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平成22年5月10日 校正すみ

田中 宏謨君への弔辞

山田 

謹んで、故田中宏謨大兄のご霊前にお別れの辞を呈します。

将に、往事(ぼう)々ではありますが、私共は、海軍兵学校第72期生として、昭和18年9月卒業、敗色すでに濃い時代、必勝の信念をもって軍務に邁進(まいしん)いたしました。艦隊勤務を経て、昭和19年4月海軍潜水学校第11期普通科学生を拝命、ともに学び共に戦った仲であります。潜水学校卒業以来丸1年、僅かの1年間ではありますが、この1年を通して潜水艦作戦を戦い抜いたのは、わがクラスで僅か数名を数えるに過ぎません。その中において、貴兄は、最高最大の栄誉に輝く潜水艦乗りでありました。

貴兄は、昭和19年8月、潜水学校卒業と同時に、当時、日本海軍が誇る最新鋭潜水艦イ号58潜の乗組みとなり、昭和20年6月、海軍大尉に進級するや、そのまま、同艦の航海長となり終戦まで勤務しました。その間、貴兄が参加した作戦は、前後4回、この記録は、如何に、貴兄のみならず、イ58が運の良い優秀な潜水艦であったかを示すものであります。即ち、回天作戦金剛隊、同神武隊、同多々良隊さらに多聞隊と続きます。これらの作戦の中で、その圧巻は、多聞隊でありましょう。

ここに一冊の英語の本があります。この本は、数年前、米国で偶然手に入れたものでありますが、本の題名は 「運命の航海」、フエイタル ポエジと言い、ワシントンポスト紙記者 ダン・カーズマン氏の著書であります。

それは、米国において、戦後軍法会議にまでかけられた巡洋艦インデアナポリス号の撃沈の模様をノンフィクションで纏めた三百数十頁の大作であります。 この本の中に、田中宏謨大兄の英姿が、イ58の橋本艦長、田中先任将校と共に掲載され、数ヶ所にその奮戦の様子が詳述されています。

以下、私が、私の言葉で級友田中宏謨大兄に弔辞を捧げるより、当時の敵方であったカーズマン氏の言葉で「運命の航海」 の中から、田中宏謨に関する部分の記事を抽出和訳の上、弔辞として捧げたいと考えます。

 

最初にこの本の序文の大意をご紹介します。

「1945年のある朝、米国巡洋艦USSインデアナポリス号は広島に投下された原爆の重要部品をサンフランシスコからテニヤンに陸上げした。この大きな使命を達成したのは、艦長チャールス マックベイ大佐である。

彼は、この戦争はもうすぐ終わるであろうと確信しながら、命令により、フィリッピンのレイテに向かったのである。然し、マックベイ艦長とインデアナポリスの乗組員は、やがてすぐ、悲劇が始まることに気が付く。それは、7月30日の夜のことである。束の間の雲の切れ間を利用して、日本の潜水艦により撃沈されたのである。(以下略)」

この潜水艦こそイ58でありました。つづいて、61頁から63頁にかけて概要を紹介しますが、文章が長文にわたりますので、1945年7月29日午後11時を少し過ぎたころ、橋本艦長が、潜行から浮上を決意され、イ58が浮上した直後からのことにさせて戴きます。

「視界は非常に良く、月の方角は一万米に見えた。しかし、静かな海面に敵影を見ることは出来なかった。『ハッチ開け』の号令により、信号長が艦橋に飛び上がり、続いて田中航海長が艦橋に出た。田中の注意深く訓練された潜水艦乗りとしての知性は、この海面を敵の艦船が航海した航跡を確認することができた。そこは、沖縄/パラオ、グァム/レイテの航路の交叉する海面であった。

田中は、双眼鏡で水平線を凝視した。月が暗い空に掛かっていた。ちょうど絵に書いたように。然し、双眼鏡には何も写らない。彼は真剣に目を凝らした。その時、「あの小さな影は何だろう?」 「敵艦か?」 田中は叫んだ。『左90度。敵艦のようだ』 艦長は司令塔から艦橋に上がり、胸の双眼鏡で左90度の方向をみた。『うん。水平線に暗い影がみえる。これこそ、ついにイ58が陛下に捧げることができるエモノだ』

『潜航急げ、深さ18』橋本は号令をかけた。橋本は、夜間潜望鏡で暗い影を凝視していた。ほんの僅かして、彼は叫んだ。『敵艦だ。魚雷戦用意。回天戦用意』

イ58の艦内では全員がそわそわしていた。橋本は、潜望鏡に目をあてがいながら暗い影が段々と艦の形になっていくのを観察していた。敵影は、イ58に向かって直進してくる。しかも、単艦で随伴艦がいない。橋本は、喜びから急に恐怖に変わった。爆雷をもった駆逐艦はいないのであろうか。いずれにしろ、敵は、イ58の直上を通り抜ける。魚雷は打てない。

