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平成22年5月8日 校正すみ

高崎 慎哉君を偲んで

中山 

 高崎は4月2日午後2時、肺炎で亡くなった。食欲不振と腰痛を訴えて2月4日、鎌倉の佐藤病院に入院以来丁度2カ月で帰らぬ人になってしまった。

入院して間も無い頃、江田島の慰霊祭での軍歌の音頭を頼む旨を話し「まだ余裕があるから十分養生して元気になってくれ」と元気付けたが「江田島へは行かん、出席は取りやめだ」との答が返った。冗談だろうと顔色を窺ったが、どうも本音の様に思えたし、今までの長い付き合いで高崎からこんな弱音を聞いた事は無かったので、その時ちょっと気になった。その後、訪れる度に衰弱が進んでいる様に見え、時々意識の混濁が起こり、最後の2回は「面会謝絶」。高崎はこのまま燃え尽きてしまうのか、と本当に気に懸りだした矢先の事であった。

訃報は慰霊クラス会に関する打合せ会場(市ヶ谷会館)で受けた。予感はしていたものの、現実になってみるとやはりショックは大きい。打合せを中座して高崎のお宅へ駈けつけた。

高崎はまだ戻っていなかった。悲しみをこらえて御遺体を迎えるべく備えておられる御遺族の方々の姿が痛ましい。午後7時過ぎ、夫人に付き添われて御遺体が戻り、奥の間に安置された。「あなた、帰ってきましたよ・」と無言の高崎に語りかける夫人の痛ましい後姿に胸を締め付けられる思いであった。安らかに眠っている様な顔を見つめているうちに、高崎との出会いは終ったのだという実感がひしひしと込み上げて来た。

悲しみを隠し切れない顔で第73期生が次々と姿を見せる中、クラスでは後藤俊夫が駈け付けてくれた。通夜・葬儀の手伝いは73期がやりますとの申し出により、72期は後藤俊夫、伊藤正敬、中山の三名で不時の応援に備えることにして、所要事項を鈴木 脩(不在のため夫人)と年度幹事岡本に連絡した。

通夜は4月3日、葬儀は4月4日、それぞれ自宅において取り行われた。多数の弔問客が次々と参列する姿に接し、改めて、誰からも好感をもって迎えられていた高崎の人徳の程が偲ばれる。弔辞は72期、73期、呉一中同期生の代表がそれぞれ捧げた。72期は佐藤 静が述べた。出棺を「軍艦マーチ」と「海行かば」で見送る。松元金一と高橋猛典の霊前で軍歌の音頭をとった高崎、「声が‥小さい」と叫びたい思いで聞いていたのではあるまいか。

 

高崎は、一号生徒半ばにして病を得て入院、第73期生として卒業した。軍艦迅鯨乗組に続き、軍艦長門乗組となる。終戦後、海防艦第49号乗組となり、駆潜特務艇とMSの各艇長を経て、その間、掃海作業に従事し、昭和26年1月、陸上勤務に転じた。昭和27年8月、海上警備隊(海上自衛隊の前身)に入隊。主として、総務・管理関連配置を歴任、海上自衛隊の後方業務において、特に電子計算機関連分野の発展に努め、大湊地方総監部管理部長を最後に昭和51年5月、海上自衛隊を退職した。

この間、昭和48年5月、需給統制隊資料処理部長当時、大型電子計算機の円滑な更新作業及び海上自衛隊の後方業務の機械化推進の功績に対し、海上幕僚長から部隊表彰(第三級賞状)を受賞し、また、海上自衛隊における剣道の普及発展及び需給統制隊の体育振興に貢献した功績に対し、需給統制隊司令から個人表彰(第四級賞詞)を受賞している。

高崎とは兵学校時代、全く付き合いはなかったが、剣道に強いという名声だけは聞いていた。初めて声をかけ合ったのは、昭和20年の初め、横須賀のパイン(料亭小松)で顔を合わせた時で、その後も時々パインで顔を合わせたが、特に親しく話し合った記憶はない。当時高崎は長門乗組で、私は横空付であった。本格的な出会いは、昭和21年2月の初旬、浦賀に在泊中の海防艦第49号に私が着任した時から始まる。高崎が同艦の甲板士官であった。戦争中飛行機乗り(偵察)であった新米航海長の私にとって、高崎は良き相談相手であり、その存在は頼もしい限りであった。

勤務が終ればお互いよく飲み、よく歌った。稚内や八戸で、配給の煙草(ひかり)との物々交換で手に入れたカニやイカを肴に、コップ酒でやりながら、「諦らめしゃんせと五月雨が・・」と歌っていた高崎の髭面は、今でもはっきり目に浮かぶ。

以来48年、会えば「おい貴様、一杯やるか」と声をかけ合う仲ではあったが、酒と歌はもちろん、何をやっても高崎にはかなわなかった。剣道と酒のほかにもコーラス、カラオケ、囲碁、マージャン、ゴルフ、旅行、水泳(まだあるかも知れ阻い)と高幡の趣味は中々多彩であった。幸いにして剣道ではお手合せの経験がない。マージャンが時々話題に登ったが、残念ながらともに卓を囲む機会がなく、高崎の腕前の程はわからない。碁は、なにわ会囲碁例会で良く打ったが、6目も置いていた私が高崎の碁を語る資格はない。高崎に対してとても碁敵といえる柄ではなかった。

4年前頃からゴルフにも付き合う様になった。ゴルフだけは私の方が少しはましだが、それでもブービーとメーカーを良く争った。ゴルフ場へは伊藤正敬の車に高崎と私が同乗して往来することが多く、時には大谷と渡辺望が加わった。ゴルフもさることながら、ワイワイガヤガヤと過すその車中がまた楽しいものであった。今その主役の高崎を失い寂しさがひとしを身に染みる。「何言ってんだ。俺だって捨てたもんじゃあねえぞ」と、いつもやる気十分だったのに……。

なにわ会囲碁例会終了後の新年会(1月9日、新宿駅のニュー東京)が高崎と杯を交わしたのが最後になってしまった。打ち上げが近付くと、どうしても行くという高崎の指名で、阿久根と私がカラオケに付き合うことになった。高崎と同方向に帰る浦本と若松も同行したが、お目当ての店は 「本日休業」、今になって見れば誠に残念であった。

海上自衛隊を退職後、コンピュータソフト界に身を置くこと17年、昨年3月末に勤めをやめ、自適の生活に入って丁度1年で高崎は逝ってしまった。お婿さんたちと卓を囲む家庭でのマージャン、お孫さんたちと行くカラオケのことなど、目を細めながら話ししていた高崎を思うにつけ、わずか1年はあまりも短過ぎた。やっと穏やかな自適の生活に入り、これから御夫婦で楽しい老後を、と期待された時期だったのに・・・。

今は唯、高崎の冥福を祈るのみ。

 親誓

安らかに眠り給え。

 「なにわ会の皆様には本当にお世話になりました。見舞いには沢山の方が訪れて下さましたし、また、通夜・葬儀にも大勢の方が参列して下さいました。何とお礼を申しあげれば良いか……」と感謝しておられた御夫人始め御遺族の方々の御多幸を祈念してやみません。

(なにわ会ニュース71号9頁 平成6年9月掲載)

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