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なにわ会のブログ 22年5月

51

 早や5月に成りました。65年前の205月に入ると、戦局は益々悪化、動ける艦艇は殆ど無くなっていました。205月の戦没者は24名、その内訳は次のとおりです。

艦艇2名、潜水艦5名、航空機13名、回天1名、海龍1名、兵器1名、整備1

艦艇で戦死したのは巡洋艦羽黒の2名だけでした。

 

戦後物故者の部の修正にはいりました。昨日は次を修正しました。

物故者(投稿者)

草鹿 校長(高橋 猛典)・井上成美校長(編集部)

井上校長履歴(編集部)・井上校長訓示(編集部)

原田主任指導官(樋口 直)・石隈 辰彦教官(本村 先輩)

石隈 辰彦教官(新庄  浩)・石隈 辰彦教官(伊藤 正敬)

 

なお、戦没者の記事の訂正もれの箇所を斎藤君が教えてくれて訂正しました。

ご指摘有り難うございました。

 

 

52

戦没者 66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20

福屋 正巳・池沢 幹夫(44 潜水艦) 沖縄周辺海面で

 2043回天特別攻撃隊多々良隊の1艦として沖縄方面に向い大津島出撃、以後消息を絶つ(戦死認定)

(米護衛駆逐艦ヘアーマン及びマックコード更にアンルマン、メルツ、コーレットの爆雷攻撃により 20418沈没:米軍資料)

亀井  寿・梅原 芳人(呂46 潜水艦) 沖縄周辺海面で

 2046沖縄沖敵艦船攻撃の為呉出撃、417以降消息を絶つ(戦死認定)

(米空母ツラギ艦上機の攻撃を受け20429沈没;米軍資料)

柿崎  実(6艦隊司令部付 回天) 沖縄南東海面で

 回天特別攻撃隊天武隊として敵艦に突入戦死(伊47より発進)

金子  忍(951空戦闘機) 上海上空で

 上海上空を哨戒中、敵機と交戦戦死(雷電)

 

戦後物故者の部、昨日は次を修正しました。

物故者(投稿者)

森 栄教官(押本 直正)・森 栄教官(河野 俊通)

森 栄教官(左近允尚敏)・森 栄教官(鈴木 脩)

田中一郎教官(中村 元一)・安元至誠教官(若松 禄郎)

柳田益雄教官(本村 哲郎)・柳田益雄教官(中川 好成)

卜部生徒隊附監事(桂 理平)・秋山昇三郎君(片山 勇)

足立  康君(來島 照彦)・安藤 寿郎君(亀谷 敏明)

飯沢  治君(安藤 昌彦)・飯沢  治君(泉 五郎)

飯田 武二君(金枝 健三)・飯塚 正雄君(斎藤 義衛)

 

鎮魂  機関科齋藤

5月の機関科の戦死

 19

   2日 ベルリン陥落

    ・山口 盤(戦闘機) 神の池基地にて無念の戦死

     私は彼とは3号時同分隊、遊泳訓練時の写真に見入る

   27日 米軍ビアクに上陸

 20年 ルソン・沖縄と死闘続く

   海に空に陸に死闘続く、機関科の戦死6

    ・池澤幹夫(144,沖縄周辺)

    ・梅原芳人(46,沖縄周辺)梅原とは1号同分隊

    ・土屋賢一(ペナン沖)彼の最後、私も機関室での沈没経験あり

       改めて伊藤正敬君の「隼鷹.羽黒.楓」を読み、同じく機関室

       戦闘沈没経験者として其の奮戦を我が事の如く偲ぶ

    ・国生真三郎(整備、リンガエン)

    ・蕪木正信(海竜、横須賀) 殉職

    ・成瀬秋夫(整備、リンガエン)

 

53

  430日現在の64日の永代神楽祭参加予定者は昇殿参拝のみ34(会員5名、ご遺族29名)懇親会迄参加57名(会員34名、ご遺族23名)です。参加予定者名簿を参考のためにメールで送りました。

 

 左近允尚敏君から58日にパインクラス会参加予定は、次の18名だとメールでいただきました。

足立(喜)、相沢、旭、伊藤(正)、上野、幸田、渋谷、新庄、樋口()、平野(律)、松下、山田(良)、山下(誠)、野崎、高杉、岩松、左近允、應 

 

