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平成22年5月5日 校正すみ

押本直正君のこと

  五郎

平成131113日、横須賀共済病院に押本君を見舞った。その1月前ぐらいに、彼と電話で話をした時はまだ無理しても一日4500歩は歩いている、という話だったので安心していたが、病床の彼を見てがっくりした。うとうとしていたが、「泉さんですよ」という奥さんの呼びかけで、何となく分かったのであろうか、目を開けて呉れたが、その目に力はなかった。私は心を鬼にして「おい、おい押本!まだくたばる訳にはいかんぞ!」と励ました。しばらくして、彼は「俺は今、人間の余命ということを考えている。」とつぶやいた。皮下注射の際の出血であろうか、やせ細った腕が赤紫に変色して痛々しかったが、握った掌は案外温かであった。やや寒い日だったので、私の手の方が遥かに冷たかった。ベッドに横たわっていた彼は、頬から顎にかけてひげが大分生えていた。そのご面相は乃木大将そっくり、古武士の風格が漂っていた。今まで、彼のひげ面など見たこともないので、彼の知られざる豪気な一面を垣間見た思いであった。自分自身も乃木将軍に似ているだろうと奥方に言っていたそうである。

その後見舞いに行った連中から色々情報は入るが、一喜一憂ただ案ずるだけで如何ともしがたい。そこで年末クラス会で期友に檄(げき)を飛ばし、加藤・押本の文集作成を呼びかけたが、加藤は兎も角、押本は生存中、どうも書きづらいという声があった。

 

そう言う私自身も同じ気がしないでもない。しかし、言いだしっぺだから書かねばならぬ。もし、この文集が彼の生存中に完成し、そして彼が読んでくれるなり、或は誰かが読んで聞かせて貰うことでも出来れば、こんな嬉しいことはない。

 

ところで、私自身、生徒時代も卒業後も、彼とはほとんど接触がなかった。初めて話らしい話をしたのは、昭和41年頃、銀座で儲かりもせぬ広告会社をやっていた時分のことだったと思う。彼から電話があって一緒に昼飯でも食べようということになった。

生徒時代の端正な顔に見覚えがあったかどうかも確かでないが、正直彼を見て驚いた。彼はよくもこれで生きて動いているなと感じた程の病み上がりであった。聞けば片肺を切除したとのこと、それ以来、柳に雪折れなしのたとえのとおり、飄々(ひょうひょう))たる長生き振りである。正に人生の達人というべきであろう。

 

彼と比べようもない程元気であった連中より、遥かに長生きしたというのが何よりの証拠である。

しかし、人生の達人たり得た最大の所以は、生涯の伴侶として、寿子賢夫人とめぐりあえたことであろう。おまけに飛び切りの美人である。仄聞(そくぶん)するところによれば、クラスの土井輝章のお父上、土井伸二さん (四十五期)ご夫妻のお世話によるものらしいが、詳しいことは承知していない。そして、病み上がりの彼が国際協力事業団に奉職するについては、コレスの伴正一君の尽力があったものと聞いている。

それにしても、この仕事は彼にピッタリ、結構楽しくやったのではなかろうか。親方日の丸で海外方々を飛び回ったその頃、俺は日本海軍のパイロットだと称し、旅客機をハイジャック?して操縦させて貰った話など、身体に似ず心臓だけは超頑強だったようだ。もっとも、これは勝手にこちらが決めつけているだけで、仮にも仕事となると、多少は苦労や嫌なこともあったかもしれない。しかし、少なくとも外目には楽しそうな仕事に見えた。会誌にも、楽しかった海外こぼれ話が散見するのは諸君ご存じのとおりである。仕事も家庭生活も他人から見て、うらやましく見えるのは人生の達人といっても差し支えあるまい。

 

家庭生活について、若い頃のことは分からない。しかし、夫人とも顔を会わせることになった中年以降は、夫人も腎臓の持病で到底お元気とは言えない状況であったと思う。それだけ、二人がお互いにいたわりつつ醸し出す夫婦仲は、わき目にもほんわかとしてうらやましく、いささか己の亭主関白を反省させられたものである。

