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平成22年5月4日 校正すみ

大津懿徳君を悼む

村山  

大津君を見舞った平成2年11月下旬、以前に彼が入室していた病室を訪れたが、空っぽであった。病が小康をえて、しかも、当日は祝日でもあるので、帰宅しているのかなあと胸を撫で下した。ところが、たまたま看護婦詰所の前に来て、彼の名札が目に入り、病室が変わっているのを知った。扉には赤いカーネーションが一輪付けられてあった。ちょっと奇妙な感じを受けた。

彼は、ベッドに横たわり、テレビを観賞していた。90年NHK杯国際フィギアスケート競技大会の番組であった。彼は、やや疲れた表情ではあったが、いつもの元気な態度を装い病状を話してくれた。

去る8月初め、私が家内を連れて見舞ってから間もなく下血し、容態が急変して食事が取れなくなり、専ら点滴に頼っている。最近は、病状がいくらか安定して血の出るのが止まったが、左背中付近に痛みを覚えるのだ。点滴も血管が硬くなって入らなくなり、時々止めていることもあると、淡々と語ってくれた。その姿は、いじらしく胸が詰まる思いであった。

彼の油絵の大作「大山浅春」が「日本の自然を描く展」に入賞し、平成2年8月、上野の森美術館に展示された。私が撮ったその記録写真を彼に手渡したとき、彼の眼がキラッと一瞬輝いた。彼の創作意慾と執念とを垣間見る思いがした。この正月以来画き続けてきた油絵は、八月初旬病状の悪化以降筆をとっていないという。さぞかし、幸い、淋しい、忍従の日々であったろう。

この2月初旬、野崎貞雄君と一緒に彼を再び見舞った。彼は、予想外に元気そうであった。康子夫人のお話では、前日までは病状が悪く、見舞にこられても受け答えができないのではないかと、案じていたという。しかし、彼は、この日は、気分がよいようだった。病状にはあまり変化はないが、背中の痛みが腹部の方に移ってきているという。彼は、車椅子に乗り替え、ご子息に押して貰って病室外にある面会所に出た。そんなことをしてもよいのかと、心配して尋ねると、大丈夫だよと答える。手に小さな鞄を、宝物でもあるかのように、大切に持っていた。どんな大事なものが入っているのであろうかと、思案をめぐらしていると、その鞄からマドロスパイプを取り出した。彼は、その愛用のパイプに、ゆっくりと、丁寧に、刻み煙草を詰め、パイプをくわえ、懐かしい 「ジッポー」 のライターで、徐に、火を付けて一服吸った。その光景は、スローモーションフィルムを回しているようである。彼は、瞑目しながら、静かに、味わうが如く、煙を吐いた。愛用のパイプとともに過こした人生の、楽しかったこと、苦しかったことなど、数々の出来事に思いを走らせているのであろう。実に、うまそうであった。とても、重病人とは思えなかった。食慾がないので食事が取れないし、点滴も血管がぼろぼろになっているので入らない。先日も液が漏れて腕が暫らく腫れていた。煙草だけが楽しみなのだと。マドロスパイプをくわえた彼のうれしそうな姿を見るにつけ、哀れであった。慰めるべき言葉もなかった。いくらか疲れた様子が見掛けられ、20分程で病室に戻りベッドに横になった。

彼は、この日、私達を歓迎するため、精一杯の振舞いと会話をしてくれたのである。

私達は、程無く、彼の病状を気遣いながら病室を辞した。この日が、彼との最後の日となってしまった。

彼は、横須賀中学から選ばれて海軍機関学校に学んだ。彼は、在校中、棒倒しのときの「あんこ」のように、花形ではないが、絶対必要な存在であった。体育はそれ程得意ではなく、特に、水泳が苦手で万年自帽で卒業した。

航空戦艦伊勢乗組を皮切りに、第762、攻撃第501、大分の各航空隊に籍を置き、鋭意飛行機整備の業務に専念した。緻密で、徹底主義である彼の性格から推し量るに、飛行機の一機一機を、丁寧に、かつ完璧に整備し、上官や下僚の信任は、さぞかし、厚かったことと思う。

彼の復員業務の仕事は、浦賀上陸地連絡所である。私が復員者の輸送業務に従事するため第8海防艦に転出するあとを引継ぎ、南方から復員する人達のお世話に力を尽した。

戦後、旧横須賀海軍工廠に保管されていた工作用部品の整備・分頬・賠償の業務を20年ほど続け、昭和40年初め、日本ウッドワード・ガバナー株式会社に入社し、日本復興の一翼を担い、枢要の地位にあって活躍した。

