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平成22年5月7日 校正すみ

坂元 正一君を偲ぶ

      岩松 重裕

坂元君、君が俺より先に逝くとは!

()堂々、健康そのものであつた君、喘息もちで、小学校6年生で体重29キロしかなく、神戸一中入校を1年待機させられた私、(それで君と同学年になったのだが)その君が先に逝くとは。

  海軍兵学校受験の時

中学の5年間2度同じ組になった。忘れられないのは5年5組で机を隣にしたその夏、海軍兵学校を受験した時のこと。君は海軍兵学校に行きたいと言う。私も行きたいと思ったが、体格規準を見ると 体重、胸囲、身長ともにぎりぎり、これでは身体検査ではねられると思っていた。君と毎日一緒に神戸から大阪の受験場に通った。あの試験は5日間であったか。試験の結果は当日午後5時頃発表、不合格者は翌日から試験場に入れない。何とかはねられずに進んだが、君は自信ありげだった。11月3日発表、合格を一緒に喜び合ったのが忘れられない。

  産婦人科医は君の天職であったか

もう一つ忘れられないこと。合格発表の後、ある日私は君につまらぬ質問をした。

「坂元、おまえ長男やろ、産婦人科医院は誰が継ぐねん」

「弟が継ぐやろう」

彼の家は神戸で有名な産婦人科医院であった。家は神戸市の中心にあり、彼は三代目。当時の一般的な考え方では当然長男の彼が引き継ぐものと思われていたが、彼は海軍に行こうと固い決心をしていたようだ。しかし君は産婦人科医となった。しかも世界的な名声のある医師となった。神の導きであろうか。

中学、海軍兵学校を通じ7年、戦後も同期会などで時折顔をあわせていたが、産婦人科、しかも医会の重要な地位を勤めていた君は殆ど出席出来なかった。東京に在住の神戸一中の会にも同様であったが、会の世話人をしていた私は何時も丁寧な返事を貰った。ここ3年の返事を今読み直してみると、彼が体調を崩してからの様子がよくわかる。

手術のあとも万全ではなかったのか。それでも医科学会のため、少子化対策のため努力を続けていた姿は尊い。16年4月と18年4月は会がなかったので記録もないが、最後の18年10月の案内には返事がなかった。決して返事を欠かさない君のこと、この頃大分弱っていたのであろう。気が付かなかった。残念。

君の返事を記して冥福を祈る。

      

平成15年4月

 4月は学会シーズン 私は極めて多忙な時期、お会い出来ないのを何か寂しい気持ちで迎えています。家内は問題の病ばかり重なり殆ど外出致しません。どちらが先になるか分りませんが、死ぬまで現役かなアとの想いしきりです。皆の顔を思い浮かべてペンをとりました。御元気で。

 

平成15年10月

 出られたらと思っていますが10月一杯までリハビリその他主治医から言われているので、欠席するかもしれません。前立腺の手術、やはり80になる身としてはAgingがきいて大変、少しはへばっています。終着駅近くになって思うこと多し、 人生巡航速度で歩み続ける方が軟着陸容易なような気がしています。

(注 彼は15年7月に手術をした。)

 

平成16年10月

 おおとり会幹事のご努力感謝致します。昨年7月無事(でもありませんでしたが)前立腺がんの開腹手術を終えましたが、80歳を越えての大手術はおすすめものではありませんね。仕事はこなせますが疲れがとれにくくなりました。諸兄ご自愛の程祈り上げます。(勤務日のため「つもり」で努力します) (注、欠席でした)

 

平成17年4月

 ともかく元気な人が出席する筈だから、その健康におめでとうと申し上げます。

丁度我々何処かやられる年配に達したものとしてお大事に・・・。小生現役を離れられず、学会終了後少々入院する予定が入り欠席します。無理して作った時間ゆえ、それなりに十分検査する我侭をお許し下さい。御元気で。

 

平成17年10月

 外国を含め連続学会出張のため欠席します。極端な少子化のためと医療法、保助者法等の古い法律のしめつけで産科を取り扱うドクターも助産婦も激減、対策と国との折衝に苦労しています。学問的に、臨床的に世界のトップレベルにもって来たものの、高齢者対策のみに予算がとられたため遂に2年前倒しで日本の人口が減り出しました。まさかここまでとは思えないでしょうが、小生は立場上全力投球中です。皆さんお元気で。

  (小生の注、政府は漸く少子化対策、産科の強化に立ち上がった。本年度予算の主要項目。君の努力は実ったぞ)

 

   偲ぶ会 後記

 偲ぶ会参集者名簿を奥様におくる。

 偲ぶ会参集者には受付で名簿に署名していただいた。21名。

 翌々日3月27日、この名簿に写真と手紙を添えて坂元正一君の奥様にお送りしました。2、3日後お尋ねしたい用件があって奥様に電話しましたが、奥様はたまたま名簿を見ておられたところで、「皆様上手な字で立派な名簿を有難うございます。」と謝辞を述べられました。 

 そのあと奥様は「今差し支えありませんかと」と度々お断りされながら昨年11月から12月頃の坂元君の様子をいろいろと話されました。診断がきまり手術の準備に入った直後、病状が急変し亡くなられた由、大変衝撃を受けられたそうです。

 奥様の謝意をお伝えすると共に、あらためて冥福を祈ります。

(なにわ会ニュース97号22頁 平成19年月9掲載)

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