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なにわ会のブログ 22年4月

41

いよいよ4月に入りました。65年前の4月にはなにわ会同期生が61名も戦没しています。

卒業生787名の7.7%にあたります。レイテ海戦が行われた1910月の68名に次ぐ多さです。

  4月には決死の大和艦隊の沖縄特攻が行われて、艦で3名が戦死しているほか、航空部隊では45名も亡くなっています。そのほか、震洋1名、回天2名、潜水艦3名、兵器3名、整備3名が亡くなっています。

 その大半は航空関係者ですが、中でも気の毒だったのは、兵器、整備で比島に配属された会員が本務でない陸戦で亡くなっていることです。謹んで亡くなられた英霊のご冥福を祈ります。

4月1日の戦没者 66年前 なし 

65年前

 清水武(205空 戦闘機)宮古島南方海面で

  神風特別攻撃隊第1大義隊として敵機動部隊に突入戦死(零戦)

 床尾勝彦(攻102艦攻操)石垣島南方海面で

  神風特別攻撃隊忠誠隊として敵機動部隊に突入戦死(彗星)

  次の記事が77期の会員に一括配布されていました。ご参考まで。

『67期教官の市来氏と防大1期平間元海将補の主催する市来会は「戦史と現代史」の勉強会で年5回、水交会で開かれ、水交会誌に予告されます。私は8−14回に出席し特に216日の72期左近允氏の「ミッドウェイ海戦(下)」は興味深く拝聴しました。』

 

42

4月2日の戦没者 66年前 なし 

65年前

 高崎孝一(601空 艦爆操) 沖縄周辺海面で

  敵機動部隊索敵のため基地発進後消息を絶つ(彗星)

 高崎君の最後については、高崎澄子さんの次の記事に詳しい。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-takasaki-yamane-otouto.html

 また、次の高崎の海軍兵学校時代の日記がある。

1学年時 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/kaihei-takasaki11.html

2学年時 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/kaihei-takasaki21.html

3学年時 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/kaihei-takasaki31.html

私は彼と1号時55分隊で一緒であった。

 

 なには会だよりの発行となにわ会の基金について

平成221月末のなにわ会基金の残高から今年1年間の必要経費を見積もって差し引くと22年末には基金残高は極めて少なくなり、なにわ会だより第3号(229月発行)までは発行できるが、第4号を発行するには基金が不足してくると思われる。。

 そこで、第4号以降をどうしたら良いか諸兄の御意見を頂いたくてメールを送った。

なお、金枝健三君のご意見もあり、村山隆君には手紙で送った。

 既に10名の方からご意見を頂いたが、是非沢山の方のご意見を頂いて、その結果を第3号に掲載報告して処置したいと考えているのでご協力宜しくお願いします。

 

43

4月3日の戦没者 66年前 なし 

65年前

 山崎州夫(205空 戦闘機) 沖縄周辺海面で

  神風特別攻撃隊第3大義隊として敵機動部隊攻撃に向かい戦死(零戦)

 本田武夫(戦313戦闘機)奄美大島南方海面で

  神風特別攻撃隊等3御盾隊252部隊として敵空母に突入戦死(零戦)

 小灘利春君の遺稿を整理掲載されている73期峯氏の令息峯一央氏のHPにあった回天で亡くなったなにわ会会員の記事を整理して取り込んだ。

 

機 斎藤 義衛    4月の思いで

194

 ・1日 米機動部隊 トラック、パラオ空襲

 ・2日 連合軍ホーランジア上陸

機関科の戦死者  無し                      

204

 ・1日 米軍沖縄本島に上陸 

 ・5日 ソ連日ソ中立条約破棄

     小磯内閣総辞職

 ・7日 鈴木内閣成立、大和玉砕

機関科の戦死者 8

比島に於いて、整備、兵器のクラスメートは転進作戦で本務ならざる陸戦隊として苦難壮絶なる死闘。

  高脇圭三(大和)、小山 力(偵察)、本田武夫(3御盾隊)

  門脇国樹、青木光雄、岸 昭、増井吉郎、松山行輝(以上整備)

 

上の作品は転進苦闘の地 ファンギ山を望む(齋藤画)

この作品をご遺族に進呈した。

整備諸氏の奮戦を金枝健三君の手記(比島クラーク地区に眠る級友を偲ぶ)戦記を再読して戴きたい。

 

44

4月3日現在の永代神楽祭の出欠返事の集計

参拝のみ参加 16名  懇親会まで参加 37名  合計参加53

欠席 96

 

 来る4月18日(日)午後1時30分〜3時30分、「元七二一空(神雷部隊)桜花隊分隊長・新庄浩氏を囲む会」がNPO法人零戦の会主催水交会にて行われる。

新庄浩君は戦闘機搭乗員として零戦に搭乗され、七二一空では特攻機「桜花」隊の分隊長を務めていた。彼は昭和26年、国電桜木町駅で電車が炎上、106名もの死者を出した「桜木町事件」の、火災車両唯一の生存者でもある。

大変お心の爽やかな方で、会員一同の敬愛を集めておられると紹介されてい

 

45

4月5日の戦没者 66年前 なし 

65年前

權代博美(攻703 偵察) 南西諸島周辺海面で

  沖縄周辺に機雷敷設のため基地発進、敷設任務終了後、消息を絶つ(一式陸攻)

223月のブログを整理してHPに取り込んだ。

 

46

4月6日の戦没者 66年前 なし

65年前 

野中繁男(宇佐空 艦攻操)沖縄周辺海面で

  神風特別攻撃隊第1八幡護国隊艦攻隊として敵戦艦に突入戦死(九七艦攻)

牛尾久二・前橋誠一(百里原空艦爆操)沖縄周辺海面で

  神風特別攻撃隊第1正統隊として敵輸送船団に突入戦死(九九艦爆)

高橋義郎(名古屋空艦爆操)沖縄周辺海面で

  神風特別攻撃隊第1草薙隊として敵艦に突入戦死(九九艦爆)

百瀬甚吾(攻1 偵察)沖縄周辺海面で

  神風特別攻撃隊第3御盾隊601部隊として敵機動部隊に突入戦死(彗星)

江口正一(偵4 偵察)九州南方洋上で

  九州南方海面を素敵、戦果確認中消息を絶つ(彩雲)

 

関西なにわ会

  5日日関西なにわ会がは好天に恵まれて楽しく開催されました。参加者は上野三郎、大村哲哉、久米川英世、小西愛明、椎野 廣、鈴木 彊、富尾治郎、樋口 幹、諸橋久信、山本省吾、渡邉 望の11名でした。記事は後ほど幹事渡邉望君が送ると思いますが写真を送ります。

 

左から後列、椎野 廣、大村哲哉、鈴木 彊、諸橋久信、樋口 幹、上野三郎、小西愛明

前列 渡邉 望、久米川英世、富尾治郎、山本省吾

 

左から 富尾治郎、小西愛明、諸橋久信、上野三郎

 

左から 小西愛明、諸橋久信、上野三郎、富尾治郎

懇親会終了後有志5名(上野三郎、富尾治郎、諸橋久信、山本省吾、小西愛明)は桜は満開で名勝に指定された渉成園の庭園を回遊した。庭園ははとても美しく、優雅な一刻を過ごしました。

