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平成22年5月4日 校正すみ

大山隆三君を偲んで

大森慎二郎

2月28日期友大山隆三君の急逝を知った、未だ元気に活躍しているとばかり思っていたので非常に残念であった。

小生も3年前心筋梗塞で緊急入院一命をとりとめてから病気と共存している状態のため此の処会合にも出席出来ず、大山君の健康状態について知らなかった。

彼とは三号時代第2分隊員として起居を共にした間柄であると共に、三号2分隊員は二人丈となっていたので寂寥(せきりょう)の感をひしひしと感じた。

卒業後は夫々潜水艦と整備とに分れ再び会う事は無かったが、戦後多数の戦没者の中から生き残り、ブルドーザー工事(現青木建設)に勤務していると聞いていた。

始めて会ったのは國神社の参拝クラス会であった、其後企業コンサルタントの資格をとる等活躍していると聞いていた。今年年賀状が来ないので気にはしていたが、かくも早く逝ってしまったのはかえすがえす無念である。

彼との想い出はやはり1学年後半、苦楽を共にした2分隊三号時代の事が懐かしく思い出して来る。

入校以来6ケ月、西も東も分らない四号時代、右往左往していた生徒館生活も少しつつ慣れ又要領も覚えていった為それ迄連日の様に見舞れた巡検用意五分前の廊下、食事五分前の洗濯場の石畳、寝具異常のトラスコ集合等も少しつつ回数も減り、間隔も開いて来た頃6月に分隊編成替えがあって2分隊に編入された。

2分隊は51期の「パッキン」こと松本茂美生徒が生徒長として君臨し厳しいが「サッパリ」とした生徒長の人柄のお蔭で分隊内には和気あいあいとした雰囲気がただよっていた。

しかし訓練は次々と行われ、始めての体験を味わっていったが、唯一の救いは何といっても2分隊の寝室の位置が中央階段に最も近い処にあったおかげで、前の9分隊の頃と違って朝の起床動作の際に中央階段の下で待ち受ける週番の、寝覚めの一発を喰う被害が殆んど無かった事である。3階の端と2階の中央とでは絶対的に位置の条件が違うので今迄時々「待て!」をかけられた者には大変な味方になって呉れたものだ、大山始め他の三号も思いは同様であったと思う。

始めてまわしをつけてやる相撲、軽量腰高の大山や小生には苦手の一つだ。

7月に入ると蛇島通いの短艇橈漕で始まる水泳訓練が始まった。又敦賀湾内常宮への移動訓練帆走、2000米競泳が行われ日頃鬼の一号も厳しさは手加減している様で楽しい一週間であった。さらに七米飛込み、遠泳。そして待望の夏休暇に入った。

秋に入るとお定まりの駈足練習、長田野陸上演習そして秋のメインエベント10哩駈足競走が行われた。

三号にも夫々得手、不得手がありお互いに励まし助け合ってきた仲間であった。

時局は増々急を告げ11月、一号51期生徒は卒業後直接実戦部隊へと巣立っていった。

分隊員24名、中現在生存者は数名を数えるのみとなり、2分隊三号も9名中戦死6名、戦後没2名となり淋しい限りであるが、開戦直前、お互いに力の限り青春をぶつけ合った6ケ月は忘れ得ぬ想い出である。

大山隆三君の急逝に接し、当時の生活を顧みて今は亡き先輩同期友の冥福を心から祈ってやまない。

合掌

(なにわ会ニュース65号6頁 平成3年9月掲載)

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