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平成22年5月10日 校正すみ


田中 春雄兄 追悼記

山田  

なにわ会ニュースの記事執筆者が(かたよ)っている」と、お叱りを受けるであろうことは承知している。しかし、それは俺のせいではない。

「俺が立場上執筆せざるをえない奴が、続けて死ぬから連続執筆になるのだ」と言いたい。

昨年11月、田中宏謨が死んだ。彼とは、15潜水隊の僚艦として1年間潜水艦戦を戦った。たった1年間と言う勿れ、最後の1年間を通して潜水艦で戦争をするということは、それは、大変なことなのだ。

そのような訳で、田中宏謨に対しては、前号の記事のように、俺が弔辞を読み、クラスの学生長であった名村が追悼記を書いた。丁度そのころ、平成7年を殆ど通して、田中宏謨と田中春雄の両田中は、場所こそ違え、2人とも病床にあった。しかし、お互いに、相手の同姓が病気であるということは知らなかった。また、われわれも知らせなかった。そして、お互いに知らずに死んでしまった。(はかな)ことだ。

今回は、田中春雄の追悼記である。ニュースの執筆者が偏ろうと、田中春雄と俺の、生前の縁にまつわる、追悼記を書くわけで、しばし、諸兄のご静聴ならざるご静(精)読を乞う次第である。

昭和17年12月、いよいよ待ちに待った一号生徒になった。俺は、第27分隊に編入された。第27分隊の一号は、伍長の村田善則、岡村俊章、そしてかく言う俺様山田の3名が、第42分隊二号からそのまま、3人揃って、第27分隊一号に移った。まあ、珍しいことだ。伍長補の粕谷仁司と、市川繁は、2人とも、四、三号のとき、隣の分隊の25分隊にいたので、俺はよく知っていた。斉藤五郎は、西荻窪で家が隣、兵学校に入学する前から知っていた。

全然知らない関係で、初めて第27分隊で一諸になったのは、田中春雄と守家友義と後の軍神吉本健太郎の3人である。田中春雄が死んで、第27分隊の一号は、守家友義と岡村俊章と山田 穣の3名になってしまった。この次は誰の番か? 戦後の人生は付けたりであるとはいえ、このようなことを占うのは余り気持の良いことではない。しかし、こんなに追悼記に関わらざるを得ないことからすると、次は、俺の番かなとも思う。

さて、田中とは、自習室の机が隣で、寝室のベッドが隣。いわゆるデスクメートであり、ベッドメートであった。身長は小さいが、やたらに腰が強く、運動神経が発達した奴で、あの体で、相撲は確か特級であり、体操も一級くらいではなかったかと記憶する。兵学校の体操では、空中転回が盛んであったと思うが、実は、この回転レシーブが、後に述べるが、田中の戦後に大いに役立つことになる。

兵学校の一号は、68期までは、成年者の喫煙が許されていたと聞くが、われわれの頃も、一号の中には、煙草を吸う奴がいた。時効だから書いてもどうと言うことはないが、わが分隊でも後の軍神吉本は、中学時代からの喫煙癖が納まらず、俺と常に問題を起こしていた。俺は、相手が.一号であろうと、悪いことは悪いとやっつけた。その仲裁をいつも買ってでたのが田中で、俺も、田中が中に入って仲裁されると、田中の人徳であろう、後は、田中に任せて引き下がってしまったことが随分あったと今にして思う。

一号の夏休暇、一緒に東京に帰った田中と俺は、田中に、横浜のグランドホテルのフランス料理のフルコースをご馳走になったことを覚えている。田中の親爺さんは、その時横浜の検事正で、それから後、それ以上に出世されたことであろうが、ともかく、検事正というのは、今もそうであろうが、その当時も偉い地位であった。田中検事正が、御曹司の田中春雄と俺を、グランドホテルに招待してくれたのである。真っ白な兵学校の夏服で、横浜のグランドホテル中を、2人で威圧した?ことを思い出す。田中の親爺さんも、わが息子に対し、些かなりと、当時のことだ、鼻が高かったのではないか、と、俺は、田中の引き立て役をもって任じていたことを思い出す。ともかく、その代償としてのフランス料理であり、時節柄、物資不足の昭和18年の夏としては、大変なご馳走であり、おいしかった。

