TOPへ    物故目次

平成22年5月11日 校正すみ

辻岡 洋夫君を悼む

向井壽三郎

 
 12月4日夜、新庄からの電話で辻岡の訃報を知った。年末クラス会のあった1130日の夜にも新庄が電話で「今日のクラス会には、辻岡も貴様も欠席だったが、辻岡から何か連絡は無かったか」と聞いてきた。9時半を過ぎていて、少々気は引けたが、辻岡にダイアルを回した。その時の話、「詳しいことは来週分かるはずだが、大腸癌にほぼ間違いないようだ。」と。ショックだったが、よほど手遅れでさえなければ。恐れることはあるまいと、思い返し、その夜は別れた。

 4日夜、電話口の向こうで、新庄は、「どうしたんだ、どうすりゃいいんだ」といった言葉をしきりに口にしていたが、私にしても、正に青天の霹靂(へきれき)、俄には事態がのみこめなかった。何か大きなものが目の前からなくなったという喪失感に襲われるまで暫く間があった。

 江田島入校時、辻岡とは隣の分隊だった。同じ教班で机も隣り合わせ、物理や化学の実験では何時もペアを組んだ。2年、3年時は同じ分隊だった。同分隊員が2年も続くのは珍しい。卒業後は艦と飛行機に別れたが、戦後は同じ大学に進み、あろうことか半年ばかり同じ下宿で起居を共にした。

 入校時、机を並べて、彼の鋭い理数的センスに目を見はった。2年時に教わった航海術の天測計算は正確さと同時にスピードが要求される。辻岡は教班ただ一人満点近い点をとり、教官に名指しで褒められた。戦後彼がなぜ理工科系に進まず、経済に進んだのか、私は不思議に思ったことだった。

 江田島時代辻岡は、ガリ勉でもコチコチ派でもなかった。規制のための規制は平気で無視した。例えばタバコ、外出先のクラブや巡航の際など、煙たがる生真面目派をなだめながら()っていた。(いくさ)に強いか弱いかとそれは関係ないばかりに。私を始め、彼に同調するワルが何人かいた。

 戦後大学に行くようになってからの辻岡は、私などとは違い、堅実で現実的な考えのもとに、行動していた。休まずに学校に行っていた。そして、仕立ての上等な背広に磨き上げた靴といった出で立ちで出掛けていた。彼は海軍士官の古きよき伝統である身だしなみを身につけていた。

定年後暫くして、辻岡の発案で、東京近辺在住者(辻岡、新庄、笹川、向井の4人)で分隊会をやろうということになった。毎年1回で、初めの何回かは、辻岡の顔で、京橋にあった三菱電機の健康保険組合関係施設を利用させてもらった。先様の都合で使えなくなった後は、辻岡と新庄が探してきたすし屋とレスを転々とした。今年の春の昼食会では、大阪在住の杉田繁春、岡山の楢村明聖に参加者4人の寄せ書きを送ったりもした。

 辻岡の酒は斗酒なお辞さない酒豪というよりは、人一倍酒が好きということだったのだろう。早くから辻岡は、酒席での品格によるのか、「提督」の称号を貰っていたが、最近では、それにふさわしい貫(ろく)をつけてきていた。

 4人の分隊会は、この国の政治と世相に対する慷慨(こうがい)で賑わったが、主題は戦争体験と太平洋戦争批判。辻岡は手広く戦争物を読んでいて、何時も独自の見解を展開していた。

 江田島時代の辻岡は何事にあれ、率先して手を汚すというタイプではなかったが、近年では日常茶飯事においても、周りへの気配りが目立った。ポナペの戦争体験とかかわりがあるのか、あるいは独り暮らしの経験からくるものなのか。

 先月30日夜、辻岡に電話した折、その独り暮しの不安に話が及び、彼はこう言っていた。

「二人の息子もよく電話をしてくれるが、そこはそれ、遠くの親戚より近くの他人。幸い近所に気のおけない老夫婦がいて、モーニングコールじゃないが、毎日声をかけてくれる。心配ないよ」と。

周りの人たちの話を総合すると、倒れる前後のあらましは次のとおり。

11月に入って体調がよくないと言うのでご子息たちが受診を促したが、本人は無類の医者嫌い。たまりかねて、11月下旬、長男の嫁さんが病院に連れていった。エコーによる検査の結果、結腸の一部に一目で分かる腫瘍が認められた。12月1日(倒れた当日)再び嫁さんに付き添われて病院を訪ね、入院と手術の手筈をきめて夕方帰宅。本人はもう大丈夫だからと嫁さんを乗ってきたタクシーで帰し、一人で自宅マンションに向かう途中の階段で倒れた。折よく通りかかった貨物配達人が救急車に通報。だが、救急車が来た時、すでに心肺停止の状態だったという。警察は変死を疑い死体を解剖に付した。3日後に死体は返され、変死ではなく、死因は虚血性心不全とされた。そのあと、ご遺族から加藤孝二夫人を経て山田良彦、伊藤正敬の順に伝えられ、連絡網にのせられたという次第。

人の生命の(はかな)さ、測りがたさについては、これまでさんざん思い知らされてきたはずなのに、「なぜ あの辻岡が・・・」という思いは断ち切れぬ。早いものが勝ちだ、のそのそしている奴ほど、辛い思いをする・・・・とひがみたくなる。

今は辻岡が西方浄土で奥方の手料理を前に、杯を傾けている図を思い描きつつ筆を()

(なにわ会ニュース96号38頁 平成19年3月掲載)

TOPへ    物故目次