身体の不調を感じてからも責任感の強い彼は、仕事を投げ出すことをしなかった。その無理が崇って医者の診断を受けたときは、既に、手遅れであったと聞く。

彼は、どちらかというと、無口の方で、自分から進んで発言していくことは少ない。しかし、問われることに対しては、テキパキと、しかも、懇切に答える。目立たない縁の下の力持ちというにぴったりのタイプである。それだけに、一旦彼を知ると、とことん信頼できる頼もしい男である。

康子夫人からも、無口な夫を理解するのに一方ならぬ努力と苦労をさせられましたと伺った。

しかしながら、彼と康子夫人との出会いは、誠実で、一途で、しかも、ユーモラスな彼の一面をうかがうことができ、微笑ましさを覚える。彼と康子夫人とは、夫人の友人の紹介で知り合うようになった。お互いに一目惚れだそうである。お見合いのとき、彼は、風采を気にしないのか、菜っ葉服のような服装に、新聞紙で包んだ弁当箱を持ってやってきた。彼があのスマートな海軍士官であったとは欲目にもいえない。しかしながら、康子夫人は、彼の仕種や話の内容からして、ひしひしと、彼の誠実さが感じとれた。交際を始めると、彼からは毎日のようにラブレターがくる。但し文章の 「てにをは」は間違いだらけ。(書き慣れないラブレターのため彼の思考が分裂状態にあったからではあるまいか。)電話もよく掛けてくる。そののぼせようは常人ではない。デートの待ち合せ場所は主に東京駅、南口と決めてあるのに北口で待っていたりして、トンチンカンなことがしょっちゅうあった。

 デートコースは、宮城前、千鳥ケ渕周辺を行ったり来たり、数時間以上歩き詰め、お腹が空いても、彼は、食事をしようとも言い出さない。夫人は、空腹のまま家に帰り着くと、直ぐ、お茶づけをかき込むことがよくあったとか。 

彼は、夫人に夢中のあまり、空腹も忘れ歩き続けたのであろう。

彼は、病床にありながら、新たな挑戦として.油絵を自学自習した。僅か6ケ月余にして「日本の自然を描く展」に見事入賞を果たした。このことは、彼の優れた芸術的才能にもよるが、生命の尊さに対する人一倍の自覚と強じんな精神力の結晶であると深く頑が下がる。

彼が病をえて療養すること2年有余、その間、康子夫人は、彼に栄養をつけさせるため心を込めて作られた手料理をもって、鎌倉の自宅から秦野の病院まで一日も欠かすことなく通い続けられた。夫を思う愛情の深さに胸が詰まる。

過日、康子夫人から頂いたお手紙の一節に、

「食の方も次第に細くなり、身体を熱いタオルで拭く時など、痩せて枯れ木のようになった主人をみますと、心がしめつけられる思いでございます。でも、生に対して真面目に一生懸命生きている主人に対しますと、私も、主人と共に・・・といった気持ちで毎日を暮しております。日が終わりますと、ホットした気持になります。」

と心境を述べておられるが、夫の死期を知りつつ、懸命に看護に努められた夫人の気持ちは、どんなに切ないものであったろうか、言葉では言い尽せない。このことを思えば、彼は世界一幸せな男だった。

数年前、横浜港にある旧三菱造船所のドックに、帆船日本丸が記念船として永久に係留された。その一般公開日に、日本丸に見入る彼の姿がテレビで放映されるのを、私は見たことがある。日本丸を食い入るように眺めている彼の姿は、カメラマンにとっては、帆船マニアとして格好の被写体であったのであろう。このことを彼に伝えると、彼は、うなずきながら、模型帆船作りの苦心談を聞かせてくれた。その話し振りは、童心に返ったかのように、嬉々としていた。

帆船の図面を引く最初から、木工、板金、製縫、さらに、最後の仕上げである塗装まで、すべて手作り。自宅には、彼が精魂を込めて作った大小さまざまの帆船の模型が、ところ狭ましと飾ってある。死期を自覚した彼は、死の前日、康子夫人に向って「これで自分の人生における戦闘は中止である。」といって静かに目を閉じた。彼のこの最後の言葉は、彼の、一本気で、厳しく、真摯な生き様を象徴しているものといえる。

彼は、日頃、念願とした大型帆船に乗り、順風に帆をはらませて、七ツの海に向って、雄々しく、たくましく、船出していった。時に、平成3年4月11日である。彼の画いた「浅き春の大山」は、今、まさに、春酣、花吹雪が舞っていた。彼の、航海の安全を願うとともに、冥福を心からお祈りする。

(平成3年4月14日記)

(なにわ会ニュース65号6頁 平成3年9月掲載)

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