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平成22年5月3日 校正すみ

梅本 和夫君への弔辞

金枝 健三

 

梅本 和夫

謹んで、故梅本和夫君の御霊に申上げます。

梅本、貴兄は最愛の奥様と御子息を残して2月8日、旅立ってしまいました。人生80年と言われる今の時代に、何故そんなに急いで逝ってしまったのですか。

病を得たことは上田より聞き及びましたが、外見は優しい貴兄の、内に秘めた不擁不屈の精神は、必ずや病を克服し再び元気な姿で会えると信じておりました。

想えば昭和15年、若き心に祖国日本を護らんと、舞鶴の海軍機開学校に入校したのが、初めての貴兄との出会いでした。それから早や50年、いろいろのことがありました。舞鶴での生徒館生活、少尉候補生時代、追浜での整備学生、実施部隊での各地転戦、そして終戦、更に戦後の自衛隊へ・・・・と。あの生徒時代、貴兄は常に先頭をきって行動していました。白い帽子に黒線を何本もつけた体操服姿の貴兄を、今でもついこの間のように想い起すことが出来ます。その抜きんでた行動力がこんなに早く・・・いやそんな馬鹿なことが・・・と、あれを想い、これを想い、只々残念、無念、何とも言葉にならぬ口惜しい限りであります。

戦後の自衛隊での貴兄は、旧海軍航空隊時代の飛行機整備術の奥義を更に深め、三術校研究部長時代は機械装備品の充実を計り、防大の教官時代は最新の整備術を学生に教示し、自衛隊への貢献は計りしれぬものがありました。それが我々の目標でもありました将官の位を極めた次第で、これは故人、御遺族の栄誉はもとより、我々「クラス」としても誇らしいことでありました。

今、いつもにこやかな笑顔を湛えている貴兄の遺影を見ながら想い浮べています。しかし、もうその笑顔も見られません。奥様を始め御遺族の気持を想うと、何とお慰めしてよいか言葉もございません。只、お二人の御子息がこの様に立派に成人され、社会で活躍されていることが故人も安心され、そして奥様のこれからの心の支えとなることでありましょう。

洋(ひろし)さん・亨(とおる)さん、どうかこれからは、亡き父上の分まで母上に孝養を尽くして差し上げて下さい。梅本、名残は尽きません。どうか安らかにお眠り下さい。そして天の上より奥様、御子息を見守っていて下さい。我々残った級友も出来る限りのことは致します。

梅本、安らかにお眠り下さい。さようなら。

平成2年2月10日

海軍機関学校第53期 金枝 健三 

(なにわ会ニュース62号12頁 平成2年3月掲載)

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