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平成22年5月2日 校正すみ

卜部生徒隊附監事逝去

 理平

 ト部章二先輩(65期)は昭和17年4月に兵学校に着任されて、新進気鋭の教官として、私達が卒業した昭和18年9月まで約1年半にわたり、教えを受けた。

その後半には生徒隊附監事になられ、軍艦における甲板士官的な任務を勤められた。我々は当時一号生徒だった関係もあって、直接の指導を頂くことが多かったことを覚えている。

それから2年後の昭和19年秋、私は捷号作戦で、乗組んでいた空母瑞鳳が撃沈された後、駆逐艦桜に赴任したが、卜部さんが艦長として既に着任しておられたが、予期もしていないご縁だった。

その後の約8ケ月間、艦長と航海長の関係で、ご指導を頂いたが、桜が磁気機雷に触れて爆沈し、心ならずも、お別れした。

戦後20年以上を過ぎた昭和40年代に、桜乗組員が集って、「桜会」を結成し旧交を温めつつ現在に至っている。

2年毎の会合は戦死者を追悼しつつ、昔話やお互いの近況を報告して、時間を忘れるのが常でした。

時の流れは早く、今や戦後も50年以上を経過した。この間に病を得て冥土に旅立つ戦友も少なくなかった。

10月9日、突然、卜部さんが亡くなったとご家族からの知らせであった。近年は脚部の血管が閉塞して歩行が国難になり、運動が出来ないと聞いてはいたが、まさかの知らせだった。

11日に、神戸市西神会館で告別式が行われ、海軍の関係者も出席し、私は次ぎの弔辞を読ませて頂き、教官であり、艦長であり、人生の師であった卜部さんにお別れの挨拶を致した。

ここに、卜部さんの訃報を皆様に報告申上げます。

 

   

謹んで元、桜駆逐艦長卜部章二少佐のご霊前に申しあげます。

卜部艦長と私達桜の乗組員とのご縁は太平洋戦争の末期である、昭和19年11月に桜が横須賀軍港で、誕生した時に始まります。

ト部さんは桜艤装長を命ぜられるや、横須賀市田浦の海軍水雷学校から直ちに艤装中の桜に乗り組んで、只一人の士官として工事を監督しておられました。

その時は少数の下士官兵が着任していたたけでした。

同年10月25日の比島沖海戦で、囮部隊の一員として出撃し、乗艦を失い、桜乗組みを命ぜられた先任将校以下が続々と着任し始めたのは11月20日を過ぎてからでした

航海長予定者の桂中尉が着任したのは20日、と記憶していますが、艦内が工事用資材で雑然としていた時に、舷門に到着して着任の旨を申し入れたところ、奥の士官室から金ピカの真新しい少佐の襟章をつけ、口髭を生やして貫禄はあるが、大変若い感じの士官が出てきて

「おーお、よく来た、待っていた。俺はト部少佐だ、入れ、入れ」

と抱きかかえんばかりに、招き入れて下さったのでした。士官着任の第一号でした。大きな軍艦では考えられない、くだけた駆逐艦乗りの応対であった。

然し、「ちょっと待て」と桂中尉は思った。この人は2年前に、江田島の兵学校で厳しく教育をして頂いた生徒隊の附監(ずきかん)の卜部大尉だと直ぐに判った。これは大変なところに来たものだと思い、期待に添える仕事が出来るのかと不安を覚えました。

が、案に相違してこの歓迎である。以後も変わることのない、暖かい誠心誠意の指導を頂いたのでしたが、これは桂一人のみでなく桜乗組員の全員が、厳しい中にも情けがあって、常に向上心を持てといわれ、自分の配置に全力を尽くせよと教えられ、訓練して頂いた事を決して忘れるものではありません。

昭和20年7月11日0530、神戸市御影沖で米軍の飛行機が夜間に投下した磁気機雷に触れ、爆沈するまでの9ケ月間、艦長の下で戦いを続け、絶大なご指導を受けました。

改めて厚くお礼を申し上げます。

 

この日には乗組員310名の内、約100名が戦死しましたが、戦後、艦長はこの人達に申訳ないことをしたと度々述懐されていました。

2度目の大爆発、これは後部の弾火薬庫の誘爆だったのですが、この時、桜の後半の艦体は千切れて吹き飛んでしまいましたが、艦橋では豊島駆逐隊司令と卜部艦長は鉄の壁やコンパスが設置してある柱に、爆発のショックで衝突して気絶されました。航海長や駆逐隊信号長の井上兵曹を始めとする五、六人の者が、既に横転してほぼ90度に傾いた艦橋の窓から、気が付いたばかりの2人を救助出来たことは誠に幸運であったと今でも思っています。

以下のように卜部艦長を頂点とする乗組員の団結は強く、固い絆で結ばれていたのであります。

戦後には駆逐艦桜会を結成して、戦没者の慰霊と、生き残った乗組員の親睦を深めることに努めて参りました。多くの人々が集まり今も盛大に行っていますが、その中心は勿論卜部艦長でした。

戦後も既に53年を経過して、生き残った人の中にも物故された人が多くなりました。

その都度、淋しい思いをしましたが、本日遂に卜部さんを見送ることになりました。淋しさは例えようもありません。

しかし、生死の別離は避けることが出来ません。涙と共に、私達はお別れを告げますが、向こうに行かれたら、先に逝った戦友や物故者と積もる話をしていて下さい。その内、遠くない将来に、残された者もきっと仲間に入れてもらいます。冥土で乗組員全員が集まって盛大な桜会を、必ずやりましょう。

艦長、その時まで、暫くの間「さよなら」と挨拶を申し上げて、弔辞を終わらせ頂きます。安らかにお眠り下さい。

平成10年10月11日

駆逐艦桜会 会長

元、先任将校兼砲術長 隠沢 兵三

元、水雷長      金丸  

元、航海長        理平

(なにわ会ニュース80号8頁 平成11年3月掲載)

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