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平成22年5月4日 校正すみ

大津への弔辞

飯田 武二

大津、何で逝ってしまったのか、頑固で頑張りやの君だったのに、昨年夏見舞いに来た帰り道、奥さんは「医者からは言われているのですが、何とか一日でも長くと、本人のためならすべてをささげたい気持ちでやっています」と洩らしておられた。

小学生の孫に「お父さん」と呼ばれ、若いつもりで昔の飛行機を語る姿が目にうかぶ。昨夜も古い本を持ち出して一生懸命説明してくれた。何かをこらえながら思いをこめているようでした。生者必滅会者定離とは申せ、つらいことです。 

大正12年生れのわれわれは、昭和1512月舞鶴の海軍機関学校に第53期として入校しました。横須賀中学出身の君とは身近に感じていました。昭和18年9月戦争酣の頃、靖国の花の梢に咲いて会おうと卒業し、Engineering Officerとして戦争に加わり、終にクラスの半分を失いました。

昭和20年8月、敗戦とともに仕事もなく、食料も乏しい中にほうり出され、何とかしなければと別の苦難の道を歩くことになりました。

しばらくして、横須賀の米海軍基地司令部に職を得て、英語こそと思い、懸命に勉強し、時々行くと、外人と語り、英文タイプを打つ姿に接しました。

持ち前の不屈の頑張り精神が、短期間に成果をあげたのでしょう。写真に興味を持つと、自ら暗室を作る程のこり屋でもありました。

この頃からパイプ煙草をたしなみ、いつもパイプをくゆらせる姿が目につき、苦しい時や、怒った時など、スイ口をかみしめてしのいだことだろうと思います。

 

結婚して間もなく、荻窪のお宅に夫婦でまねかれ、美しい奥さんを紹介してくれました。

求められて、23年前には米国系の会社ウッドワード・ガバナー社に入り、その能力と人柄を買われて取締役総務部長の要職につき、経営に参画しておられました。会社のある若い人には頑固じいさんと言われ畏敬されていたようです。また心のやさしさを秘めた人柄にひかれるものがあり、涙が出て仕方がないと声をつまらせて語ってくれました。

「毎週金曜の夜は、妻子の待つ鎌倉まで成田から車をとばして帰り、翌週ちゃんと勤務するのは並の努力ではできないものです」と。

平成元年から不治の病にとりつかれ、献身的な奥様方の努力にもかかわらず、丁度桜の花の散る頃をえらぶように逝かれました。どうか残された奥様をはじめ遺族の皆様に御加護を賜りますよう。

御冥福をいのります。

 

平成3年4月13

海軍機関学校第53 友人 飯田武二

(なにわ会ニュース65号9頁 平成3年9月掲載)

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