 戦後物故者の部、昨日は次を修正しました。

物故者(投稿者)

飯野 伴七君(市瀬 文人)・飯野 伴七君(小灘 利春)

池田 誠七君(藤田  昇)・飯盛 秀雄君(村山  隆)

飯盛 秀雄君(金枝 健三)・伊佐 弘道君(多胡 光雄)

伊佐 弘道君(大谷 友之)。石上  亨君(金枝 健三)

石上  亨君(山根眞樹生)・石津  滋君(泉  五郎)

石津  寿君(樋口  直)・石津  寿君(山田 良彦)

石津  壽君(脇本 賢次)・和泉 正昭君(樋口  直)

和泉 正昭君(山田  穣)・磯山 醇美君(幸田 正仁)

伊藤 孝一君(佐々木哲男)・伊吹 明夫君(大村 哲哉)

伊吹 明夫君(井上 旦)・伊吹 明夫君(濱田 秋朗)

伊吹 明夫君(矢田 次夫)・入江 久憲君(平田 隆一)

入江 久憲君(三好 文彦)・岩切  勝君(都竹 卓郎)

岩切  勝君(岩切和香子)・岩本  修君(山田  穰)

 

 泉 五郎君から 平成196月の靖國神社慰霊祭の時、取材のため懇親会に見えた内山田花李さんが纏められた中央大学(中央評論)特集号の記事(戦争を生きた先輩たち 今後輩へ伝えたいこと)を送ってもらった。

 

 

54

 戦没者 66年前 昭和19年 なし

 65年前 昭和20

細川  孜(205空 戦闘機) 石垣島東方海面で

 神風特別攻撃隊第17大義隊として敵機動部隊を攻撃戦死(零戦)

川端  格(戦407 戦闘機)南西諸島周辺で

 喜界島に向かう途中、F630機と交戦戦死(紫電)

 

 2日後藤英一郎君が急逝された。奥様の話では、何時も散歩したり、筋トレしたりして元気だった。2日夕方、背中が痛いと言って早くやすんでから、トイレに行ったところ斃れてしまい、救急車を呼んで病院に行ったが、そのまま息が途絶えてしまった。大動脈瑠破裂であった。

 胸部大動脈瘤自体は一般的には無症状で、胸部レントゲン写真を健康診断などで撮った場合に偶然に発見されるものが多い。症状は膨らんでいる大きさと場所で異なり、主気管支を圧迫すれば喘鳴、咳、呼吸困難、反復する肺炎を、反回神経が圧迫されると嗄声を、食道が圧迫されると嚥下困難を、胸骨や肋骨が圧迫されると胸痛を生じる。

 高血圧や外力などを契機として内膜と中膜が剥がれそこに血液が流入すると大動脈解離(解離性大動脈瘤)といわれる。発病と同時に90%以上の例で突然の胸背部の激痛が出現する。また解離する部位が広がることによって痛みが移動する。外膜まで破れて血液が胸腔や腹腔に出たり、大動脈閉鎖不全を起こす場合には頓死する可能性が高い。そのため5.5-6cmを越える胸部動脈瘤では手術の適応となる。 胸部大動脈瘤破裂の多くは即死する。

お互い注意しましょう。

 

戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

上原 一郎君(野崎 貞雄)

宇野 俊夫君(樋口  幹)

梅本 和夫君(金枝 健三)

梅本 和夫君(村山  隆)

江藤 雄三君(槇原 秀夫)

 

 

後藤英一郎君

 後藤英一郎君が平成22年5月2日(日)大動脈瑠破裂で逝去された。

喪主  (妻)後藤 恵子 様

御通夜 平成22年5月4日(火) 1800〜1900

告別式      5月5日(水) 1100〜1200

斎場   大圓寺

住所;〒113-0023 文京区向丘1-11-3

電話:03 - 3813 - 1321

交通:都営地下鉄三田線「白山」駅A2出口より徒歩5

追記

5月2日までは普通に過していたが、夕方背中が痛いと休んだ後、トイレに行き、そこで倒れた。救急車で病院に運ばれたが、そのまま息をひき取った。本当の急逝であった。

メール添付で連絡用記事を送ったので、必要な連絡先に流して下さい。

 