(山本省吾君より)

 

湘南歩こう会

5日、湘南歩こう会が行われました。(上野三郎君より)

平成2244日(日)(最初は48日の計画だったが、開花状況が早まったので繰り上がった)に実施された。

集合は京浜急行金沢文庫駅に1200集合、

称名寺、称名寺市民の森を巡って昼食後、1445解散。

最高気温11℃、曇り、北風のやや強く、およそ観桜とはかけ離れた、身震いするような天候だった。また、幸田君の案内書には‘市民の森を少し歩くと’書かれていたが、それが石段続きの強行軍で流石の幸田君も昔はこんな筈でなかったとぼやくことしきり。しかし頂上の八角堂からの眺望は抜群。

称名寺庭園は観桜のスポットであるだけに、また、今日が春休みの最終日であるだけに、寒くても家族連れや、職場のグループで広場は座る場所がないくらい埋まっていた。平均年齢80歳を越す我々のグループは多少異色であったが、周囲から若さを吸収出来たのは大きな収穫だった。

家に辿りつくと万歩計は11,501歩を示していた、その中には急な石段の数百段の歩行が含まれていることを勘案すると、よくも歩いたものだと我ながら感心した。幸田君タフないい企画有難う。参加者9名(男4名、女5名)

   親四国八十八箇所霊場七十五番の観音通りで

   金沢山の頂上の八角堂

   八角堂よりの眺望(手前称名寺、左上八景島)

    北条実時公(称名寺の開祖)廟所    

    称名寺金堂と浄土式庭園

    赤門横の一本の幹に紅白の花がつく源平桃 

        広場に席を占める観桜客

47日 天一号作戦

4月7日の戦没者 66年前 なし

65年前 天一号作戦で大和艦隊10隻のうち6隻(戦艦大和、巡洋艦矢矧、駆逐艦朝霜、霞、濱風、磯風)が撃沈された日である。この日の戦没者は、

長谷川宏之(13空 艦攻操)沖縄周辺洋上で

  敵機動部隊攻撃の為、基地発進後消息を絶つ(天山)

深見茂雄・浅野祥次(朝霜 駆逐艦)高脇圭三(大和 戦艦)九州南西海面で

 天一号作戦:海上特攻部隊として、沖縄に向け出撃、敵機の攻撃を受け沈没戦死

なお、この作戦に参加した期友は次の通り12名で、前記3名のほか9名は無事生還したが現在生存者は国本鎮雄、池田武邦の2名のみである。

大和 国本鎮雄、故高脇圭三 、矢矧 池田武邦、 冬月 故中田隆保、涼月 故古前英雄、磯風 故郡 重夫、濱風 故磯山醇美、雪風 故中垣義幸、 朝霜 故深見茂雄、故浅野祥次、霞 故大谷友之、初霜 故松田 清

 70期森田先輩から、先輩が書かれた「台湾沖海空戦"開幕第一報”は私が打電した」の記事を送ってもらった。

               森田先輩

               小山力君

 先輩は偵察で、一四一海軍航空隊偵察第三飛行隊分隊長として勤務しておられた時、何時も操縦の小山君(機53期)とペアを組んでおられた。お互い信じあっての好ぺアであったと述べておられる。そして昭和191010日の索敵で「米機動部隊を発見」の第1報を報告している。森田先輩は昭和202月下旬霞ヶ浦航空隊に転勤して小山君と別れる事になった。そして小山君は20422日、沖縄戦のまっただなか、索敵に出て喜界ヶ島付近で米未帰還(米機と交戦戦死)となった。

なお、この事は、森田先輩の書かれたなにわ会HPにある「偵察隊戦記」http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/seni-1-teisatutaisenki-morita2.html

も参照されたい。

大和沖縄特攻     齋藤

()高脇圭三戦死、大和と共に今尚沖縄の海底深くに眠る。

当時、私は駆逐艦宵月の機関長付(航海長堀剣二郎、宵月は1末浦賀ドックにて竣工、第二水雷戦隊所属となり三月に呉に回航)

宵月も沖縄特攻に参加の予定で可燃物陸揚げ・着任したばかりの少尉候補生は退艦の指令があったが、直前になり錬度不足の理由で作戦部隊より除外された。

大和は329日上甲板で軍楽隊が軍艦マーチを演奏して母港に別れを告げ、在泊艦艇乗員の帽振れに応えながら単艦で出港した。

高脇の配置は機械室か缶室か不明なれど、両方の配置で戦った私には高脇の無念の最後がそのまま伝わって来る。

3分隊2号は7名だった。高脇・豊住(回天)・坂本(戦闘機)・佐野(瑞鶴)4名が戦死、佐藤・斉田が戦後病没し残存艦艇は私一隻となってしまった。寂しい限りだ。

48日 なにわ会だよりについて

 なにわ会の絆を保つ手段として、HPとブログで情報の配布に努めるほか、連絡報(なにわ会だより)を年2回配布してきたが、今後これを継続するか、もう取り止めるかについて、メール交換出来る会員に意見を聞いたところ次の返事を得た。

A案(なにわ会だより第3号(平成229月発行)で終わり) 5名

B案(会基金として会員(ご遺族)1万円(5千円)を集め継続) 5名

C案(会基金として会員(ご遺族) 5千円(25百円)を集め継続) 5

D案(会基金として寄付金15千円 会員(ご遺族)2口(1口)集めて賛同されたもののみに配布継続 4

お任せ 1

未回答 会員12名 ご遺族28

 上記回答から見ると全般的傾向として、関心のある方は継続希望が多いが、一方ご意見を頂いていない方が、会員の40%、ご遺族の90%と多いという事は関心がない、極言すればもう止めたらどうかと思っておられると判断される。

 そこで、この結果について樋口 直君、左近允尚敏君、泉五郎君、窪添龍輝君と話して賛同を得、更に上野三郎君、村山隆君にも意見を求めているが、第3号で発行を取り止め、以後はHP、ブログのみで情報を配布することに決定したいと考えている。

 小西愛明君から先日の関西なにわ会について手紙を貰いました。46日のブログに追加記入しましたので再度見て下さい。

水交画会展の開催

1 日時 平成22419日(月)〜24日(土)1100〜1800

    (最終日は1600まで)

2 会場 東京交通会館 2階 ギャラリー

  千代田区有楽町2−10 電話03−3212−2932

  JR有楽町駅・地下鉄有楽町線有楽町駅から地下道でビル直通

上記のように水交画会展が開催され、これに会友の藤瀬韶国君が出品します。 

49日 なにわ会だよりについて

 昨8日に書いた表記について、樋口 直君から次の意見を頂いた。

『「なにわ会だより」については、昨日電話で結論のみ申し上げましたが、小生個人の考えとしては、折角の(なにわ)会の絆は、正式の会が解散しても、続けられるだけ、消息だけは、お互いに交換して有終をおえたいと思っているので、前便で申し上げたとうり、多少の費用を負担しても貴兄の体力が持つかぎり、お願いしたいところですが、アンケートの結論はたいへん消極的に見受けられる。