 

何時のことだったか忘れてしまったが、ある日、私は彼の家に泊めてもらった。そして、その翌日ご夫人も一緒に彼の車で三浦半島をドライブした。昼は途中の公園で奥方手製のお弁当をご馳走になった。特別のご馳走でもないのに、強く印象に残っているのは、ほのぼのとした二人の雰囲気がLからしめたのであろう。そしてドライブの途中、彼方の松林の風景を指さして彼は「ここから見るこの景色が、俺は大好きだ」と言ったのも印象深い。大体彼にとって三浦半島など地元も地元、珍しくも何ともないはずなのに、そんな卑近な風情を楽しむ彼の姿に人生の達人振りを大いに感じたものである。

 

しかし、圧巻はなにわ会会誌の編集であったろう。48年編集長交代以来、自分も楽しみながら、人の面倒も見る。これほど彼にピッタリのものはなかった。勿論、加藤からその役を引き継いでからの苦労たるや大変なものであったし、そんな苦労を知らないで勝手なことを言う連中の注文にも腹が立つことも多かったと思う。勿論大勢の中には勝手なことを言う者も多い。編集方針についても何かと文句をつける。そう言う俺様だって、「貴様は押本書店の社長だから、貴様の好きなようにやるしかネーやな」と言ったものだ。最近では活字をもっと大きくして見やすくしろと注文をつけたが、聞いてもらえなかった。

しかし、流石の彼も、最晩年には気力体力に衰えが見え、遂に平成13年に入ると編集長交代を真剣に考え出した。そして、この俺に後釜を引き受けろと言ってきた。俺はとてもその任ではない。そこで一計を案じて市瀬に頼み込み、3月15日押本慰労会と称して有志十余名を鎌倉に召集し、まんまと伊藤正敬を次期編集長に祭り上げることに成功した。結果的には押本も安心してくれたと思っている。

その間、約30年間、彼の文筆のさえについては多言を要しないが、時には軽妙酒落、時には資料考証に基づく論文詞、或は昔の思い出話の余りにも良い記憶、若年性痴呆症の私など驚嘆するばかりであった。しかし、私が最初に驚いたのは、当時の編集長大谷に協力して原稿集めに苦労していた頃の会誌2号に、彼が寄稿して呉れた長編詩「我が青春の賦」の見事さである。

 

江田島3年の思い出を情緒豊かに詩文に綴って余す所がない。

その後も種々の作品を拝見、その豊かな文学的才能を思うと、或は彼もまた人生の道を誤ったのかも知れない。そんな思いもあって、「ショーナンシジン」というニックネイムを押本君に進呈した。私がケツプガンクラブ出場者を出走馬に見立てて、CGC杯大競馬誤報本命 本名) 懸賞で発表したが、これは少々場違いで、余り一般受けしなかったようだ。

流石にゴルフはあの体力の為か、たいした成績をあげることは出来なかったが、古今未曽有、空前絶後と銘打った卒業40周年還暦記念のゴルフ大会、これは江田島クラス会の後、宮島から西の方、元海軍の仮設飛行場跡の美和GCで行われたが、これに見事優勝。前回BBの汚名を返上し、「鳴呼、快なる哉」と雪辱の報告文を認めている。あの身体、そしてあの年齢で見事な頑張りだったと思う。

 

押本君の思い出は余りにも多すぎる。何を書いてよいか筆の進まぬうち、遂に旧(ろう)26日、昨夜逝去との報に接した。盛大な葬儀は彼の人徳、そのあとの精進落しの席は、まるでクラス会さながらであった。しめやかながら、彼に思いを寄せての一刻は、まるで彼がその席にいるかの様であった。元気なら、ここで、押本得意の「花も嵐も踏み越えて」が出てくるのに、そればかりは残念ながらどうにも致し方なかった。いずれまた、近い内にそちらで一杯やり直すことにしよう。

押本君、しばらく我慢せいや。

(なにわ会ニュース86号39頁 平成14年3月掲載)

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