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平成22年5月4日 校正すみ

球友を失って

山田 良彦

10月21日小沢君急逝の知らせを奥様から頂き、ただただあっけにとられた。

9月17日、湘南CGCに出席、続いて29日葉山の錨会に出席したと聞いていたのに。そういえば、あのゴルフ上手な彼がスコアを乱し勝ちになったのが、11年の夏頃から、その後も何となく何時もの精気を感じなくなり、疲れを気にしていたが、持前の気力でカバーして来ていたのかも知れない。9月17日湘南CGCの折、盛んに疲れを気にするので、「病院では何と?」聞くと「鎌倉では肺に影が少し」と言うので「何処でも、何軒でも良いからしかるべきところの専門医に納得いくまで検査してもらえ! 早い方がよいぞ!」と。「ウンそうする」との返事。尚介ドンの元気が今一つ感じられなかった。

旬日にして「おーい 山田、慈恵医大を紹介して貰い検査を受けたが何ともなかった。」と喜んで電話を呉れた。「良かったなあ、お互い頑張ろうぜ」と励ましあったのが、彼との最後の会話。それから、半月か1ヶ月で逝ってしまうなんて信じられない。自分の体に対する自信以上に病は進んでいたのかも知れない。ただ病院が何故?

彼とは、兵学校、戦時中とも余り交流は無かった。ただ、俺は栃木の山猿、彼は甲府の山猿。田舎者の武骨者の点が似ていたように思う。大学時代、彼は造船、俺は経済、年1、2回の山上御殿の会合で顔を合わせる機会はあった。本当に付き合いが多くなりだしたのは、お互いに居を湘南に移してからである。

湘南CGC発足5年後の昭和58年、地方勤務から帰って来た彼が忽ちコンペを席巻、常に上位に君臨してしまった。左手の甲を地面に叩きつけ、ターフをとる彼一流の打法に感心しながら、手首は大丈夫かな、山猿だから等揶揄(やゆ)したことを思い出す。 

彼とのゴルフの思い出は多い。毎回のCGCの外、7、8年前に軽井沢に岩松、樋口との4人で、その2年位後、湯ヶ島に樋口、後藤との4人で午後到着して一ラウンド、翌日午前一ラウンドをこなした。皆元気だった。その他蓼科、平原、保土ヶ谷、湘南と何度一緒に遊んだことか。

 いつかゴルフの帰りに拙宅に近い彼の実弟宅に転がり込み、ご迷惑をおかけしたこともある。その実弟も小沢の7ヶ月前に亡くなられた由。

 また、彼が二号、俺が一号の時同分隊だった甲賀公夫君の墓参りに同行したことも忘れられない。

 彼は豪放磊(らい)落な一面、非常に真面目で、日本造船学会でも信望厚く、日本造船一〇〇(?)年史の編集員の一員として、最後の頃はその仕事に取り組んでいたようである。その半面、非常に人なつっこく彼との会話での

「ホントカソーカ(語尾を上げる)」疑問」

「ソーカソーカ (語尾を下げる)「納得」

の彼独特の音調口調が楽しい会話であった。 

 奥様の話によれば、風呂に入ると何時も大声で海軍の歌を歌い、中でも巡航節が大好きで何時も歌って楽しんでいたらしい。近所の人がまた小沢さんのご主人の歌が始まったわよとか・・・。

市川太門生まれの山猿君も余程海が恋しかったに違いない。

 最後に「色々体の検査を受けたが、肺だけをもう少し」と悔やんでいたようである。質実剛健で自分の体に自信を持ち過ぎたのかも。惜しい男を失った。

ただただ、尚介ドンの御冥福を祈るのみ 

(なにわ会ニュース86号9頁 平成14年3月掲載)

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