 

 

5月5日

 戦没者 66年前 昭和19年 なし

 65年前 昭和20

松本 昌三(12 偵察) 石垣島東方洋上で

  台湾東方海面の敵機動部隊を索敵中消息を絶つ(彩雲)

竹崎 慶一(佐伯空三座水偵操)鹿児島指宿で

  指宿基地に進出、B−29の爆撃を受け被弾戦死

 

戦後物故者の次に記事を修正した。

物故者(投稿者)

及川 久夫君(足立 之義)・大岡要四郎君(都竹 卓郎)

大熊 直樹君(向井壽三郎)・大熊 直樹君(小野 義市)

大熊 直樹君(吉田  修)・太田 威夫君(浅村 晃司)

太田 威夫君(太田  学)・大谷 友之君(泉  五郎)

大谷 友之君(伊藤 正敬)・大谷 友之君(後藤  寛)

大谷 友之君(山田 良彦)・大谷 友之君(渡邉  望)

大津 懿徳君(村山  隆)・大津 懿徳君(阿部  達)

大津 懿徳君(飯田 武二)・大堀 陽一君(泉  五郎)

大堀 陽一君(名村 英俊)・大森慎二郎君(三澤  禎)

大山 隆三君(村上 義長)・大山 隆三君(大森慎二郎)

大山 隆三君(森川 恭男)・大山 裕正君(若松 禄郎)

大山 裕正君(宮田  實)・小笠原典麿君(西口 譲)

小河美津彦君(豊廣  稔)・小河美津彦君(押本 直正)

小黒 孝也君(林  藤太)・小沢 尚介君(中村 元一)

小沢 尚介君(大谷 友之)・小沢 尚介君(山田 良彦)

小沢 尚介君(伊藤 正敬)・小沢 尚介君(奥山 寿一)

岡本 時夫君(白根 行男)・長村正次郎君(東條 重道)

 

後藤よ、安らかにに眠れ  機 齋藤

 14日には久しぶりに渋谷で、貴様・平野・若松の4人で一杯を計画したのに。貴様との付き合いは、復員船長鯨以来、ボロ船を駆って万里の波濤をラバウルへ。絵の仲間に入れてくれたのも貴様のお陰。12年間に21回に及ぶスケッチ旅行そして5回のグループ展最高に楽しかった。思い出は尽きない。21年の秋だったか貴様の浦和の家に泊まり映画を見に行ったのを懐かしく思い出す。嗚呼。

 

 

5月6日

 戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

押本 直正君(足立 喜次)・押本直正君法要(足立 喜次)

押本 直正君(市瀬 文人)・押本 直正君(山田 良彦)

押本 直正君(東條 重道)・押本 直正君(泉  五郎)

押本 直正君(伊藤 正敬)・押本 直正君(藤田 直司)

押本 直正君(74期松井元一)・押本 直正君(74期久保 陽)

押本 直正君(74期小林孝雄)・押本 直正君(横川 康春)

小田 博之君(室井  正)・鬼山 隆三君(三好 文彦)

鬼山 茂樹君(安藤 昌彦)・鏡  政二君(高松 道雄)

鏡  政二君(75期遠藤喜久)・角田武之助君(森川 恭男)

角田武之助君(安藤  満)・春日  仁君(渡邉  望)

春日  仁君(泉  五郎)・春日  仁君(遺   族)

桂  理平君(鈴木  彊)・桂  理平君(大島 達也)

 

後藤 英一郎君            堀 剣二郎

 パソコンでの訃報を見て驚きました。。平成19年1月1日,72期通信連絡網がきまってから 私は君にクラスの訃報を電話連絡してきました。賀状交換の間柄ではなかったのに電話連絡の縁で平成22年には感謝の旨を添え書きした賀状をいただきました。

 訃報を伝える相手がなくなって本当に残念です。連絡の際の簡単なやりとりでもクラスと出会う時の喜びを十分感じていました。心からご冥福を祈ります。

 

 