 残念ながら、この辺で打ち切りとする貴兄の案に賛成せざるを得まい。

しかしご苦労ですが会員の慶弔見舞い、訃報の通知、住所変更等、必要最小限度の連絡は、年一度でもよいから、続けて頂きたいと思います。HPやブログでも連絡できますが、これでは受け入れの機器を持っている限られたひとのみとなるので用を成さぬように思います。それも皆の関心が少ないようなら年齢の問題もあり、全面的に打ち切るのも考慮に入れてください。年は取りたくないものですね。

 また、上野三郎君からは次の意見を頂いた。

『第3号発行後基金の残り具合をみて、その後の事も考え少々の基金を確保するため寄付を募ったらと思考します。』

 また山本省吾君からは要旨次の意見を頂いた。

 本日のブログを見ていよいよ「なにわ会たより」を休止する方向とのことで実に残念です。貴兄の他人にはできない多大の成果や生甲斐が減り、小生まで力を落とします。

◎ 前回の「たより」発行直後、貴兄に寄せられた読書感では感謝の声・喜びの声が荷電や手紙等で多数送られてきたとブログで紹介されていたが、あれは一部の少数意見だったのだろうか?

◎ 本日のブログでは返答のない不特定多数の人を不必要と判断しているが、即断ではないでしょうか。HPなどを持たず「たより」を唯一の情報源としている人たちの意見を聞かれているのでしょうか。

◎ 今後はHP主体で進めると書いてあるが、後継者も決まっていない現状では、貴兄が体調を崩せば、今後の情報は勿論、貴重な資料も霧散してしまう恐れが強い。(以下略)

 これ等の意見も考慮し、樋口 直君提案の「会員の慶弔見舞い、訃報の通知、住所変更等、必要最小限度の連絡」は配布を継続したいと思います。なお、配布先については配布希望者のみとし、その基金を寄付して貰おうと思います。

74期訃報

 橋本幸二郎様 2248日 没

天1号作戦 堀剣二郎

 天1号作戦のブログを読んで。

 作戦参加者に冬月の吉成 淳君が入るのでわないかと思うがたしかではない。彼は昭和20820日、乗艦の冬月が門司港の岸壁を離れた際,磁気機雷に触雷し、その時亡くなった。彼が冬月に4月7日以前に乗組んでいれば勿論参加している。私は冬月が作戦から帰って門司港の岸壁に係泊中、良い戦訓を求めて呉から出張して冬月を訪ねた。私の記憶によれば、そのとき吉成君に会えると思っていたが休暇で不在であった。この記憶が確かでない。なお、得た情報は航空機から発射されたロケット爆弾が2発士官室の外板を貫通したとのことであった。これは爆弾をロケット化して命中率をたかめたもので前年の昭和19年には見られなかった。

410

4月10日の戦没者 
66年前

鈴江 理(神ノ池空 戦闘機)鹿島灘で

  飛行学生として訓練中、墜落殉職

65年前

森山修一郎(戦316 兵器)ルソン島で

 兵器分隊長として、ヒナツボ山中の比島上陸軍に斬込み突撃戦死

55期のHPに次の記事があった。

1 海軍機関学校53期 1号時代(昭和17.11.2818.9.15) 分隊別名簿(村山 隆君作成)

2 海軍機関学校53期 戦後死亡者名簿(村山 隆君作成)

3 大東亜戦争の情勢・記録・海軍機関学校第53期戦没者(斎藤義衛君作成)

このうち、機53期の一号時代の分隊別名簿をHPに取り込みました。 

 昨日頂いた山本省吾君の意見に返事を送ったところ、また、メールを頂いた。その中に「樋口兄の意見にもあるように貴兄が元気な限りは、やはり最低源の情報はぜひ続けて欲しいものです。」と述べられている。

また、経費節減について具体的な提案があった。

411

4月11日の戦没者 

66年前 

 登丸 肇(秋雲 駆逐艦)   比島南方サンボンガ沖で

  敵潜の雷撃を受け沈没戦死

65年前

 入佐隼人(攻703 陸攻操) 九州南方洋上で

  洋上夜間索敵中、敵夜間戦闘機と交戦戦死(一式陸攻)

永代神楽祭出欠の返事の集計(410日現在)

  出席71名(参拝のみ20名 参拝して懇親会参加51名)  欠席113

 未回答 会員91名  ご遺族153

出欠の締切は415日です。まだ回答を送っていない方は早速投稿してください。

なお、欠席の方も是非返事お願いします。


会員S君から頂いたなにわ会だよりについての意見

 1.編集・印刷・発送、それに金の掛かる仕事は3号を以ってキッパリ完結すべし。 会員諸氏が齢85を過ぎ正に一年一生、一日一生の今、一大決心を以って仕事の転換を図る時。縮小や簡素化は良策ではない。

 2.なにわ会は今後、永代神楽祭のみとなり、これも先細り必至。会員の訃報その他はブログに切り替えるべき。そのブログの終結も心すべき。

 3.そしてブログの閲覧は携帯で。

 4.なにわ会HP250編の戦記を筆頭に不朽の資産である。中身を整理し管理を将来水交会に移管したらどうだろう。 

パインなにわ会は58日(土)1500から実施で計画されている。近く案内状が発送される予定。

412

4月12日の戦没者 

66年前 昭和19

山科 享(千歳 空母)内海西部で

 艦上機の着艦訓練中、着艦指揮所にいて着艦してきた飛行機と接触し殉職 

65年前 昭和20

上田清市(352空 戦闘機)沖縄中城湾で

 制空隊として敵戦闘機と交戦戦死(零戦)

野上祝男(攻708 陸攻操)沖縄周辺海面で

 第3神風桜花特別攻撃隊神雷攻撃隊として沖縄沖に突入戦死(一式陸攻)

中西達二(百里原空 艦攻操)

 神風特別攻撃隊常盤忠華隊として敵主力艦に突入戦死(九七艦攻)

片山市吾(302空 戦闘機)奄美大島で

 制空隊として基地出撃、敵戦闘機と交戦戦死(零戦)

橋本達敏(戦301 戦闘機)喜界島上空で

 制空隊として基地出撃、敵戦闘機と交戦戦死(紫電改)

滝沢昌彦(381空 戦闘機)上海方面で

 鹿屋から上海経由南方へ展開のため、空輸の途次、燃料系統故障し、不時着戦死(零戦)

田中たくみ(元山空 戦闘機)南西諸島周辺海面で

 神風特別攻撃隊第2七生隊として敵艦に突入戦死(零戦)

小林俊雄(大村空 戦闘機)・奥原新次郎(谷田部空 戦闘機)南西諸島方面で

 制空隊として基地出撃、敵戦闘機と交戦戦死(零戦)

沖縄戦の真最中、神風特攻での戦死3名を含み1日で8名も戦死した。

ネットにあった戦没者(大森 茂・床尾勝彦・遠藤晴次・久住 宏・福田 斉)の遺書・手紙をHPに取り込んだ。

4月11日のブログをみて  堀 剣二郎

 登丸 肇(秋雲) 比島ザンボアンガ沖 にて戦死とある。

  ザンボアンガは比島ミンダナオ島の最西端の主要都市で、私は駆逐艦 敷波で19年始め頃、陸軍部隊を輸送して入港したことがある。南方特有の濃い緑に包まれた美しい街であった。登丸君の名前をブログに見ると惜別の情 新たなるものがある。

