TOPへ   物故目次

平成22年5月7日 校正すみ

佐伯 将人君の死を悼む

佐藤 健三

 

8月22日、大阪は朝から猛烈な暑さで、ボーとして出社したところ、槇原から、佐伯将人君が今朝亡くなったとの電話、余りに突然な訃報で容易に信じられなかったが、今もって半信半疑である。

彼は東京のど真ん中育ちの典型的な都会派生徒で、スポーツ万能、動作は敏捷にしてスマート、その上に頗るハンサムと来ては、我々田舎育ちの者にとっては唯々(まぶ)しくも羨ましい存在であった。

彼は東京高師付属中学校時代、サッカーに熱中の余り浪人したというだけあって、クラス随一の実力を持っていた。分隊対抗戦では四号の頃から正選手になって、変幻自在、華麗なプレーを見せてくれた。優勝時の彼の得意気なユニホーム姿の写真を何校か持っているが、彼の所属する分隊が必ず優勝したのは見事であった。今でも彼の活躍振りが(まぶた)にまざまざと浮かんでくる。

海軍経理学校では、毎週火、金曜日の温習時間半ばにおいて、20分間程度のお茶(銘菓または汁粉付き) の時間があって、その際その過に誕生日に当たる生徒は、所感をテーブルスピーチすることになっていた。

当直監事以下全校生徒の前でのスピーチのため、該当の四号生徒は皆緊張し、折角の銘菓の味もゆっくり味わえないのが普通であった。

ところがある夜のこと、彼は、スピーチは適当に端折って、突如、「野ばら」の独唱を始めた。彼の堂々たるドイツ語のテノールは、殺風景な生徒食堂に響き渡り、全校生徒を暫くの間芸術の世界に導いて呉れたことだった。

その度胸と美声には我々一同改めて驚嘆した。が、その夜、一号生徒の修正があったことは言うまでもない。

あれから早や40有余年、半世紀近く経ったが、昨日のことのように想い出される。彼とは卒業後毎年文通は続けてきたが、不思議に出会う機会がなく、そのうちにと思っているうちに、突然訃報に接するとは誠に以って痛惜に堪えない。

小生の脳裏には、若さ(みなぎ)った君の海軍生徒の姿が焼き付けられたままである。好漢、佐伯将人君、安らかに眠られんことを。

慎んでご冥福をお祈り申し上げます。

(なにわ会ニュース60号11頁 平成元年月3掲載) 

TOPへ   物故目次