後藤英一郎君を偲ぶ   泉 五郎

急逝した後藤英一郎君を偲ぶ。

5月5日、後藤君の葬儀に出席のため水道橋で途中下車、少々時間が早すぎたので後楽園の辺りを一寸ぶらついて見た。昔この辺りは随分と馴染みの場所である。然し、余りの変りように昔の面影は更にない。ぼやぼやすると迷いそうなので早々と退散、地下鉄で白山駅近くの後藤家菩提寺の大円寺へ。流石お江戸のど真ん中恐らく、戦火で焼けて再建されたと思われるが、堂々たる古刹の面影が漂うお寺であつた。

 後藤君は子宝に恵まれずご葬儀が淋しくなければよいがと心配したが全くの杞憂であつた。本堂には大勢の参列者が溢れるほどの盛儀、クラス会関係では絵描き仲間の平野律郎、若松禄郎、斎藤義衛と都竹卓郎、谷内能孝父子、戦記作家の片岡紀明などが参列した。

 大動脈瘤破裂という突然の悲劇であつたが、最後の別れに花を捧げた棺に眠る彼の面影は、正に眠るが如しと云う他ないような安らかなものであつた。

 ご遺族にとっても只一つの慰めではなかろうかと、心中謹んでご冥福を祈つた次第である。

 実は小生、海軍時代には殆ど彼とは接点がない。彼と親しくなつたのは戦後もまだまだ物資欠乏、食うや食わずの時代である。昭和24年の春、郷里の兵庫県三田から新婚ほやほやで中央大学に入学した。座席もなく満員列車のデッキに座り込んで上京した私達夫婦にとってはこれが新婚旅行のようなものであつた。学生とは云いながら所帯持ちでは間借り先も中々見つからない。漸く探し当てた下宿先が国鉄「蕨駅」から東へ徒歩小一時間、当時青木町とはいうものの竹薮に囲まれた大田舎の農家一部屋であつた。その頃、蕨駅の反対側にあつた住宅地の一角に後藤君の家があつた。その彼の家にずうずうしく押しかけたのが、彼との付き合いの始まりである。後藤君のお母さんには我が子同様、快く迎えて頂きご馳走になつた。ご馳走といっても食うや食わずの時代のことである。一宿一飯のもてなしと云うが、このとき頂いた味噌汁の美味しかったことは、何物にも換え難い一生の思い出である。然し、この蕨の大田舎では通学にも大変で、或る雨の日に桐の下駄履きで駅まで往復したら、その下駄の歯が忽ち磨り減つてしまった。家の周りには蛇がうようよ、藪蚊に蝿がぶんぶん!何とか東中野に新築バラックの貸間を見つけて其処へ引っ越した。とは云つても僅か四畳半、襖一枚の隣六畳には家主の老夫婦、便所も台所も共用である。 といつても銀行員家主上がりのこの老夫婦、今になつて考えてみると六十歳前後であつたろうか,金もなく何とも惨めな新婚生活であつた。女房殿にも働いてもらい、実際は大学生とは名ばかりのアルバイトに明け暮れた毎日であつた。

 ところで、クラス会の名簿では後藤君は慶応卒となつているが、実は同時に中央大学も卒業しているのである。 尤も彼は中大の講義には殆ど出席しなかつたようである。斯く申す小生もアルバイト三昧の所帯持ち、専ら自宅独学で彼と出会うことが無かつたのも当然であつた。

 それはさておき、何とか卒業証書を手に入れて肩書きだけは学士様になつたが、サラリーマンはどうも性に合わない。最後は鈴木脩君の世話でこの千葉に酒屋として落ち着く事になつたが、考えてみると我輩もいろんなことに手を出したものである。そして人のよい後藤君にも無理付き合いをお願いした。

 一つは京セラが開発した「クレサンべール」というエメラルド等の宝飾品、代理店を始め際、早速彼は奥方の為に高価な一品を買い求めてくれた。彼の愛妻家の一面を偲ばせる一面であるが、この商売は始めたものの、女性にオベンチャラたらたらは些か性に合わず、武士の商法でこれも早々に廃業。

