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平成22年5月11日 校正すみ

塚田 浩君を悼む

西口  

粘っこいようで(ひょう)々とした、そして心地よい余韻を残すようなあの独特の話し振り、いつもにこやかで暖か味のあるやさしい物腰但しお達示は底力があって頗る頼母しかったが、好男児塚田にもう会うこともできないのかと思うとこの胸が傷む。

去る3月16日、押本からの第一報で彼の訃報を聞き、初めはまさかという気持で信じられない位であったが、さらに在京の実兄正氏にも電話してその事実は如何ともし難いことを知るにおよんで、実に暗澹たる気持に襲われたのである。江田島の一号時代赤煉瓦の同じ分隊で寝食を共にし、卒業後も霞空、神池空と同じく戦闘機パイロットとしての道を歩んだ親しい間柄として、実際他人事とは思われないショッキングな出来事なのである。

往時の大戦で過半数を失ったわれわれ期友も、その後の物故者は極めて稀で、入院したとか、切ったとかいう話は時々耳に入ったが、おそらく、ここ10年以上は訃報を聞いていないように思う。チョンガー時代の戦時中とは異なり、残された家族の方々の立場や将来といったものがすぐピンとくるようになったのは、お互い大人になったせいだろうか。

3月20日の彼岸休みを利用して取敢えず松本へ赴き、塚田の遺影に合掌の上、幸いにして和子夫人、守君(中3)、直子さん(小六)にお会いすることができた。

押本初め数名の期友と電話連絡の結果、一応クラス代表という形をとったものの、この代表一向に頼りないし、口下手の上礼儀知らずと来ているので、かえって遺族の方々にご迷惑をお掛けしたのではないかと心配しているような次第であるが、それはとも角、とりあえず松本まで出向いてみたというのが真相である。

塚田の近況についてはバイパスニュースの一部を引用しておこう。

 

第7号〈41.2.1) 松本から塚田 

 「われわれの海軍生活は美しく、懐かしく、またもっとも生甲斐のあった時代としていつも自分を励ましてくれます。信州松本にてじ来20年、現在はアルプスシャツKK役員として、母、妻、小6、3年の一男一女の父として元気に過しております」

 

第11号(42.5.1)  潜望鏡欄

 「膀胱といえば、松本在住の塚田浩、3月初め、そこの病気を手術のため、信大付属病院に入院中。悪性ではないので5月初旬には退院の予定。(4月中旬松本に出張した押本、一杯ヤロウと電話したら右の有様でお見舞となったのは残念)祈御快愉。」

 

その後一応元気になったものの、昨年暮あたりから再び悪化、遂に帰らぬ人となった由である。

夫人や守君と話しながら実はこんなことを考えた。折角松本まで出掛けてくるならなぜもっと早く、彼の元気なうちにやって来なかったのかと。仕事のこと、家のこと、子供のこと、車のこと、遊ぶ話、それに昔の思い出話など、それこそ何一つ気懸りもなく楽しく話し合えたものを。

 所で守君と会って驚いた。故人に生写しというわけではないにしても、受ける感じ、話し振りなど実によく似ているのである。

憎まれ児世に(はばか)るの(たと)え通り、現在生存中のわれわれは、中味が大したこともないのに、表面だけは堂々としている。しかし塚田は違う。表面実に柔かく頼りなげに見える位でありながら、芯のしっかりした頼り甲斐のある、しかも心の温かい人物である。うまずたゆまず努力を重ねることによって、三流の街工場を一流企業にまで大躍進させたその手腕一つを例にとってみても判ろうというもの。しかも家庭においてはよき夫、よき父としての数々、正に頭の下る思いがする。

お互い同じような年頃の子供を持つ親の身として、何といって遺族の方々にお悔みを申し述べるべきか全く言葉に苦しむ。

塚田よ!・・貴様はいい奴だった。これは貴様を知る総ての人々の等しく感じる所であり、またわれわれの胸に永遠に刻まれていて消え失せることはあるまい。しかし一言だけ文句をいわせて貰おう。あれだけよくできた、綺麗で若い夫人と、本当に目の中に入れても痛くない程可愛いく、将来が楽しみな子供2人を残して、なぜ一人だけ先に逝ってしまったのかと。

(なにわ会ニュース14号12頁 昭和43年5月掲載)

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