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平成22年5月15日 校正すみ

吉峰 徹君を偲んで

名村 英俊

吉峰 徹君が乗っていたイ400

  昨年9月、吉峰君入院の知らせは、山下誠君の配慮によって、雑事整理のため郷里に滞在していた私にも届いた。帰京後、クラスの誰彼にその後の様子を訊ねたが確たる状況を得ないままに過ごして11月12日の呼吸不全のため逝去との悲報を受取ることになった。告別式は鎌倉駅に近い「ときわホール」において彼の遺志に従ってご家族ご親族と身近な友人知己が集まり、無宗教葬で執行されたが、生前の彼を思い、しんみり心に残る別離の一刻であった。

 彼と私は同じクラスとは言い条、江田島時代もさることながら、卒業後も親しく口を利く機会もないはずの飛行機野郎とドン亀乗りに別れ、その意味では疎遠な関係であった。

 ところが、私の乗艦する伊400潜の晴嵐隊の飛行長として彼が着任し、更に伊401潜の竣工を待って編成される第1潜水隊の主計長として山口勝士君が着任すれば、400潜に乗艦指定されることになっており、プロパーの機関長付森川恭男君と私を含め同期4名が士官室に顔を揃えることになる。この様な現象は、甚だ潜水艦では珍しいのではないかと機会あるごとに酒の肴にされたものだ。

 29の飛来が頻繁になり、投下される機雷の被害も続出して、瀬戸内海での訓練が不可能となったため、第一潜水隊は能登半島の七尾湾へ移動して搭載機と連携しての猛訓練を約1ヶ月、その間、墜落事故で1機を失う事件も発生したが、概ね所期の練度に到達したものとされ、舞鶴軍港に移動して戦備作業を急ぐこととなった。

 第1潜水隊に与えられた作戦は、トラック島に先行する伊13、14潜搭載の彩雲によるウルシー泊地偵察後、戦機を見て伊400潜及び伊401潜の晴嵐6機による在泊艦攻撃に従事するというものであった。かくて、舞鶴出港を前に、伊401潜艦上において出陣式があり、6艦隊長官から搭乗員に短刀が贈られ、神龍特別攻撃隊と命名された。解散に際し伊401潜の浅村 敦(70期)飛行長の「ここで別れて再び顔を見ることは無いが、お互い自愛自重して任務を達成しよう」との両艦搭乗員への訓示は、我々の胸を打つものがあった。

 舞鶴出港後大湊を経由して戦場到着までにも結構事件が発生しているので、次に略記する。

 事件の第一は津軽海峡を抜けた地点で敵潜を探知し、急速潜航。この結果、13号電探故障、修理不能となり、その後の対空警戒航行に一層神経質にならざるを得ないことになる。

次なるは昼間潜航中に発生した左舷「モーター室」火災である。同時に発生した有毒ガス排除のため、急速浮上したが、敵輸送船団のマスト発見、直ちに潜航して事なきを得た。この間、無動力のなか、よくツリム保持に成功した潜航指揮官斉藤一好大尉(69期)に敬意を表する

第三の事件はウルシー攻撃前の両艦最終会合が実現出来なかったことである。400潜は所定の日時に所定の会合地点に到着したが、待つ相手は一向に姿を見せない。これは、司令の状況判断で会合地点、日時とも変更されながら、その命令電報が400潜に届かなかったからである。後日その原因を検討したが結局は謎である。もっとも、程なく生起する情勢の大変動を考えればこの会合の適否はまた別の判断によるという評価も出来ると思う。

 六艦隊からの停戦、帰投命令を受信したのは、8月17日の頃だったと思う。8月に入ってからは、ソ連の参戦やら広島への特殊爆弾の投下など放送電波や敵信傍受を通じて何か画期的な情勢展開の空気は感じてはいたが、斯く現実を戦線にあって正視せざるを得ない感慨特別のものがあった。

針路を北に向けてからの当直の一刻、日下艦長の「吉峰たちを殺さなくて本当によかった。」と述懐されたことは決して忘れない。晴嵐を始め魚雷、砲弾など武器の海中投棄も情けない作業だった。

 8月28日、明日は大湊到着という日の午後、遂に警戒中の米駆逐艦に遭遇し、横須賀回航を要求され、針路を南に向けた。翌日には拿捕要員として潜水艦乗組員が到着して、駆逐艦からの乗員と交替した。この連中は流石に本職だけあって何時の間にか、本艦の乗員に混じって横須賀への航海を続けた。横須賀での錨地が「ミズリー」号に近かったので世紀の降服調印式の雰囲気だけは感得することが出来た。

この後、同じ運命を辿った401潜と14潜の乗員ともども潜水艦基地隊に移り、艦の引渡し作業に約3週間を費やし、9月20日頃久里浜の工作学校跡に収容された。ここで、復員業務を済まし、それぞれの郷里へ帰ることになったが、私は九州まで帰る吉峰君と同じ列車で西下した。この頃、大雨のため、関西以西は水害のため列車の運行も不規則だったが、どうやら彼も無事帰郷出来たようだった。

 戦後、彼と再会出来たのが何時頃だったかははっきりしない。しかし、それは、日下敏夫(53期)艦長ご健在の間、毎年場所を変えて行なっていた400潜会の会場であったことは間違いないと思う。

 晴嵐関係の連中に囲まれて嬉しそうに飲んでいた姿が浮かぶ。彼、吉峰がもっとも信頼していた操縦の高橋一雄少尉も昨年亡くなった。吉峰君に先立ちこと半年。何ともいえぬ寂しさである。

私はこの拙文が何時の日か、吉峰家の皆様の目にとまることを(こいねが)うものである。潜水艦から航空攻撃という前代未聞の作戦ながら、その無理と制約を甘受した気力と、部下の先頭に立つ犠牲的行動を示した吉峰君をご一族の誇りとされることを念願するが故である。

謹んで吉峰 徹君のご冥福を祈る。

(なにわ会ニュース94号11頁 平成18年3月掲載)

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