 もう一つは金儲けではないが、些か気の長い通信碁のクラブである。これは約30年近く続けたが何しろ一局の勝負に数年かかるので、流石の彼も最後の頃には投げ出した。

 尤も彼も小生とあまり変らぬか、或は少し強い程度のヘボ碁の類であつたが懐かしい思い出でである。

 そして囲碁と云へば我が家の使わなくなった旧店舗の一室をご近所の為に碁会所として無料で開放している。その部屋の正面には彼の薔薇の絵が美しい彩を放つている。

 私には彼を偲ぶ又とない思い出の品で、薔薇のように美しい後藤君の永久の眠りを衷心より祈る次第である。

 

 

57

 5月7日の戦没者 66年前 昭和19年 なし

65年前 昭和20

 山田 富三(109 潜水艦) 沖大東島南165哩で

 2042 沖縄付近敵艦船攻撃のため佐世保出撃、以後消尽なし(戦死認定)(米駆逐艦A・パスの攻撃により20425沈没:米軍資料による)

 

 泉 五郎君が故後藤英一郎君の偲んでを書き込んで呉れて有り難うございました。機の斎藤義衛君後藤英一郎君と長鯨で一緒に勤務しており、今回お通夜から告別式までいろいろ面倒を見て頂いたようで感謝申し上げます。後藤英一郎君の急逝を悼み慎んでご冥福を祈ります。

 

戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

加藤 孝二君(柴田 英夫)・加藤孝二君法事(柴田 英夫)

加藤 孝二君(足立 喜次)・加藤 孝二君(飯野 伴七)

加藤 孝二君(辻岡 洋夫)・加藤 孝二君(泉  五郎)

加藤 孝二君(伊藤 正敬)・加藤 孝二君(横川 康春)

加藤・押本君(樋口  直)・加藤・押本君(小西 愛明)

加藤・押本君(大谷 友之)・加藤・押本君(安藤  満)

加藤・押本君(右近 恒二)・加藤・押本君(森田 禎介)

木庭 啓次君(澤本 倫生)・木村 貞春君(押本 直正)

木村 貞春君(幸田 正仁)・河口  浩君(富尾 治郎)

北村 卓也君(金枝 健三)・香西 宣良君(加藤 孝二)

香西 宣良君(松枝 茂純)・河野 俊通君(石井  晃)

郡  重夫君(押本 直正)・郡  重夫君(中村 正人)

郡  重夫君(新田吉太郎)・小跡 孝三君(日野原幹吾)

小跡 孝三君(藏元 正浩)・小跡 孝三君(佐原  進)

小跡 孝三君(椎野  廣)・小暮 新八君(村山  隆)

小島 末喜君(豊廣  稔)・小島末喜君辞世(豊廣 稔)

小島 末喜君(若松 祿郎)・国生  健君(左近允尚敏)

小灘 利春君(回天特攻隊HP)・小灘 利春君(HPより)

小灘 利春君(池田 武邦)・小灘 利春君(山田  穰)

小灘 利春君(上原 光晴)・小灘 利春君(伊藤 伸子)

小灘 利春君(峯HP)

 

58

 今日はパインなにわ会が行われるので参加します。

 

 戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

小林 貞彦君(溝井  清)・小林 貞彦君(大谷 友之)

古前 英雄君(小跡 考三)・古前 英雄君(椎野  廣)

古前 英雄君(日野原幹吾)・小松崎正道君(伊藤 正敬)

近藤  裕君(村山  隆)・坂元 正一君(岩松 重裕)

坂元 正一君(山田 良彦)・坂元 正一君(東條 重道)

坂元 正一君(編 集 部)・坂元 正一君(坂本正一・遺稿)

坂元 正一君(編集部・記事)・坂元 正一君(追悼記事)

齊田 元春君(金枝 健三)・斎藤 五郎君(山田  穣)

斎藤 五郎君(大岡要四郎)・佐伯 将人君(佐藤 健三)

佐伯 将人君(伴  正一)・酒井  博君(加藤 孝二)

佐藤英一郎君(溝井  清)・佐藤  謙君(安藤  満)

佐藤孝之助君(小沢 尚介)・佐原  進君(日野原幹吾)

猿田 松男君(加藤 孝二)・猿田 松男君(竹村  信)

猿田 松男君(松山  実)・猿田 松男君(溝井  清)

澤本 倫生君(樋口  直)・澤本 倫生君(三浦  節)

澤本 倫生君(伊藤 正敬)

 

 

