔のいい写真であった。

部屋には、生前彼が丹精こめて作りあげた帆船モデルシップが2隻置かれてあり、彼の人並み外れた集中力、持続力といったものが改めて偲ばれた。帆船づくりは最高のホビーとして知られ、挑戦するものは多いが、手先のセンターに席を移し、精進おとしを行い故人の想い出などを偲ぶ一時を過ごした。ここは生前、彼が夫人と共に好んでおとずれた想い出多い所の由。

 

戦後に生き残った54名が、その後よく元気で約30年間は一人も欠けることがなかったが、昭和50年代になって、一人また一人と欠けはじめ60年以降急増し、これで遂に戦後の物故者は10名に達したことになる。

参列者 阿部(順)、阿部(達)、安藤、飯田、飯盛、上田、金枝、蔵元、斎藤、佐丸、野崎、広田、三沢、村山、森山、山下

(なにわ会ニュース65号8頁 平成3年9月掲載)

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