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平成22年5月10日 校正すみ

竹内 茂君を偲ぶ

京都府宇治市にて  理平

平成14年2月15日夜、竹内の逝去の報を受け取った。長い間、腎臓の人工透析治療をしていたのだが、突然の訃報を聞いて(ぼう)となった。人間には寿命があって、時が来れば天に帰るのだと悟っているつもりだが、親しい人が何故急に死なねばならないのかと思い、すぐに納得が出来なかった。告別式が翌日正午福岡市で行れると聞いて間に合わないので、昭和18年の第5分隊生き残り4人の名で、あわて長い弔電を打った次第であった。(勝手ながら同期生の気安さから姓名の敬称は省略させていただく)

 彼と私の最初の出会いは昭和15年12月に兵学校に入校した時であった。

彼は第5部第5分隊に所属し、私は第5部第41分隊であったが、第5教班では一緒であった。教班とは座学を学ぶ時の集団であって、つまり一緒に授業を受けたわけである。

 第5部監事(分かりやすく言えば担当教官)は有名な堀内豊秋中佐(当時)だった。海軍体操の創始者で、我々のつけたあだ名は親しみを込めて、「誘導振(ゆうどうしん)」と呼んでいた。この体操ではまず両手を前と横に振って身体を慣らしてから本番に入るのである。この動作を誘導振とうのだが、我々には大変新しい体操方式に思えて印象が深かったのである。

兵学校では午前に座学(教室での授業)を学び、午後にいわゆる猛訓練があった。当時の新米生徒の私達には教室での授業が一号生徒の監督の目が届かない精神的休憩を兼ねていたと思う。わずかな休憩時間を利用して言葉をかわしたが、お互いの慰めになっていた。

不思議なご縁と言えば、現在産婦人科の学会の長老である坂元正一が同分隊にいた。後年、医学の同じ専門学科を専攻したとは信じられないような本当の話である。

そして、2年後に一号生徒になった時、新第5分隊で、私は竹内と同分隊になり、自習室と寝室での席が隣り合わせとなったのである。こんなご縁は滅多にあるものではないと思った。ついでに申し上げると、竹内と反対側で、私の右側に陣取ったのは後藤俊夫だった。後藤は東京に住み、クラス会の軍歌指導係を元気で勤めている。

この3人は中肉中背で肉体的には平凡で、三号生徒の指導について、特に熱心であったわけでもなかった。しかし、先任者の佐藤 静の指導のもとに、一号が団結を強調したので分隊員はよく(まと)まっていたと思う。

その結果として、5月の短距離短艇競技(出発点と反転点の距離500mを往復した)で優勝を果たし、続いて江田島湾から宮島までの約16qの遠漕競技において第2位になり銅製のメダル(訓練における生徒の勲章と言えば分かりやすいでしょう)を大量に獲得したのだ。短距離競技の漕ぎ手は短艇のオールが12本だから12人と指揮者に短艇係上田清市(戦死)を選んで計13人となり、遠漕では1本のオールに漕ぎ手が2人付くので漕ぎ手は24人になり、指揮者の上田を入れて合計25人のクルーである。従って、全部で38個のメダルを獲得した。分隊監事の富岡次郎中佐が同乗して激励して頂いたのも忘れられない思い出である。

竹内、後藤、桂を含め一号生徒は全員2個のメダルを手に入れて喜び、二号生徒の大部分と身体の大きい三号生徒がメダルをもらった。この事によって生徒館一の分隊になったと考え、一号生徒に対する信頼が大いに高まり、分隊の士気が高揚したのは当然であった。

卒業後、我々は希望通りに飛行機と艦船に分かれて待望の戦場に出た。竹内は飛行機の道を進み、戦闘機搭乗員となり、実戦を戦い抜いた。終戦の時は元山航空隊にいたと聞いている。

戦後の転身では、竹内は一転して医学の道を選んだ。余程に感じるところがあったのではないかと思われる。大学に入り一から勉強をやり直した。彼の忍耐強い性格はこのとき遺憾なく発揮された。彼の医者としての活動は他の人に語ってもらいたいと思う。

昭和40年代になって、お互いに余裕が出来たので、第5分隊の同窓会(略して5分隊会)を始めた。生き残りの分隊員は東京地区に約60%いて、その他は全国に分散していた。

竹内は福岡市内で診療所を開業していたが、最初に京都で会合を開催した時は元気な姿を見せてくれた。しかし、その後体調を崩して、人工透析をするようになり、2年に1回の会合にも出席するのが間遠くになった。それでも新幹線を利用すると行けると、京都以西で開催した時は出席してくれた。

会えば、生き残りの一号生徒6名(途中で高崎慎哉が病没した)と時間を忘れて話をし、この上ない喜びを感じ、新しい元気を互いに吸収しあっていたのだ。

去年、もう透析を始めて15年になって次第に外出の自由がきかなくなったが、家では元気で暮らしていると便りをもらっていた。皆で彼の病状の良い時を見計らって見舞いに行きたいと話しあっていたのであった。

今幽明境を異にして、しみじみと愛惜の念の迫るのを感じている。若き日に、一緒に厳しい修行の日々を共にしたことはお互いの誇りだと思っている。

最後に、君の長かった闘病の期間に、共に耐え忍ばれた奥様のご献身に対して、心からの感謝を(せん)越ながら申し上げる次第であります。

さらば竹内、どうか安らかにお眠り下さい。        合掌

(なにわ会ニュース87号19頁 平成14年9月掲載)

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