59日 パインなにわ会

昨日は横須賀の小松で「パインなにわ会」が開催され、写真の19名が参加した。

 

写真

左から

後列 上野三郎、高杉敏夫、旭 輝雄、樋口 直、泉 五郎、左近允尚敏、

渋谷信也、山田良彦、山下 誠、新庄 浩、

中央列 平野律郎、相澤善三郎

前列 野崎貞雄、幸田正仁、岩松重裕、伊藤正敬、足立喜次、應 蘭芳、

松下太郎、おかみ

 

定刻1500全員揃ったところで最初に幹事の左近允尚敏君の挨拶があり今回は20回目の会合であると言われた。伊藤編集長から次の3件の報告あり。

1 後藤英一郎君逝去の件の連絡

2 64日の永代神楽祭について(参加予定者91名)

3 なにわ会だよりの今後について

 9月発行の3号までは従来どおり、

 4号からは、なにわ会だよりは是非続けて欲しいという意見ともう高齢だから思いきって止めたら方がいいという全く正反対の意見があり、大きく分れているので、「会員の情報を主とした簡単な16頁程度のものを会員、遺族会員の希望者のみに配布する。その資金として年会費2000円をお願いすることにしたい。」と話があり了承された。

次いで焼津カら参加の旭 輝雄君の音頭で乾杯して開幕、

そのあとは懇談に花が咲き、例の相澤善三郎君の歌、さらに幸田正仁君やゲストの應さんの歌も有り会は盛り上がった。最期に全員で記念写真を撮って1715解散した。

 

戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

坂田善一郎君(高松 道雄)・坂田善一郎君(西尾  博)

佐々木 庄君(平野 律郎)・佐々木 庄君(飯野 伴七)

三條 貞治君(市瀬 文人)・品川  弘君(加藤 孝二)

品川  弘君(浦本  生)・品川  弘君(編 集 部)

篠田 知武君(杉田 政一)・清水憲太郎君(伊吹 明夫)

清水憲太郎君(伊中 四郎)・清水憲太郎君(東條 重道)

清水憲太郎君(浜本 義郎)・清水  淳君(押本 直正)

清水  淳君(泉  五郎)・清水  淳君(上野 三郎)

清水  淳君(高田 幸雄)・白根 行男君(大谷 友之)

白根 行男君(澤本 倫生)・菅井  超君(泉  五郎)

杉浦  実君(杉浦タミエ)・杉本 廣安君(岸本 一郎)

鈴木  脩君(泉  五郎)・鈴木  脩君(山田  穰)

 

 

5月10日

5月10日の戦没者 66年前 昭和19

藤沢 英司(刈萱 駆逐艦) ルソン島西方で

 船団護衛中、敵潜の雷撃を受け沈没戦死

65年前 昭和20年 なし 

 

昨日は戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

鈴木 哲郎君(桂  理平)

鈴木 哲郎君(東條 重道)

高井  實君(東條 重道)

大楽   峻君(伴  正一)

大楽   峻君(山之内素明)

高崎 慎哉君(佐藤  静)

高崎 慎哉君(中山  皎)

高崎 慎哉君(伊藤 正敬)

高橋 猛典君(飯野 伴七)

高橋 猛典君(向井寿三郎)

高橋 猛典君(石井  晃)

高橋 猛典君(田村 陽一)

高橋 猛典君(佐藤 公一)

高橋 猛典君(山田 良彦)

高橋 猛典君(山田 良彦)

高橋 猛典君(山田 良彦)

 

 

511

5月11日の戦没者 66年前 昭和19年 なし

 65年前 昭和20

深井 良(501 艦爆操) 沖縄周辺海面で

 神風特別攻撃隊第9銀河隊として敵艦を攻撃戦死(銀河)

深井君については、甥の深井紳一君が多数の記事をHPに掲載されている。

 

昨日朝、平成161月亡くなった故小林貞彦君の奥様から。次の電話を頂いた。

「私は毎月文芸春秋を購読していますが、今日見た6月号に池田武邦様のことが書かれていて、いたく感動しました。主人は生前殆ど海軍時代の事は話して呉れなかったので、池田武邦様の事を読んで亡くなった主人の事を思い出しました。」

