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平成22年5月8日 校正すみ

高崎慎哉君への弔辞

佐藤 


高崎君、桜の花盛りを前にした一昨日午後君の突然の計報に接し、偶々一緒であった同期の友ともども本当に愕然としました。死生命ありとは申せ、親しい長年の友の死は真に痛恨の限りとしか言い様がありません。

君との交りは、今を去る52年前、昭和17年11月から海軍兵学校第5分隊で机を並べ起居を共にし、厳しい戦局下、相共に若さを燃焼させ、凝縮充実した生徒生活を送ったのが始まりでした。しかし君は肺浸潤に冒され、昭和18年初夏、長期の入院を余儀なくされ、以後交流は暫くの間途絶えざるを得ませんでした。

戦後靖国神社参拝クラス会での再会を契機として再び声を交すようになりましたが、当時は仕事も異なったためか、交遊は自ら細くしかも淡いものでありました。

そのような意味で最も強く印象に残っているのは、昨年11月に執り行われた京都仁和寺での21分隊との合同慰霊祭を中心とした思い出であります。5分隊一号の生存者6名全員が一堂に会したのは戦後始めてのことでありましたが、君は最愛の奥様とご一緒に参加されました。恐らくご夫妻にとって心に残る思い出多き旅行だったのではないでしょうか。とりわけ仁和寺金堂における暁闇の中千数百年に亘り法灯を掲げ継いできた真言密

教による荘厳かつ厳粛な慰霊祭には、君も恐らく心を空にして戦没した多くの友と声なき対話を交されたことと思います。

また旅行中、終始君の傍らに寄り添っておられた奥様との仲睦まじさも誠に微笑ましいものでありましたし、懇親会の席上、君がお得意の美声で唱われたモンパパの歌声もまた私の耳朶(じだ)に残っております。

君は稀にみる暖かい心の人でした。寛容の精神と常に微笑みを絶やさない他の人への行届いた思いやりの精神、これが君の70年の人生を貫く2本の経糸だったのではないでしょうか。

同期の桂理平君が「我が海戦記」の出版先を求めて悩んでいた時、君がわがことのように奔走し、遂に見事な著作を世に送ることができた経緯は知る人ぞ知るところであります。

君はまた温厚かつ大らかな得難い性格の人でもありました。常に春風駘蕩の雰囲気の中、大人の風格を漂わせておられたのは、天与のものであったにせよ、既に江田鳥時代からであったこと懐かしく思い出します。

さらに加えて人情の機微を解する細やかな心配りにも気を使われていたように思います。

 これらが相侯って多くの人から慕われ続けてきた君だったことを今しみじみと想い起こしております。その君も幽明境を異にされました。

  再び君の謦咳(けいがい)接すること叶わなくなりました。往古より人生夢幻と人は申しますが、今改めて人生の(はかな)を痛感せずにはおられません。索莫(さくばく)暗澹とした思いが胸をよぎるばかりです。

高崎君 思い出は尽きません。最愛の奥様とご家族を残して先立たれた君の心中は察するに余りあるものがあると存じます。今はただただ今日迄の私達との暖かい交遊に深い感謝の念を捧げるとともに心から君のご冥福をお祈り申し上げ、併せてご遺族のこれからのご多幸を祈念する次第です。

高崎君今までいろいろと有難う。

高崎君安らかにお眠り下さい。さようなら。

平成6年4月4日

海軍兵学校第72期 佐藤 

(なにわ会ニュース71号8頁 平成6年9月掲載)

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