日記 413

 4月13日の戦没者

66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20

古川次男(呂64 潜水艦)広島湾で

 教務のため潜航訓練中、敵敷設の機雷に接触沈没(戦死認定)

満田 茂(205空 戦闘機)台湾東方海面で

 神風特別攻撃隊第9大義隊として敵艦に突入戦死(零戦)

 渡邉 望君から先日の関西なにわ会の記事送って貰いまいた。

 昨日行われた機関科の歩けの会の記事、斎藤君が書きこんでくれて嬉しかった。

 先日は堀剣二郎君が書いてくれた。他の会員、遺族会員の方も書いて下さい。書き方分らなければ、お電話下さい。具体的にお知らせします。

機関科 歩けの会    齋藤

機関科の歩けの会の歴史は古い。

51期の「G3川辺の散歩」(Gとは爺の意)なるテキストに触発されて平成117月より10名のメンバーで始まった。その面々は 大森・安藤・蔵元・佐丸・村山・野崎・金枝・三沢・室井・齋藤。その後大森が亡くなり又安藤・蔵元・佐丸が体調不良で休止中にて6名の現況。最初は隔月のテンポで教科書通りに色々な川沿いを。(善福寺川・深川・引地川・境川・神田川・荒川・江戸川・多摩川・野川・隅田川・玉川上水) やがてコースは神社仏閣、名所旧跡と変遷のうちに、各位の健脚衰退し現況は専ら集まりガヤガヤの旧懐談の集まり。

12日品川プリンスホテルに集合今後の歩けを打ち合わす。

鎮魂         齋藤義衛

 HPで福田の遺稿を開く。私は4号は福田と同じ14分隊であった。鉄拳分隊とも言われる猛烈なしごき分隊だった。その中で福田は悠然泰然の中心であった。14分隊4号は7名であったが2名が脱落した。残る5名の内福田は回天でそして井の山は熊野、近藤は神風義烈隊、菊池(兵器)はルソンの山中でクラス最後の戦死者となった。残るは私只独り嗚呼。70年前の生徒館生活を昨日のように回想す。

414

4月14日の戦没者

 66年前 昭和19年 なし

 65年前 昭和20

  土井秀夫(6艦隊司令部付 回天)沖縄沖で

   回天特別攻撃隊多々良隊として敵艦に突入戦死(伊44より発進)

  福島誠二(6艦隊司令部付 回天)南西諸島周辺海面で

   回天特別攻撃隊多々良隊として敵艦に突入戦死(伊56より発進)

  粕谷仁司(205空 戦闘機)沖縄周辺海面で

   神風特別攻撃隊第10大義隊として敵艦に突入戦死(零戦)

  合原 直(大村空 戦闘機)沖縄慶良問列島沖で

   神風特別攻撃隊第2神剣隊として敵艦に突入戦死(零戦)

  矢尾正衛(佐伯空 偵察)九州南東海面で

   基地発進、対潜哨戒に向い、敵機と交戦戦死

74期訃報

川口 雅美 様 H22. 4.12

HPを順に再読して、誤字脱字を訂正中。

 海兵記事13件、戦記関連、72期の戦争の回顧から渾作戦まで5件校正訂正した。

415日 永代神楽祭出欠回答は今日まで

4月15日の戦没者 66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20

 長谷川 清(呂41 潜水艦)沖縄南東320浬で

  20318 沖縄方面に向け佐伯出撃、敵駆逐艦発見報告後、消息を絶つ(戦死認定)

 (米駆逐艦ハガードの爆雷攻撃を受け浮上、水上砲戦中敵駆逐艦が潜水艦の右舷に衝突し20322沈没:米軍資料)

 長澤熊太郎(呂49 潜水艦)本邦南西海面で

  20318 南西諸島方面に向け佐伯出撃325以降消息を絶つ(戦死認定)

 門脇国樹(131空 整備)串良基地上空で

  串良基地進出の為同乗中、来襲の敵機と交戦戦死

 村山 隆君から「なにわ会だより」に関するアンケートについて、次の返事を頂いた。

412日、機53期有志(岩間、金枝、斎藤、野崎、三澤、村山)が集い、品川のレストランで会食をしました。その際、貴君の「なにわ会だよりの発行にゆいて」のコピーを全員に配布し討議しました。結論は次のとおりです。

 『期友より回答のあった多数決に従う』

今年の永代神楽祭の出欠回答の締め切りは本日です。未回答の方は直ぐ投函して下さい。

ロ41潜と長谷川 清君の思い出    堀 剣二郎

  昭和19年の3月ごろ駆逐艦宵月で安下庄に仮泊した。夕暮れの近い静かな湾に潜水艦が1隻停泊していた.艦番号が消してあるので艦名はわからない。そのうち信号員が受信した信号文を届けてきた。潜水艦はロ41潜で乗り組みの長谷川から、迎え便をだすので来艦されたし という趣意の文である。了解を出して潜水艦を見ると艦尾に小さい伝馬船がつないであり、乗員の水兵がそれを漕いで ニコニコしながらやってきた。潜水艦のハッチを下りて中に入ると通路は米袋が敷き詰められその上の道板を歩くようになっている。このように食料満載なのは作戦行動のため呉を出撃したばかりであるからであることが間もなく分かった。暫し談笑して缶詰めを貰い、伝馬船で揺られて帰ってきた。ロ41潜はその後何かの理由でいちど呉にひき返して出撃したとのことであるが、浮上して水上艦艇と戦闘の後、最期を遂げたとは潜水艦としては最も苛烈、壮烈な最期であり、ロ41潜、長谷川君、伝馬船を漕いでくれた乗員のご冥福を心から祈るものである。

416

4月16日の戦没者 66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20

 田尻博男・森 一義(352空 戦闘機)沖縄方面で

  沖縄方面に出撃、敵機と交戦戦死(雷電)

 奥海 真(戦310 戦闘機)喜界島上空で

  沖縄方面に出撃、敵機と交戦戦死(零戦)

 吉田克平(筑波空 戦闘機)沖縄方面で

  沖縄方面に出撃、敵機と交戦戦死(零戦)

 畑 岩治(百里原空 偵察)沖縄嘉手柄沖で
  神風特別攻撃隊皇花隊として敵艦に突入戦死(九七艦改)

  今年の「パインなにわ会」は58日(土)1500から行われます。左近允尚敏君から案内をいただいた。

  京都の山本省吾君から、なにわ会だよりの編集要領について具体的提案をいただきました。経費節減の方策としては素晴らしいと思いますが、高齢化した小生にとっては無理な方法と思います。発行を続けて欲しいという熱意は良く分りますが。

  HPのレイテ海戦の次の記事を再読し、誤字、ご記入を訂正した。

    題    名     (筆者)

小沢艦隊五十鈴乗組み(旭  輝雄)

小沢囮艦隊(足立 之義)
比島沖海戦(池田 武邦)

レイテ海戦記(大岡要四郎)

囮艦隊     (桂  理平)

比島沖海戦日誌抄(斎藤 義衛)

