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平成22年5月8日 校正すみ

あ〜大空に舞え 高橋猛典先生を偲んで

佐藤 公一

平成5年9月13日、あなたは、紺碧の大空へと飛び立った。

9月13日は月曜日であった。朝、先生は

「今日は横浜でロータリーの打ち合わせ会があり、この忙しいのに医療班の班長までおせつかってしまい、なぜか出掛けたくないな」

と私に耳打ちなさった。何か感ずる所があったのだろう。昼過ぎ、私の部屋の横が階段であるが、トコトコと降りて行く靴音がまさかの事、お別れになるとは……。

夜8時過ぎ、家に帰ると丁度病院からの電話が掛かっていた。受話器をとると、当直の医師、「あの、院長先生が大分お具合が悪く、横浜の病院に救急入院なさったそうで、理事長から先方の病院に問い合わせてみて下さい。」と。

すぐに先方に電話し、院長の容体を聞いた所、午後7時過ぎにお亡くなりになったと。

「まさか人違いでは無いでしょうね? 本当に高橋猛典ですか?」

「確かに間違いありません。」

{死因は?」「心筋梗塞です。」

取る物も取り敢えず、病院に引き返し、数人の職員に連絡を取り、誰もが信じない中、東神奈川の病院へと飛んで行った。

地下の霊安室でガラス戸越しに対面。安らかなお顔であった。

それから、19日の病院葬まで、全てに追われ、あっと言う間の数日であった。事務長も、この8月4日に入職したばかりで、鎌倉での我が職場の位置づけもまだ充分に把握出来ておらず、とにもかくにも、ただ粗相無き様、努力致すのが精一杯であったし、多くの方々のお力添えも得る事が出来た。そして、9月24日に無事埋葬致すことが出来た。

高橋先生が鎌倉にいらっしゃったのは、昭和26年であるから、40年以上のご勤務であった。昭和43年に私の父の死後、院長になられ、それからだけでも25年を越している。

私が、高橋先生と親しく接する様になったのは、昭和54年に大学を辞してからであるが、先生は少なくとも私の存じておる限りでは、決していわゆる軍歌を口になさる事は無かった。

身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも 

       とどめおかまし大和魂

わが胸の燃ゆる思いに比ぶれば

         煙はうすし桜島山

 

海軍兵学校をでられ、幾度もの戦火をくぐられ、敗戦後医師への道を選ばれたのは、そして、軍歌を口になさらなかったのは、右の例えに上げた二首の歌にもある様な思いを抱き、散って行った幾多の人々、戦友に対する先生の気概であろうかと私は解釈致している。

私は、若い頃はそうでもなかったが、ある時期より、戦争体験者に対する畏敬の念を抱く様になった。幸いな事に、今の我々は直接的に死を感じて生きていない世にいる。善し悪しは別として、自分一人の為にではなく、同胞の為、人を殺さねばならぬ、又は殺されない様に生きるとは、どんな事であろうか。

まして自ら死を選ばねばならぬ状況が、私には分からない。そんな時代を生きて来られた為か、先生の声をあらげて怒られている姿を拝見した事は無い。その姿勢から何を学び取れるか、私には10年を要したし、はて、果たして学び取る事が出来たのかさえ定かでは無い。

激しい正義感で生死を厭わぬ青春を過ごされ、一転して命を救う事にのみ生きる道には情熱を注がれ、そしてこの数年は、思い返してみると、病人と病気を共にして来られた様に思う。静かに、そして穏やかに、励ましつつ、叱り、冗談を言い、多くの方々の死を、そして生を見て来られた。

先生の、医師会での活動は今更言うまでも無いが、その真撃な態度には、何かをお感じいただけた先生方も多くいらっしゃると思う。

自己犠牲が強く、人を立て、陰になってなさった仕事も数多くあると察せられる。

人は死して何を残す事が出来るか。建物でも無い、組織でも無い、まして金でも無い。生き様を後の人に残す事だけであろうか、私にはそうとしか思えない。

さて、それでは高橋先生の思い出は

「優しさを秘め、かつ、まがった事には一切目を向けず、心を動かす事も無い。」

私が、物心ついてからの先生の思い出は、律儀で、人を立て、自らは一歩下がっている姿勢、これが先生の殆どと言って良い程の印象であり、かつ、お人柄そのものであったのではなかろうか。

私の父の生前、死後も、一年として年始の挨拶に私の実家においでになる事を欠かされた事は無かった。私を含め、今時の人では、そして今の時代では考えられない事である。

浮明寺のお宅を出られ、八幡宮に参拝なされ、破魔矢を持たれて必ずいらしたものである。小半時過ごされ、あの独特の歩き方、靴音を残されて帰りには又、病院に寄られたのである。

私が、大学を辞してから、強く覚えている事としては、人間として経験も少なく、医師としても20年も下の私に、必ず敬語を使われた事である。少なからず、驚き、そのお姿勢は、亡くなられる迄、15年間揺るぐ事無かった。初めは、私がオーナーであるからかとも思ったが、いや、そんな心の方ではなかった。同じ医療を担う者達としての、年下の私に対しても医者ではなく、あくまで医師でなければいけないのだと言う教えであったのだと気づいた。いくら自由経済、資本主義の社会ではあっても、我々の仕事は、医師対患者と言う事になると、強者と弱者に例えられる立場になる。そこで、医師は医者では無く、師であらねばならぬと言う事なのである。我々が師の立場をとるには、互いに尊敬しあい、研鑚しあわなければならないと思う。それ故、高橋先生は私に対してまで、暗に含んでの話し方をなさったのだと思う。

しかし、そんな高橋先生もいつのまにか遠い世界へと旅立たれてしまった。今の70歳と言うお年は、どちらかと言えばお若い方に入るのではなかろうか。

こんな言葉がある。・・・われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことも完成できるほど豊富に与えられている。われわれがそれを短くしているのである。

われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。人生は使い方を知れば長い。・・・

先生の人生は、戦もあり、戦後の困窮された時もあったと思う。しかし、その70年の月日を充分に生かされ、そして燃焼されたのだと思う。しかし、私が唯一心残りなのは、先生が、自分の人生をゆっくりと振り返り、自適な時間をお持ちになれなかった事である。

いわば、いかなる役職や地位や責務とも縁を切られた、人生の内で最も自由な、自分の心一つに生きる時を得られなかった、そしてその様な立場にいていただける様に出来なかった事である。

私も海が好きである。特に陽が昇る時、沈む時、何とも言えぬ感慨を得る。私の夢は、この我らが生きている地球という、本当に小さな星の陰から陽が姿を現し、そして消えて行く世界を見たい。高橋先生、あなたは、今、そこにおいでなのです。

  我らが、これから成してゆく事、見守っていて下さい。そして、満ち足りた魂をお持ちになり、自由にはばたき、時には叱りにいらして下さい。合掌。

(鎌倉佐藤病院院長、鎌倉市医師会誌「神庫」より転載)

(なにわ会ニュース73号7頁 平成6年3月掲載)

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