橋本は腕時計をみた。午後11時9分。彼は、敵艦が1500米に入ったとき全射線を発射する考えであり、もし、魚雷で成功しないときは回天を使用する決意であった。敵影は、三角形になりどんどん大きくなってきた。その時、敵は僅か変針し、2本のマストが見え始めた。橋本は、マストの高さを90フィートと決めた。まがいもなく、戦艦か巡洋艦である。橋本は、田中と相談した結果、田中の意を入れて、アイダホ型戦艦であると認定した。イ58は、ついに獲物を手にしたのである。

橋本は、的速を20節と推定した。橋本は、成功の条件は非常な困難の後にあり、多くの落胆の後には非常に楽天的なことがあることを戦争の長い体験から承知していた。田中はいみじくも言った。『これは潜水艦襲撃戦における教科書である』と。いよいよ最後の段階が近付いた。デーダーの修正である。『方位角右60度。距離1500。深度6。雷速42節。2秒間隔で()つ』艦長は、胸を高鳴らせながら潜望鏡を凝視していた。いまは何もない。無の世界だ。ついに射点がきた。『発射用意テー』

月は雲の中に隠れた。信号長が艦長の横に立ち、秒読みを始めた。30秒・・・40秒・・・50秒・・・。橋本は叫んだ。『命中。命中』同時に、昼間潜望鏡についていた田中が叫んだ。『命中。命中』。司令塔の全員が喜びの余り抱き合った。田中は艦長の許可を得て、彼らの夢が現実となった海上の有様を、潜望鏡を通してみせてやった」

以上、カーズマンの筆により、イ58が、インデアナポリスを雷撃したときの様子がよく描かれています。このイ58の戦果は、戦闘によって敵艦を単に沈めたという結果にとどまらず、その後、米国海軍をして、大スキャンダル事件に発展することになり、物語は、さらに延々と続きます。しかし、級友田中が主役的に登場する場面は、この辺で終わりであります。

さて、頁は飛んで270頁に移ります。カーズマン氏による田中への筆は、これが最後であります。

「田中宏謨には、祖国日本の敗戦に拘らず、彼自身の平和な時代がやってきた。結論、彼は、個人的な勝利を克ち得た。日本の天皇は、自分は神ではないと人間宣言されたが、日本が立派にやり遂げたように、田中は生き残る意志と技術を持っていた。

田中宏謨は、ときどき、あの大きな敵影を発見した輝かしい瞬間を想起すると言う。彼は、確かに、立派な海軍士官であった。しかし、彼のサムライ時代は過去のものとなった。

もはや、彼は現実を生きざるを得ない。彼は、紳士用装身具の会社において、繊維の商売に従事していた。1978年、この会社を引退するまで、彼は、かつて海上にあったと同様に、岡の上で安定を得ていた。田中宏謨は、優秀なセールスマンでもあった」

以上、ダン・カーズマン氏のノンフィクション「運命の航海」に登場する田中宏謨に関する記事の部分を、時間の関係もあり、走り読みしてきました。田中は、生前、自分の戦果については多くを語っておりません。それは、余りにも多くのクラスが戦死したことへの遠慮であったと考えます。この弔辞の中で、私が紹介したカーズマン氏の記事については、田中の生前、彼と話をしたことがありましたが、「俺が死んだら話題にしてくれ」と多くを語りませんでした。

われわれ第72期において50年前の大戦でそれなりの戦果を上げた者も、沢山います。然し、敵国側から、写真入りでその戦果を紹介され、しかも誉められた者は田中宏謀をもって嚆矢(こうし)とします。

それは、将に、われら一同の誇りでもありましょう。しかし、まさに蘭摧(らんさい)玉折、惜しんでも余りあることです。

大日本帝国海軍伊号第58潜水艦航海長兼分隊長海軍大尉田中宏讃

かつてのサムライも病には勝てない。晩年、伊呂波会においても会うこともなく、ついに旅たってしまった。もはや兄の酒脱な歴史講義を聞くことも出来ない。われわれクラスも老いた。いずれ遠くない時に天上での再会を楽しみにする以外にない。さようなら。安らかに眠り給え。

平成7年11月14日

海軍兵学校第七十二期代表  山田 

(なにわ会ニュース74号5頁 平成8年3月掲載)

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