重巡熊野の最後(左近允尚敏)

栗田艦隊の反転(左近允尚敏)

第1遊撃部隊の戦闘(都竹 卓郎)

野分の最後     (都竹 卓郎)

大和艦橋から見たレイテ海戦(都竹 卓郎)

比島沖海戦長門   (吉本 信夫)

 

昨日は堀剣二郎君、斎藤義衛君がブログに書きこんでくれて嬉しかった。

他の会員も遺族会員も書き込んで下さい。みよろしくお願いします。

 

機関科整備期友の死闘1

65年前の昭和20年に入ると水上艦艇組は新型駆逐艦或いは特殊潜航艇整備長要員として内地に帰投しており、整備の期友の多くが比島の基地に進出しており、19日の米軍リンガエンに侵攻以来陸戦隊として勇戦奮闘しているとは其の詳細を知る由も無かった。

以下数回に分けて整備期友の奮闘を偲び改めて鎮魂の意を捧げたい。

整備の期友は12名が戦死したが、9名が比島の戦場で散華した。

  227日  堀 哲男   クラーク

  424日  増井吉郎   クラーク

        松山行輝   クラーク

        青木光雄   クラーク

  527日  国生真三郎  イロイロ

    30日  成瀬秋夫    リンガエン

  67日  山崎 登    タルラック

  83日  関谷年男    イスバラ

  911日 菊池 滋     テタイ

 

日記 417

なにわ会HPの戦記のその他の艦艇の記事を再読し、誤字、脱字を訂正した。

   題    (筆 者)

巡洋艦羽黒    (浅井 秋生56期)

若月の最後 (旭  輝雄)

香取の最後 (飯田 嘉郎)

矢矧40年後の鎮魂(池田 武邦)

挽歌の海     (小河美津彦)

駆逐艦梨の戦闘(左近允尚敏)

栄光の艦 雪風(中垣 義幸)

洋上決戦における金剛(長山 兼敏)

榛名砲術士の軍艦記(藤田 直司)

戦艦武蔵と共に(村山  隆)

空母雲竜の最期(森野 広73期)

 

また戦没者の写真の内、次の4つを整理した。

機801―815  機816―830

機831―845  機846―857

 

機関科整備期友の死闘  2

比島に於ける整備期友の死闘の模様は、比島に進出し強運のもとに生還した金枝・北村(H10年死去)両君の戦記に残されている。

(なにわ会HP戦記1)是非一読を。の任務を帯び、126日の最後便にて高雄に転進となり終戦を迎えた。又北村君は部隊がその頃マニラにあり、敵の侵攻に備え東海岸へ移動し終戦を迎えた。そして捕虜収容所に入るが11月に復員帰還。

所が翌年正月突如として逮捕されC級戦犯容疑者として巣鴨に収監され、6月後に再び比島の法廷に戻されるが無実として23年の秋

帰国すると言う得がたい経験を味わった。

 

昨日は64日実施予定の永代神楽祭の出欠回答の締切日でした。

頂いた回答は参加88

(そのうち、参拝のみ参加30名、参拝、懇親会とも参加58名)

欠席132名です。

未回答が216名と50%近くおられます。まだ回答を送って頂いていない方は折り返し是非ともご返事下さい。

 

  Commented by 春日の長女 at 2010-04-16 18:57 x

永代神楽祭に参拝と懇親会とも出席いたします。

よろしくお願い申し上げます。

了解しました。お会いできるのを楽しみにしています。

 数日にわたって、斎藤義衛君が比島の陸上戦で悲壮な戦死を遂げた期友の鎮魂の言葉を書いてくれたが、兵72期の次の期友も同様不本意な戦死をしている。ここに謹んで哀悼の意を表します。

今田勝治君(兵器 20.02.20 戦死 )、

熊川 博君(熊野から横鎮付 20.06.10 戦死)

佐藤 宏君(兵器 20.04.28 戦死)、

土井輝章君(木曽から31特根 20.02.15戦死)等も同様であろう。

土井君の最期については、HPの次を見て頂きたい。

なにわ会HPの戦記 航空戦の残り、次の記事を再読、誤字、脱字を修正した。

  題(筆者)

零戦記(西口 譲)

塚田浩遺稿・厚木雷電隊(西口 譲)

第一御楯特別攻撃隊(西村友雄)

屈辱の空輸(林 藤太)

局地戦闘機雷電と332空(林 藤太)

大山裕正君の空戦記(平野律郎)

夏の日 終戦(平野律朗)

流星初陣記(冨士栄一)

比島・台湾の戦闘機期友を偲ぶ(藤田 昇)

偵察隊戦記(森田禎介)

纏まりのよかった艦爆(山田良彦)

更に潜水艦の次の記事も再読し、誤字、脱字を修正した。

波201潜(春日 仁)

独潜始末記(幸田正仁)

菊水隊伊47潜の戦闘(小灘利春)

金剛隊伊48潜の戦闘(小灘利春)

運命の伊33潜と艦長の英断(小西愛明)

伊33潜に繋がる話(小西愛明)

片山務君等の戦死(左近允尚敏)

回天特攻作戦伊36(杉田政一)

伊14潜 洋上での降伏(高松道雄)

伊13潜と伊14潜(高松道雄)

絆よ永遠に(高松道雄)

潜水艦戦没者に捧ぐ(田中宏謨)

終戦時の伊58潜の行動(田中宏謨)

伊366潜(角田慶輝)

伊8潜水艦慰霊祭(森川恭男)

第1潜水隊(矢田次夫)

潜水艦戦に散った期友に捧ぐ(山田 穣)

晴嵐について(吉峰 徹)

 

竹内紀子様(石原輝雄君の妹)から電話あり、永代神楽祭3名とも欠席に変更。

#機関科整備期友の死闘 4 齋藤

 

 

菊池 滋君(兵器整備)の部隊(830)は米軍侵攻に備え、マニラより遥か北方のツゲガラオ目指して400`の道を徒歩で、しかもゲリラと疫病と戦いつつ30日かけて転進する。軍律は乱れその惨憺さは想像を絶する。ツゲガラオでは陣地構築、ツゲガラオ海軍防衛部隊として戦う。彼は転進行の中で中隊長として部下の信頼を集め責務を成し遂げたが、不幸にして悪性の疫病に倒れ米軍に投降寸前に輸送中病死した。(911)彼がクラス最後の戦死者となった。私は菊池君とは4号時同分隊だった、入校初日の分隊での自己申告で栃木訛りの訥々の彼の申告は1号生徒の集中砲火を浴びたが、されどひるまざりし彼の面影は今も忘れない。

戦後復員した部下の回顧録を見ると、多くの部下が彼の統率を賞賛し又思慕しているのに感銘。菊池君は我がクラスの誇りである。

419

数日にわたって、斎藤義衛君が比島の陸上戦で悲壮な戦死を遂げた期友の鎮魂の言葉を書いてくれたが、兵72期の次の期友も同様不本意な戦死をしている。ここに謹んで哀悼の意を表します。

今田勝治君(兵器 20.02.20 戦死 )、

熊川 博君(熊野から横鎮付 20.06.10 戦死)

