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平成22年5月5日 校正すみ

押本さんを偲んで

74 小林 孝雄

 昨年12月27日夕方、押本さんの通夜に参列するため会場に入る直前、たまたまそこにおられた奥様にお会いできたので、自己紹介とお悔やみを申し上げたところ、奥様から「伴さんが亡くなったことで、がっくりきた様子でした。それから次第に弱り、11月初旬に入院して、ついに寝たきりになってしまいました。」というお話を承りました。

 このお話をお聞きした時、40年前の数々の思い出がよみがえって参りました。40年前、すなわち昭和36年、当時郵政省人事部で国際機関に関する業務を担当していた私は、突然外務省に出向を命ぜられ、ODA(政府開発事業)の電気通信担当として、経済協力局技術協力第一課に勤務することになりました。課長は斎木千九郎という主計短現のネービーで、兵学校出の私を大歓迎してくれました。当時の外務省は、日本の国際的地位の向上とそれに相応しい役割を分担するため、ODA事業は重要な外交課題となっており、各省から専門家が出向してきておりました。

 齊木課長は外務省にもネービーがいるよと言って、私に紹介してくれました。その中の一人が当時移民局勤務の伴さんでした。伴さんは経理学校出身で72期のコレス、高知県出身の実に豪放磊落(らいらく)、かつ、気さくな人柄で、在勤中いろいろとご指導頂きました。当時移住局も経済協力局と並んで、重要な外交課題を抱えており、海外移住の振興、移住者の援助、指導等多忙な業務に追われておりました。伴さんは、移住行政の円滑化と移住業務の合理化を図るため、複数の民間団体を統合し、「海外移住事業団」を設立する推進責任者として活躍中でした。

 或る日、伴さんから「小林君の飛行学生時代の教官が見えているからすぐに来ないか。」と電話があり、伴さんの所を訪ねると「押本です。72期です。」と自己紹介をされましたが、それが飛行学生時代の安藤教官だと分かるまで暫くの時間がかかりました。私は44期の飛行学生でしたから、直接の教官ではなく、43期の諸君から「あの人が安藤教官だ」と教えてもらったことがありました。私の記憶では丸顔の精悍な顔つきで、威厳に満ちた教官でした。いま始めて挨拶を交わした押本さんは細面の如何にも学者風で、話を続けるうちに、次第に現在の押本さんの姿が明らかになってきました。伴さんは事業団の組織、人事等について検討中に、当時日本能率協会で事務能率の仕事をされていたコレスの押本さんの存在を知り、移住事業団に入って、専門の事務能率改善のため働いて欲しいと懇請されていたようでした。昭和38年に伴さんの努力が実り、「海外移住事業団」が設立され、押本さんも事業団に正式に入ることが決まりました。

 その頃から押本さんは移住局との打ち合わせや会議のため、外務省に訪れる機会が多くなりましたが、終ると必ず私を呼んで玄関で待ち合わせをし、伴さんと3人で付近のコーヒー店やレストランで、移住問題や海軍の思い出を語りながら時を過ごしたものでした。

 押本さんは、移住事業団に入った後、性来の研究熱心から移住問題を熱心に勉強され、伴さんとの会話も、日本の移住政策について、議論を交わしたことを側で聞きました。押本さんは横浜センター所長や本部の企画、総務の主要ポストを歴任し、事業団が発行していた「移住研究」には数々の論文や調査レポートを掲載され、お会いする度にそのコピーを頂きました。押本さんの熱い研究態度には何時も敬服していました。

 私は昭和39年8月、3年の出向期間を終え、その後NECに入社して、海外事業に従事することになりましたが、不思議とその後も押本さんと伴さんとの3人の縁は深まり、お二人が亡くなるまで親交が続きました。「伴さんが亡くなったことで、がっくりきた様子でした。」という奥様のお話は、壮年時代に我国の移住問題に、共に情熱を燃やしたお二人を思うとき、このお言葉は私に痛い程よく伝わって参ります。同じ年に共にこの世を去ったお二人は、天国で再会を喜び、昔のように語りあっておられることと思います。

押本さんへの忘れ得ない感謝は、私の母校長野県上田中学出身の先輩各位の業績を歴史として残すため、平成8年2月校歌の一節を取って「いざ百難に試みんー上中ネービー列伝」の刊行を決めた時のことです。72期には故土屋睦さんと故細川孜さんのお二人がおられましたので、早速72期の会報編集担当の押本さんに、お二人と同分隊で思い出を書いて頂ける方を紹介してほしいとお願いしました。偶然にも押本さんは一号時代土屋さんと同じ13分隊で、「僕が書くよ。」と直ぐに応諾して頂き、「寡黙の人・土屋睦」と題してご寄稿頂きました。その他、土屋さんのために毎熊祐俊氏が、細川さんのために眞鍋正人氏と清水尚氏にご寄稿頂き、平成10年3月無事刊行することが出来ました。編集上特に苦労した点は、艦船部隊と異なり、航空部隊の組織編成が複雑で、その調査に難渋したことでした。押本さんは我が事のように調査し、電話で連絡を下さったり、資料を送って頂いたり、大変なご迷惑をお掛けしました。

 いま、働き盛りの時代に、3人で時局を論じ、海軍の思い出を語り合った当時を回想し何とも言えない寂しさを覚えております。

 ただ、押本さんと伴さんの御冥福を祈るのみであります。

74期 3名の思い出は押本君が教官だった74期の飛行学生の会の世話人である佐々木郁郎氏の尽力により投稿して頂いたもので、クラスの目とは異なった見方で押本君を思い出して頂き、貴重な資料でここに投稿いただいた三氏と佐々木氏にあつく御礼致します。

(なにわ会ニュース86号59頁 平成14年3月掲載) 

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