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平成22年5月3日 校正すみ

故梅本和夫君を偲んで

村山 

平成2年2月8日午後3時過ぎ、室井からの連絡で、梅本君の訃報に接した。

実はこの正月に、彼から年賀状を貰っていたので、専ら療養に励んでいるものと思っていた。そこへ、室井からの知らせであり、そんなに病状が悪化していたのか、と驚いた次第である。

梅本君は、昭和60年4月、腹部疾患による手術をうけ、その後4年10ケ月の長い闘病生活を送っていたが、平成2年2月8日午前7時30分、ご家族の手厚いご介護の効も空しく帰らぬ人となった。

行年66歳(大正12年2月17日生)、(おくりな)は、梅本和夫大人(うし)之命と称す。

葬儀は神式で、氷川神社宮司の執行により、平成2年2月9日前夜祭(午後6時〜7時)、翌2月10葬場祭(午前10時30分〜11時30分)、出棺(同11時40分)、火葬祭(午後0時10分川越斎場)、帰家祭、引き続き10日祭(午後3時〜4時)が彼の家の近くの元福岡西沼自治会館においてしめやかに行われた。

今年は例年になく天候が不順で、東京地区でも2月初めには積雪20糎近くにも達する大雪の日があり、その後も雨模様で寒い日が続き、葬儀当日の空模様を気付かっていた。

しかし、さ程の崩れもなく寒さも和らぐ静かな曇り日で所々に残雪があった。

先輩・知人・同僚・後輩など彼の交友の範囲の広さを思わせるように多くの方々が参列され、級友を代表して金枝が弔詞を朗読、ご家族に続き参列者が玉串を奉奠し、故人に別れを告げた。

菊と蘭とで飾られ黒いリボンを掛けられた彼の遺影は、背広姿であるが、口を一文字に結び端然として凛々しく、60余年のわが人生は誠実一路、精一杯生きてきて何一つ悔いはないという気概が溢れていた。
 強いて心残りはと問えば、趣味とした蝶の採集及び切手の収集を中断しなければならないことであると語りかけているようであった。

彼は、男兄弟5人の3番目である。ご尊父は、師範学校において教鞭(きょうべん)(博物学専門)をとられ、子弟教育には極めて熱心であり、子供達はすべて大学へ進学するよう望んでおられたが、当時、時局柄せめて一人位は軍学校へ進ませねばならないということで、3男の彼に白羽の矢が立った。

昭和15年、彼は高等商船と海軍機関学校の両校に合格し、後者を選択した。四号は1分隊、三号は11分隊、二号は13分隊、一号は18分隊に所属、鉄筋コンクリート造りの第一生徒館、木造の第二生徒館、教室を改造した赤煉瓦造りの第三生徒館とすべての生徒館生活を送っている。クラスの中ではそれ程目立つ方ではなく、黙々として実力の養成に励んでいたタイプであった。

5番目の弟(卓)さんも、彼が卒業した年の12月、兄のあとを慕って機関学校56期生として入校、その配属分隊は、彼の一号時代の分隊と同じ18分隊であった。奇しき因縁である。

彼は、鶴岡中学時代、運動の面で頭角を現わしており、特に野球が大好きで選手として大いに活躍した。機関学校時代、体操の部では指導生徒となり、又銃剣術では「剛の上原、業の梅本」として部の双璧となり大いに力量を発揮した。(むべ)なるかなと思う。戦後の自衛隊時代でも、前田瑞彦君(機55期)の話によると、若い連中と野球をすることを楽しみにし、主に捕手をつとめ大いに気合いが入っていてメンバーを唸らせていたとのことである。

彼は、復員後暫くして仕事の都合で自宅を離れ下宿をすることになった。これが、奥様との出合いである。

 当時、彼は、海軍士官気質のままで純真な青年である。賭け事は一切知らない。しかし、奥様達が遊び事に誘うようになり麻雀・花札の手解きを受けるや、早速麻雀・花札の必勝読本を買ってきてメキメキ腕を上げ、ひと月と経たないうちに家中の者が、歯が立たない腕前になったとか、彼の性格の一端が窺える。