佐藤 宏君(兵器 20.04.28 戦死)、

土井輝章君(木曽から31特根 20.02.15戦死)等も同様であろう。

土井君の最期については、HPの次を見て頂きたい。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-doiteruaki-saigo1.html

なにわ会HPの戦記 航空戦の残り、次の記事を再読、誤字、脱字を修正した。

  題(筆者)

零戦記(西口 譲)

塚田浩遺稿・厚木雷電隊(西口 譲)

第一御楯特別攻撃隊(西村友雄)

屈辱の空輸(林 藤太)

局地戦闘機雷電と332空(林 藤太)

大山裕正君の空戦記(平野律郎)

夏の日 終戦(平野律朗)

流星初陣記(冨士栄一)

比島・台湾の戦闘機期友を偲ぶ(藤田 昇)

偵察隊戦記(森田禎介)

纏まりのよかった艦爆(山田良彦)

更に潜水艦の次の記事も再読し、誤字、脱字を修正した。

波201潜(春日 仁)

独潜始末記(幸田正仁)

菊水隊伊47潜の戦闘(小灘利春)

金剛隊伊48潜の戦闘(小灘利春)

運命の伊33潜と艦長の英断(小西愛明)

伊33潜に繋がる話(小西愛明)

片山務君等の戦死(左近允尚敏)

回天特攻作戦伊36(杉田政一)

伊14潜 洋上での降伏(高松道雄)

伊13潜と伊14潜(高松道雄)

絆よ永遠に(高松道雄)

潜水艦戦没者に捧ぐ(田中宏謨)

終戦時の伊58潜の行動(田中宏謨)

伊366潜(角田慶輝)

伊8潜水艦慰霊祭(森川恭男)

第1潜水隊(矢田次夫)

潜水艦戦に散った期友に捧ぐ(山田 穣)

晴嵐について(吉峰 徹)

 

竹内紀子様(石原輝雄君の妹)から電話あり、永代神楽祭3名とも欠席に変更。

 

日記 420

4月20日の戦没者 66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20

 福田 英(302空 戦闘機) 保土ヶ谷で

  来襲のP−51を迎撃攻撃中被弾し、機体空中分解し墜落して戦死(雷電)

 

なにわ会HPの記事を再読し、誤字、脱字を訂正した。

特殊潜航艇の部

特殊潜航艇誕生から葬送まで(後藤 脩)

沈みし潜航艇 また浮かぶ(笹川 勉)

真珠湾突入(菅雅徹昭)

回天の部

回天とわがクラス(小灘利春)

2回天隊実記(小灘利春)

回天探査の旅(小灘 利春)

回天に沈められた米艦の戦友会(小灘利春)

回天・1枚の集合写真(小灘利春)

回天特攻・菊水隊の真実(小灘利春)

帖佐氏と回天隊創生の頃(小灘利春)

回天隊のある日(小灘利春)

川久保4兄弟の戦死(左近允尚敏)

柿崎中尉の思い出(佐丸幹男)

菊水隊 ウルシー攻撃(山田 穣)

蛟竜の部

最後の艇長講習員(足立英夫)

特四と高雄蛟竜隊(後藤 脩)

大浦崎の想い出(三笠 清治)

P基地庶務主任(山之内素明)

蛟竜隊に所属して(吉本信夫)

 

 

機関科整備期友の死闘 4 齋藤

菊池 滋君(兵器整備)の部隊(830)は米軍侵攻に備え、マニラより遥か北方のツゲガラオ目指して400`の道を徒歩で、しかも

ゲリラと疫病と戦いつつ30日かけて転進する。軍律は乱れその惨憺さは想像を絶する。ツゲガラオでは陣地構築、ツゲガラオ海軍

防衛部隊として戦う。彼は転進行の中で中隊長として部下の信頼を集め責務を成し遂げたが、不幸にして悪性の疫病に倒れ米軍に投降寸前に輸送中病死した。(911)彼がクラス最後の戦死者となった。私は菊池君とは4号時同分隊だった、入校初日の分隊での自己申告で栃木訛りの訥々の彼の申告は1号生徒の集中砲火を浴びたが、されどひるまざりし彼の面影は今も忘れない。戦後復員した部下の回顧録を見ると、多くの部下が彼の統率を賞賛し又思慕しているのに感銘。菊池君は我がクラスの誇りである。

 

日記 421

なにわ会HPの記事を再読し、誤字、脱字を訂正した。

海竜の部

海竜(大谷 友之)

海龍の思い出(小田 博之)

震洋の部

水上特攻隊・震洋(小島 末喜)

コレヒドール沖縄震洋戦概要(豊廣 稔)

震洋特別攻撃隊の概要(豊廣 稔)

わが敵は湊川沖にあり(豊廣 稔)

ベニヤボートにかけた青春(編集部)

陸上戦闘の部

バリックパパンの陸上戦闘(旭 輝雄)

南鳥島戦記(大熊 直樹)

トラック島戦記(松元 金一)

硫黄島(山下 茂幸)

機関科の部

機関科の責務(斎藤 義衛)

66年前の元旦(斎藤 義衛)

村山 隆君から機53期戦没者の不足写真を送ってもらい、これで機53期戦没者の写真を全部HPにとりこめた。

 

日記 422

422日の戦没者 66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20

小山 力(102 艦爆操)喜界島付近で

 敵機動部隊索敵中、敵機と交戦戦死(彩雲)

(小山君は昭和1910月から202月まで、70期の森田先輩と操縦、偵察の組み合わで作戦に従事していた。その間、1010日敵発見の第1報を発信しているが、その記事をなにわ会だより第3号に掲載する。最高のペアであったと激賞されている。

(森田先輩が転勤されて2人は別れた。その後422日に小山は戦死した。)

石原輝雄(901空 偵 察)南西諸島方面で

 敵機動部隊索敵中、敵機と交戦戦死(一式陸攻)

牛尾 栄(攻252 偵察)喜界島南方で

 沖縄に進出時、敵F6Fと交戦戦死(天山)

 

なにわ会HPの記事を再読し、誤字、脱字を訂正した。

戦争体験の部

戦時体験(相澤善三郎)

チャージの想い出(旭 輝雄)

大和艦長有賀大佐を偲ぶ(浅村晃司)

ミンドロ島突入作戦(足立之義)

転勤大旅行(阿部克巳)

逃亡(阿部克巳)

軍艦酒匂始末記(阿部 達)

神の池今昔(安藤 満)

期友の回想(飯沢 治)

海機53期の1員として(飯田武二)

最後の巡洋艦・矢矧(池田武邦)

思い出(飯盛秀雄)

隼鷹・羽黒・楓(伊藤正敬)

352空奮戦記(岡本俊章)

笹川中尉の殊勲(大谷友之)

生徒館鳴動す(大森愼二郎)

思い出〈口述筆記)(大津懿徳)

入校時、戦中、戦後の思い出(大山隆三)

戦争とわが青春(国本鎮雄)

降伏と終戦仮調印(国本鎮雄)

 

日記 423

なにわ会HPの記事を再読し、戦時体験の次の記事の誤字、脱字を訂正した。

思い出すままに(小田正三)

フィリッピンの思い出(鏡 政二)