幾らか、検事正の役得もあったかもしれない。その休暇が終わって帰校後、2ケ月で卒業でもあった。2人とも、残念ながら恩賜の短剣は逸したが、恩賜に次ぐ優秀な成績により海軍兵学校を卒業した、と、ここに紹介しても、今更、誰も分からないし、また関心もないと思うが、実は二人とも、宮地(田中と同じ府立三中)の言う名言「金魚のうんこ組」で、決して優秀な成績とは言われない。ただ卒業成績いわゆるハンモックナンバーは、俺も頑張ったが、デスクメートのデスクの順序で、田中の方が遥かに成績は上であったことは、田中の名誉のために記述しておこう。

かくて、田中は、第2期候補生の時期に、重巡利根の乗組みとなり、有名な砲術の大家黛大佐が艦長であった。この時、利根事件というのが起きた。俺は、その詳細を承知しないが、生前、田中も話したがらなかった。したがって、この追悼記には、想像や、伝え聞きによって書くことはやめるべきであると思うので、利根事件の内容については触れないことにする。

彼は、利根での勤務が長かった。死の直前、彼は、利根会の会長でもあった。もちろんかっての上官が亡くなられたからではあるが、千人を越す乗員のいる利根で、推されて戦友会の会長になるのは、乗員各位に慕われていたものと思う。利根での戦闘については、俺は知らない。しかし、当時のことを想像すると、「あ号作戦」「捷一号作戦」その他の水上艦の大激戦には、総て参加したのであろうと思う。その辺のことは、クラスの大塚 淳が詳しい。

田中の葬式のとき、利根会を代表しての弔電に「レイテ海戦における田中甲板士官の奮闘について思い出します」という言葉があったが、田中のことである、相当の奮戦をしたであろうことは言われなくてもよく分かる。

戦後、利根事件により、関係者が、英国の軍事裁判にかけられたとき、田中も逮捕され呉からシンガポールの法廷に連行された。その時、彼は、広の手前のトンネルに入る前に列車が速力を下げることを承知しており、MPに便所につれていくことを要求し、用足し中に、便所の窓から飛び降りて逃亡したと言う。このとき、体操一級の彼の回転レシーブが大いに役立ち、彼は、無傷で逃げることができたと聞いた。思うに、スピードを如何に緩めたと云っても、列車の速度は、20、30キロはあったろう。その列串から鉄路に向かって飛び降りて、無傷であったということは、誘導振教官の指導のお陰であると思う。ついでながら、立ち上がって列車の方を振り返えると、英軍のMPが、トイレの窓から田中の方をみて何ごとか(わめ)いていたそうだ。田中は「ざまーみろ」と叫んで、反対方向に逃げ去ったそうである。

これから、田中の逃避行が始まる。もともと、この事件は、最高指揮官として時の第16戦隊司令官が全責任を負い、死罪をもって部下全員の責任を負われたので、関係者は、殆ど、無罪放免となったと聞く。何故、利根が、この時に第16戦隊に属していたかは、俺は分からない。この第16戦隊の司令官は左近允の父君で、今次大戦で、部下の行為の総てを一切引き受けて、自分が軍人的な意味での責任をとった数少ない司令官のお一人であると聞く。その縁に加えて、海上自衛隊でも一緒であったということで、田中の葬式には、左近允が弔辞を読んだものと思っている。

実は、講和条約の締結までの4、5年間にわたる田中の逃避行は、それ自体が、一編の読み物の価値十分なノンフィクションであるが、押本編集長などが、如何に勧めても、田中は「まだ、関係者が生存しているからその時期ではない」と書かなかったと言う。結果これに関しては、全く書き残すことなく死んでしまった。兵学校時代仲の良かった俺にも極めて断片的に話をした程度で、その全編については、俺も全く知らない。しかしこれで良かった、と思う。あの、配給手帳の時代、逃避行即食物に有り付けない時代である。貧乏のどん底の日本における約5年間の逃避行は、田中にしても、極めて命懸けの真剣勝負で人に語ることも出来ない色々なことが沢山あったろう。それらを、一切、一身に背負ってあの世に旅立ってしまったことは賢明であったと思う。