この記事は文芸春秋6月号196頁から202頁にかけて7頁にわたって、ノンフィクション作家 梯 久美子さんが「特攻生き残り 長すぎた余生」と題して池田武邦君の事を矢矧時代の写真と現在の写真入りで紹介している。

その中に、第2艦隊の慰霊の旅の追悼の言葉を述べた池田氏の挙措は端正で、たたずまいは心身の重心が定まっている人の持つ独特の存在感があった。

そして、矢矧における池田武邦の活動ぶり、5時間余りの漂流、爆風で受けた大やけど、などが述べられている

そして、72期の同期生625名中335名が戦死したとも述べられている。

さらに、建築との出会い、超高層ビルの事、今のハウステンボスの事等が述べられている。

なお、この件、74期の談話室にも掲載されている。

 

昨日は戦後物故者の次の記事を修正した。

物 故 者 (投稿者)

詫摩 一郎君(野崎 貞雄)

竹内  茂君(伊集院正年)

竹内  茂君(桂  理平)

伊達 利夫君(横山 逸二)

田中 歳春君(矢田 次夫)

田中 歳春君(小森宮正道)

田中 歳春君(泉  五郎)

田中 春雄君(左近允尚敏)

田中 春雄君(山田  穣)

田中 宏謨君(山田  穣)

田中 宏謨君(名村 英俊)

 

 

512

戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

谷田 哲郎君(斎藤 義衛)

谷田 哲郎君(森川 恭男)

塚田  浩君(西口  譲)

塚田  浩君(押本 直正)

辻岡 洋夫君(向井壽三郎)

辻岡 洋夫君(左近允尚敏)

辻岡 洋夫君(山田 良彦)

恒川愛二郎君(飯野 伴七)

角田 慶輝君(原田 種睦)

角田 慶輝君(小平 邦紀)

戸泉  弘君(森園 良巳)

# by naniwa-navy | 2010-05-12 04:47 | 日記 | Comments(1)

 

513

 5月13日の戦没者 66年前 昭和19年 なし 

 65年前 昭和20

  元木 恒夫(攻102艦攻操)沖縄周辺海面で

   神風特別攻撃隊忠誠隊として慶良問列島の敵艦に突入戦死(九六艦爆)

  正木 邦雄(戦851 偵察)沖縄方面で

   沖縄敵飛行場攻撃に向い飛行場上空で交戦戦死(月光)

 

戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

中田 隆保君(編集部)

中田 隆保君(池田 武邦)

中田 隆保君(澤本 倫生)

中田 隆保君(大谷 友之)

中田 隆保君(加藤 孝二)

中田 隆保君(新庄  浩)

中田 隆保君(向井寿三郎)

中田 隆保君(大森慎二郎)

中西 健造君(大村 哲哉)

中西 健造君(向井寿三郎)

中西 健造君(加藤 種男)

中村 元一君(左近允尚敏)

長山 兼敏君(田島 明朗)

西川 生士君(森川 恭男)

西川 生士君(野崎 貞雄)

西川 賢二君(小河美津彦)

西川 賢二君(丸橋恵美子)

西口  譲君(若松 禄郎)

二谷 嘉郎君(森川 恭男)

二谷 嘉郎君(安藤  満)

 

 

514

戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

橋元 一郎君(室井  正)

畠山 宗次君(早崎 義範)

花田 武彦君(渡邉  望)

浜田 一郎君(富尾 治郎)

浜谷 文也君(加藤 孝二)

浜谷 文也君(左近允尚敏)

浜谷 文也君(宮田  實)

浜谷 文也君(若松 禄郎)

林  繁幸君(山之内素明)

伴  正一君(槙原 秀夫)

比沢  勝君(藤井 武弘)

日野原幹吾君(吉本 信夫)

平田 隆一君(三好 文彦)

広田 隆夫君(三澤  禎)

福嶋  弘君(小田 正三)

福嶋  弘君(矢田 次夫)

福嶋  弘君(杉田 政一)

福嶋  弘君(村山  隆)

冨士 栄一君(相澤善三郎)

冨士 栄一君(山田  穣)

冨士 栄一君(中川 好成)

冨士 栄一君(小灘 利春)

冨士 栄一君(三笠 清治)

冨士 栄一君(大谷 友之)