ブーゲンビル島沖の航空戦(桂 理平)

無名の碑を読んで(桂 理平)

空母冲鷹の遭難(桂 理平)

皇統護持作戦(加藤種男)

比島クラーク地区に眠る級友(金枝健三)

熊野陸戦隊の最後(河村清一)

海軍と海上自衛隊(來島照彦)

機関科初級士官時代(藏元正浩)

海軍と私(小西愛明)

静の死戦(佐原 進)

戦後に想う(北村卓也)

私の追憶と回想(齊田元春)

能代と宵月のこと(斎藤義衛)

回想(坂元正一)

伊勢・熊野・梨・初桜(左近允尚敏)

真珠湾攻撃の真実(左近允尚敏)

思い出の数々(佐々木哲男)

思い出(佐藤 謙)

# by naniwa-navy | 2010-04-23 05:42 | 日記 | Comments(0)

 

日記 424

4月24日の戦没者 66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20

田中 洋一(312空 戦闘機) 霞ケ浦で

  秋水隊要員として、霞浦航空隊でグライダー曳航実験中、空中事故で殉職

青木 光雄(攻3 整備)・岸   昭(戦312 戦闘機)・

増井 吾郎(戦313 整備)・松山 行輝(戦315 整備) 

      比島クラーク地区で

比島クラーク地区の陸上戦闘で戦死

(比島方面戦死認定会議によりクラーク地区激戦の日をもって戦死認定)

 

なにわ会HPの記事を再読し、誤字、脱字を訂正した。

戦争体験の部

軍令部の想い出(澤本倫生)

黒木さんのこと(椎野 廣)

戦争体験(杉田政一)

高速小型潜水艦(田島明朗)

生涯の思い出(詫摩一郎)

誇り高き雪風(中垣義幸)

メイ航海長として(中田隆保)

回想四題(野崎貞雄)

米艦隊のパイロット(野村治男)

東京湾水先案内(野村治男)

榧は生きている(濱田秋朗)

私の交友録(濱田秋朗)

終戦50年に想う(濱田秋朗)

パラオ恋しや(伴 正一)

思い出(日野原幹吾)

沼津中学の5人(広田隆夫)

思い出(福嶋 弘)

追憶(松田 清)

鬼怒追悼の記(水野行夫)

随想(宮田 實)

原爆投下を目撃して(百瀬 茂)

2年間の戦闘行動(百瀬 茂)

学年監事寸評(村山 隆)

回想(森山 晃)

思い出(森川恭男)

海軍道路(山下武男)

駆逐艦天津風(山元 奮)

兵器学生の実態(山本省吾)

815(山田 穣)

思い出の記(吉田二三男)

思い出(吉本信夫)

戦時体験・北上・回天(渡辺収一)

短い海軍の記録(和田恭三)

私の海軍和田 恭三

大和から74期景山(編集部)

 

日記 425

HPの戦記の部の残り、終戦の日 の 49件を再読し、修正して、戦記249件全部の、誤字脱字を訂正しました。再読しながら、よくもこれだけ取り込んだものと我乍ら感心しています。そして、殆どの会員が死の直前まで体験されていて改めて驚くと共に、私は駆逐艦楓で航空機攻撃を受け、前甲板の一番砲に直撃弾は受けましたが、沈没は免れて、卒業後終戦までの111ヶ月間、終始艦上勤務でしたが、その間一度も泳がず生き残った幸運に感謝しています。

これから、続いて戦没者の部に移ります。

今日は次の記事を再読、修正しました。なお、戦没者の写真が私の手元にある人の頁には出来るだけ写真も入れて行きます。(機53期戦没者については全部入れていきます)。

戦没者名(投稿者)

木 光雄君(飯塚 正雄)・秋田  稔君(編 集 部)

有村 信義君(押本 直正)・池内 好員君(飯田 嘉郎)

池田 秀親君(池田 逹エ親)・池田 秀親君(池田 逹エ親)

生田善次郎君(日辻 常雄)・石井 勝信君(詫間 一郎)

石川 誠三君(小河美津彦)・石川 誠三君(田中 宏謨)

石川 誠三君(押本 直正)・石川 誠三君(小灘 利春)

石川 誠三君(石川 時雄)・石間正次郎君(上野 三郎)

井尻 文彦君(岡野 武弘)・井尻 文彦君(岡野 武弘)

井尻 文彦君(岡野 武弘)

 

平成224 豊田芳夫君

訃  報

氏名 豊田 芳夫 君(名簿22P)

心筋梗塞で逝去

喪主   長女 豊田 恵子 様  

御通夜  平成22年4月27日(火) 1800〜1900

告別式       4月28日(水) 1200〜1300

斎場   カトリック吉祥寺教会

住所  〒180-0005 武蔵野市御殿山1-7-8

電話:0422-44-0181 Fax 0422-44-0180

交通  JR中央線 吉祥寺駅下車(公園口)

徒歩7分 

(娘さんからの電話による。電話連絡網で流してください)

備考

豊田芳夫君と同分隊の会員  

1学年 27分隊(中林正彦、平野芳徳、松山 実、山田良彦)

2学年 27分隊(高木亮司、林 藤太、)

3学年 19分隊(大槻敏直、竹森 潔、宮田 實)

 

日記 426

HPの戦記が写真を入れたので重くなったのか、携帯電話では見られなくなったというので、その01、その02、その03の3つに分けてみました。

今日は戦没者の次の記事を再読、修正しました。

戦没者名( 投稿者 )

伊藤  保君(伊藤  守)・伊藤 利治君(藏元 正浩)

伊藤  叡君(今澤 純子)・伊藤比良雄君(池田 武邦)

猪口  智君(星野 道子)・井ノ山威太郎君(井ノ山隆也)

井ノ山威太郎君(詫間 一郎)・今井 義幸君(白根 行男・押本直正)

今井 義幸君(白根 行男)・岩波 欣昭君(藤田  昇)

植田 伸二君(宮原 健児)・上原 庸佑君(横川 康春)

牛尾 久二君(柴田 英夫)・遠藤 晴次君(高橋 良生)

大村 謙次君(加藤 孝二)・小沢  易一(加藤 孝二

柿崎  実君(斉藤  寛)・柿崎  実君(編 集 部

柿崎  実君(HP より)・柿崎  実君(小灘 利春)

粕谷 仁司君(山田  穣)・片山 市吾君(寺村 純郎)

 

日記 427

今日は戦没者の次の記事を再読、修正しました。

門脇・国生君(大森慎太郎)・金子  忍君(母)

柄澤 節夫君(矢田 次夫)・柄澤・末岡君(岩松 重裕)

川久保輝夫君(折田 善次)・川久保輝夫君(HPより)

川久保輝夫君(小灘 利春)・河合不死夫君(小灘 利春

河合不死夫君(写真集)・川崎 順二君(小灘 利春)

川崎 順二君(神津 直次)・菊池 祥一君(菊池 晴雄)

菊池 芳夫君(澤本 倫生)・木村  G君(木村  靖)

清村 克巳君(清村 博一)・久住  宏君(伊津野省三)

久住  宏君(足立 之義)・久住  宏君(HPより)

久住  宏君(小灘 利春)・黒木 博司様(HPより)