当時は、日本中が、同罪の時代である。俺のところにも、警察から「田中について何か知らないか」との照会が、何回かあったが、感ずるところ、非常に好意的な照会であったように、今にして思うのである。断っておくが、当時を知らない若い人が、この記事を読んで、戦犯容疑から逃げるとは、と思われる方もおられるかもしれないが、全く時代の極端に違う半世紀以前の戦争直後の物語であると考えて戴きたい。

講和条約締結後、戦犯問題はチャラになり、田中もどこからとなく現われた。そして、海上自衛隊に入隊した。俺も、独立して仕事を始めた。そんなとき、彼が第一護衛隊群の幕僚として、二佐時代であったと思うが、「あまつかぜ」に乗艦していたとき、「あまつかぜ」の信号員を艦橋に集めて貴い、海軍のラッパを何曲か吹奏して貰ったことがある。もちろん、それを録音して帰った。最初は物珍しさで、数多く、それらのラッパを会社で使っていたが、今でも、朝礼時の国旗、社旗の掲揚には、ラッパ「君が代」を吹奏している。

  始めの頃は、「週間文春」が、変わった朝礼を行なっている会社として紹介してくれたこともあった。これも、田中にお世話になった一つの話である。

田中が自衛隊を辞めたのは、いつ頃であったか。最初は、田崎真珠に入社した。今までは、むくつけき自衛隊員を相手の男の仕事から、急遽女性相手の仕事に替わった。俺は「田中に勤まるかな」と案じていたが、彼は、見事に変身した。クラスのご夫人も相当応援したと思うが、彼は、陸上におけるシーマンシップを発揮し、極めてスマートな仕事ぶりであったことが印象に残る。「お陰で、クラス夫人も幾らかは宝石頬が増えたか」「余計なことを言うな」と声がかかりそうだ。

田崎が銀座に立派なビルをたてたころ、彼は、田崎をリタイヤし、東郷神社の募金の手伝いをしたり、海軍関係の仕事の手伝いもしたりして、最後は、特許庁で隠居仕事をしていた。その間、水泳等をやって、体には注意していたようであるが、脳梗塞を3回やった。最初は高橋猛典先生の病院でドック中に起きた。これは、快癒したように思われたが、それが落し穴であったようである。彼は、完全に治った、と言うことで、酒量は、病気前と全く同じになり、豪快そのものであった。しかし、昨年3月、2回目を起こし、旬日を経ずして、3回目となり、さすがの田中も3回の脳梗塞には敵わなかった。丁度1年間傍目には、殆ど意識の回復しないような状態で、日本医科大学飯田橋付属病院に入院、この間の良子夫人の看病ぶりは、クラス夫人連のまさに模範であった、と、俺は思う。このような書き方をすると、どこからか異議あり!の声がかかりそうだ。これは、田中夫人の献身ぶりを讃える文面とご理解下さい。

田中の葬儀には、俺の知っている範囲でも62期の壱岐さん、63期の筑土夫妻を始め、沢山の先輩やクラスの人々が参加した。夫人の参列も多かったことは、多少なりと、田崎の真珠の関係があったのか。特に、通夜から告別式そして火葬場から初七日の仏事まで、67期の今井梅一さんが終始付き添われたことは、生前の関係もあろうが、彼の人徳のしからしめるところであろう。

田中春雄よ。くだらない駄文であるが、貴様との生前から長い付き合いを想起しつつ以上のように、追悼文を認めた。そんなに遠くない時期に、天上にて、貴様との再会を期す。のときは先導してくれ

幸いなるかな、貴様の2人のお子さんは、立派に一家をなしている。孫も立派に成長しつつある。それは俺が言うまでもなく、貴様が死ぬまでに確認していることだ。これから貴様のやるべきことは、最愛の妻、田中良子夫人の健康と幸福を天上から祈り、見守ることだ。奥様も疲れたと思うぞ。では、貴様も安心して休め。さようなら。  

(平成8年4月1日記)

(なにわ会ニュース75号8頁 平成8年9月掲載)

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