TOPへ  物故目次

澤本倫生君の「私の人生」

編集部

 澤本君がなくなって一年、昨年八月五日一周忌に行なわれた同君を偲ぶ会で製本された「私の人生」という本をいただいた。

この本の冒頭に次のように書かれている。

「私は戦争という今の若い人達には絶対経験させてはいけない体験をした。孫達に理解させるのはトテモ難しいと思うが、たまたま普通の人はかからない膵臓の異常で長期療養せねばならなくなったのをチャンスとして、想い出の記を書き残してみよう。」

この中から、いくつか紹介してみたい。

一 一撃講和論

  シンガポール陥落の頃海軍次官だった父が戦後「シンガポールが陥落したときに、真剣に和平を考えた。・・・だが、あまり初めの調子がよすぎたので、モタモタしているうちにチャンスを逸した」と述懐した。

  では、一撃講和論は見込みがあったろうか。私は全くなかったと思っており、最近「日本が最も有利な状況にあった一九四二年の春頃に和平を申しいれるべきであったとよく言われるが、アメリカは真珠湾攻撃の直後から、必ず日本に勝ってこれを叩きつぶすという決意と自信のもとで戦ったのであり、最も不利な情勢にあっても、決して和平の呼びかけに応じなかったであろう。

二 海軍のクーデター派のシンパ

  終戦の三日前の八月十二日の夜の件について、「なにわ会ニュース」十五号十五頁にあるとおり書かれている。

三 被雷沈没

  一九四四年十一月二十八日三隻の駆逐艦の護衛のもと空母信濃は横須賀を出港し、翌二十九日朝遠州灘南方で魚雷三本を受けて沈没した。

夜九時頃「逆探感度あり。」の報告があり、信濃艦長は雪風に調査を命じた。雪風から「後ろから追っている艦は何度味方識別の信号を送っても反応がない。漁船が見張りせずに航行していると思われる」と報告があった。

  この漁船らしいフネは水上航行で信濃を追っていた米潜だったのではないかと思われるが、何故もっと接近して調査しなかったのかと惜しまれる。

 

あとがきに代えて、令息恵司氏は次のように書いている。

「父は十六年二月に、戦後初めて治療の為に入院した。その時、孫達若い世代に絶対戦争を経験させてはいけないと戦争体験を伝えようと人生を振り返って書き残したくなったようである。

入院中は原稿用紙にかいていたが、四月退院後はワープロで打ち込んでいた。

六月二十六日に一旦、本人の力で「私の人生」と題して纏めた。それは孫(私の長女の麻利絵・高校一年)には分らない点が多かった。

そこで、麻利絵は父にインタビューして、同世代にも分るよう説明を加えながら清書して、父にみてもらっていた。

七月末、父が再入院するまで文章の不明な点を聞いていたが、父は次第に明快に答えられなくなっていった。」


TOPへ  物故目次