真面目、凡帳面、負けず嫌いの勉強家。このような彼の人柄に奥様のご両親が惚れ込まれ、礼子夫人とのご縁を結ばれることになった。

奥様やご子息が彼を評して、「仕事一筋の男」であるという。近時、マイホーム主義が主流を占めるライフスタイルの中で、彼は、終始仕事第一主義を貫き通している。

海上自衛隊時代の勤務地は、八戸、東京、横須賀、岩国、鹿屋など日本全土に及び、転勤は26回、長男洋君の転校は6回(次男亨君は幸い1回だけの転校)と、家族は大変苦労された。昭和43年頃上福岡市に居を構えてからは、彼が単身で赴任し家に帰ることは少なく、仕事、仕事の日々であった。彼の仕事への情熱と誠実さをひしひしと感じる。

在りし日の写真数枚を奥様がそっと見せて下さった。その中に、米軍士官を天ぷらパーティに招待し、ワンダフルを連発させたこと等々楽しかった思い出が一杯ありますと述懐されていた。仕事の虫とはいえ、奥様を労わる彼の優しさが偲ばれてならない。

彼の好物は、酒とタバコ。酒は斗酒なお辞せざる酒豪家で日本酒、ウイスキー、ビール何でもよし。毎晩一升酒である。タバコも一日三箱を割ることはない。健康を損ねた一因であるかも知れない。

彼は、自衛隊退官後、蝶の採集と切手の収集に情熱を燃していった。

彼が蝶など昆虫採集の趣味をもったのは、博物学に造詣の深いご尊父の影響を多分に受けたものと思われる。

生前彼が使っていた書斉には、七〇糎×五〇糎の箱が20余り置かれてあり、その中に採集年月日、採集場所、採集者名を書き添えて、蝶が整然と展翅(てんし)してある。

大紫蝶、立翅蝶、孔雀蝶、緋絨蝶、黄緑立翅蝶、瑠翅立麹蝶、大三筋蝶、小三筋蝶、一文字蝶、逆八嬢、天狗蝶、斑蝶等々採集した数は、1000を下らない夥しい数で、学術的には貴重な標本であろうが、門外漢には、ただ美しいなあ、見事だなあ、と感嘆の声を発するのみである。夜遅くまで展翅作業に没頭していた彼の姿が彷彿として思い起こされる。

彼の蝶採集の態度は、広範囲に手を出すというのではなく、一地域に生育する蝶を徹底的に採集分類することであった。その対象とした地域は、埼玉県内で、JR八高線(八王子〜高崎)の西側秩父山系である。

初めのうちは家族揃って採集に出掛け、家族団らんを楽しんでいた。しかし彼がこれという蝶を見付けると、捕獲のチャンスを掴むまで1時間でも2時間でもその場所を動かず待ち続けた。従って、約束の場所に、約束の時間までに戻ってこないので、連れの者が待ちくたびれた。このようなことが度重なり、彼の辛抱強さには家族の者がついて行けず、次第に彼一人で出掛けるようになった。

ある日、義兄の家に家族揃って遊びに行っているとき、たまたま庭に珍しい蝶が飛んできた。彼は裸足で庭に飛び出していったという逸話もある。

昭和60年頃からは、野鳥の会からクレームがつき、昆虫保護の観点から採集を減らし写真撮影に切り換えている。

彼の次の目標は台湾における蝶の採集であったが、志を果たすことができず悔しがっていることと思う。

書棚には、日本産蝶類文献目録、原色日本蝶類幼虫大図鑑、日本の蝶検索図鑑、原色台湾蝶類大図鑑が並べられ、特に目を引いた。

 彼のもうひとつの趣味は、切手の収集である。「Postage stump album 梅本和夫」と特別に注文したアルバム16巻に収められている。収集した切手は、その模様がすべて蝶に関するもので、全世界に及び、発行国別に分類してある。如何に蝶に深く魅せられていたか、驚嘆の外はない。

長男洋君は切手の収集を、次男亨君は蝶の採集を趣味とし、彼の志が二人のご子息に受け継がれている。今、彼は、生前果たすことのできなかった夢、台湾で珍しい蝶を追いかけていることだろう。

            冥福を祈る。   合掌

海軍関係の葬儀参列者は、次のとおり(敬称 略)

磯52期 真田、小島

機54期 金原

機55期 前田(瑞)、

同期生(兵) 後藤(俊)、柴田、長村、毎熊

(機)広田、金枝、飯田、野崎、三沢、室井、上田、佐丸、阿部(達)、村上、森山、安藤、山下、詫摩、村山、

(経)槙原

(なにわ会ニュース63号7頁 平成2年9月掲載) 

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