合原  直君(三好 文彦)・国生眞三郎君(大森愼二郎)

小島 丈夫君(小島喜久江)・

写真を入れた為か、戦記の1・2が携帯電話で開けないという事ですので、6つに分けてみました。

昨晩豊田芳夫君の訃報を流し、関連のHPを訂正しました。また、今朝72期会員一同として弔電をうちました。

日記 428

月日の戦没者 66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20

時松 三助(元山空 戦闘機)種子島沖で

 B−29迎撃に出撃、敵機撃墜後交戦戦死(零戦)

伊藤  叡(筑波空戦闘機)沖縄伊江島で

 沖縄周辺敵艦攻撃の際制空中の敵機と交戦戦死(零戦)

済田 正文(931空偵 察)沖縄周辺洋上で

 沖縄沖敵艦船を夜間雷撃し突入戦死(天山)

林 三人司(951空偵 察)沖縄周辺洋上で

 沖縄沖敵艦の夜間雷撃に向い敵機と交戦戦死

荒木 信正(攻708偵 察)沖縄周辺洋上で

 沖縄周辺敵機動部隊に桜花攻撃後交戦戦死(一式陸攻)

広瀬遼太郎(東カロリン空 偵 察)ウルシー上空で

 トラック発ウルシー上空で消息を絶つ(彩雲)

佐藤  宏(戦308兵 器)比島クラーク地区で

 クラーク防衛作戦中戦死

 

昨日は戦没者の次の記事を再読、修正しました。

戦没者名( 投稿者 )

小林   晃君(編 集 部)・小林 正一君(都竹 卓郎)

權代 博美君(豊廣  稔)・近藤圭太郎君(近藤 政恵)

近藤 寿男君(近藤 国男)・近藤 寿男君(小暮 新八)

齋藤 徳道君(山田  穣)・里村  保君(桂  理平)

里村  保君(森田 禎介)・重森 光明君(詫間 一郎)

嶋津 義公君(嶋津  強)・清水  武君(押本 直正)

清水  武君(藤田  昇)・清水  武君(増田 正吾)

清水  武君(清水  昭)・清水  武君(桂  理平)

勝賀野純義君(三澤  禎)・鈴木 忠雄君(伊佐 弘道)

関谷 年男君(上田  敦)・園田  勇君(青木 泉蔵)

園田  勇君(上原 一郎)・園田  勇君(多胡 光雄)

園田  勇君(泉  五郎)・高崎 孝一君(山根 澄子)

高橋 義郎君(相澤善三郎)・高見 隆三君(向井寿三郎)

高脇 圭三君(藏元 正浩)・多田 圭太君(編 集 部)

多田 圭太君(本山 和男)・達川猪和夫君(宝来 久道)

達川猪和夫君(泉  五郎)・田中たくみ君(松田徳三郎)

田中たくみ君(松井  勉)

# by naniwa-navy | 2010-04-28 06:00 | 日記 | Comments(4)

 

 

日記 429

昨日、故豊田芳夫君の告別式に参加された大槻敏直君が告別式の様子を電話で知らせてくれた。

 

堀剣二郎君からパソコンの修理が終わった。幸いマザーボードの交換で終わたので、データーが消えずに助かったそうです

 

4月29日の戦没者 66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20

石井 澄男(8震洋隊 震洋)比島レガスビーで

震洋特攻隊長として転進中:消息を絶つ

 

次の戦没者の記事を修正した。

戦没者(投稿者)

出宮 喜顕君(野村 治男)・寺岡 恭平君(編 集 部)

寺岡 恭平君(上田  敦)・土屋  睦君(土屋さとじ)

土井 輝章君(河村 清一)・土井 輝章君(阿部 克巳)

東郷 良一君(安藤  伸)・冨井 宗忠君(編 集 部)

都所 静世君(三澤  禎)・豊住 和寿君()

豊住 和寿君(橋元 一郎)・中嶋 健児君(編 集 部)

中西 達二君(編 集 部)・成瀬 秋夫君(加藤 孝平)

野中 繁男君(東條 重道)・野中 繁男君(泉  五郎)

橋口  寛君(鹿児島2中)・橋口  寛君(HPより)

橋口  寛君(小灘 利春)・橋口   寛君(足立 喜次)

橋口  寛君(泉  五郎)・橋本 達敏君(橋本 一成)

畠中 和夫君(定塚  脩)・畠中 和夫君(父畠中賢一郎)

畠中 和夫君(藤川 正視)・服部 健三君(村上 義長)

伴  弘次君(押本 直正)・広瀬遼太郎君(広瀬 晴雄)

深井  良君(伊藤 正敬)・深井  良君(深井 紳一)

# by naniwa-navy | 2010-04-29 05:35 | 日記 | Comments(2)

 

 

日記 430

戦没者の記事の次の残りを修正しました。全部で179件ありました。出来るだけ写真を入れましたのでだいぶ重く成ったと思いますので、全部を纏めたものと、携帯でも見られるように、その1からその5までに分けたのも作成しました。

明日からは戦後物故者の記事に移ります。

 

福島 誠二君(小灘 利春)・福田  英君()

福田  英君(本人)・福田  英君(榊  愛彦)

福田  斉君(佐丸 幹男)・福山 正通君(藤田  昇)

福山 正通君(豊廣  稔)・福山 正通君(福山モトヱ)

福山 正通君(林  藤太)・藤田 春男君(藤田 貞子)

古川 次男君(田島 明朗)・真崎 三郎君(木村  靖)

松本 昌三君(佐野  曙)・松山 行雄君(三澤  禎)

真鍋 良弥君(吉川  泰)・丸山  隆君(泉  五郎)

丸山  隆君(増田  澄)・丸山  隆君(菅原  完)

溝上 正人(溝上  了)・水谷  潤君(編 集 部)

宮林 久夫君(矢田 次夫)・宮林 久夫君(樋口  直)

宮林 久夫君(矢田 次夫)・宮林 久夫君(土原 弘子)

宮林 久夫君(編 集 部)・宮林 久夫君(土原 弘子)

村上 克巴君(出雲  博)・村上 克巳君(佐丸 幹男)

村上  達君(村上 典夫)・村田 善則君(岡本俊章・山田 穣)

元木 恒夫君(増田 正吾)・元木 恒夫君(鬼山 茂樹)

溝上 正人君(溝上  了)・森  多久二(金枝 健三)

森実 貞雄君(藤田 直司)・森実 貞雄君(高松 道雄)

森山修一郎君(若松 禄郎)・森山修一郎君(村島 保二)

森山修一郎君(白根 行男)・矢尾 正衛君(編 集 部)

山崎 州夫君(編 集 部)・山田 三郎君(山田 一夫)

吉本健太郎君(城島 昭)・吉本健太郎君(小灘 利春)

吉本健太郎君(小平 邦紀)・若林 立夫君(松山  実)

田村 誠治君(桂  理平)・第2分隊3(大森慎二郎)

亡き友を偲んで(小西 愛明)・同郷のクラスメイト(押本 直正)

クラス墓参(旭 輝雄)・逝きし友(村上 義長)

逝きし友(村山  隆)・巡拝行(安藤  満) 

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