冨士 栄一君(山根眞樹生)

冨士 栄一君(和田 恭三)

冨士 栄一君(澤本 倫生)

冨士 栄一君(白根 行男)

冨士 栄一君(押本 直正)

冨士 栄一君(田中 春雄)

冨士 栄一君(畊野 篤郎)

冨士 栄一君(若松 禄郎)

冨士 栄一君(加藤 孝二)

藤井 伸之君(中井 末一)

藤井 伸之君(左近允尚敏)

藤尾 圭司君(渡辺  望)

藤尾 圭司君(大村 哲哉)

藤野 竜弥君(相澤善三郎)

藤野 竜弥君(名村 英俊)

藤田  昇君(泉  五郎)

藤田  昇君(藤田昇遺族)

府瀬川清蔵君(伊藤 正敬)

古川 嗣郎君(白根 行男)

星野 忠雄君(星野清三郎)

堀内  進君(今井 政司)

堀内  進君(水野 行夫)

堀内  進君(安藤 昌彦)

 

 

 

 

 

515

戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

巻  石蔵君(中村 元一)

巻  石蔵君(桑原 義一)

巻  石蔵君(藤田 直司)

巻  石蔵君(矢田 次夫)

槙原 秀夫君(足立 暢也)

松崎  修君(白根 行男)

松崎  修君(田中 春雄)

松田  清君(渡辺  望)

松田  清君(矢田 次夫)

松原 義人君(中村 元一)

松原 義人君(横田 敏之)

松元 金一君(足立 喜次)

松元 金一君(浦本  生)

松山 匡喬君(斎藤 政幸)

松山 匡喬君(有川貫太郎)

毎熊 祐俊君(市瀬 文人)

眞鍋 正人君(大谷 友之)

眞鍋 正人君(阿部 克巳)

 

 

516

戦没者 66年前 昭和19年 なし

 65年前 昭和20

小島 丈夫・土屋 賢一(羽黒 巡洋艦) ペナン沖で

 アンダマン諸島への強行作戦輸送中、英艦隊と交戦沈没戦死

 

 1812月、小松崎、斉藤、伊藤正敬、小島、土屋の5名が巡洋艦羽黒乗組みとなり、199月頃までは一緒に勤務し、トラック、カビエン、パラオ、ダバオ、シンガポール、リンガ、と行動を共にし、あ号作戦に参加した。小島、土屋以外の3名は9月以降順次転勤が発令になって退艦、小島、土屋の2名は、レイテ作戦に参加、その後シンガポールを基地として作戦行動をしていたが、205月、駆逐艦神風と共に輸送作戦に従事、英国艦隊と交戦、羽黒は沈没、生存者は神風に救助された。この時、海軍兵学校の教官であった元良教官は羽黒通信長であったが、運よく救助された。

 戦死した土屋君は横須賀中学の2年先輩で会ったが、羽黒在艦中は知らなかった。そして、羽黒乗員を救助した神風の水雷長は私の兄 伊藤治義(70期)で、横中で土屋と同級生であった。

羽黒については、同艦砲術長の次の記事が有る。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-haguro-asai1.html

 

戦後物故者の次の記事を修正した。

物故者(投稿者)

三笠 清治君(椎原 国康)

水野 行夫君(矢田 次夫)

水野 行夫君(中井 末一)

宮原 健児君(宮原 健児)

宮原 健児君(小林 貞彦)

宮原 健児君(東條 重道)

村上 義長君(室井  正)

村島 保二君(平田 隆一)

茂木  允君(泉  五郎)

森川 恭男君(野崎 貞雄)

森本 達郎君(飯野 伴七)

森山  晃君(山下 武男)

森山  晃君(村山  隆)

八淵 龍二君(八淵の父)

山内 一郎君(都竹 卓郎)

山口 勝士君(佐藤 健三)

山下 直己君(高崎 慎哉)

山根真樹生君(桂 理平)

山根真樹生君(編集部)

山根真樹生君(池崎 千里)

吉江幹之助君(泉  五郎)

吉田  修君(市瀬 文人)

吉田  博君(高田 俊彦)

吉田二三男君(村山  隆)

吉田 義彦君(三好 文彦)

吉田 義彦君(大坪 久幸)

吉峰  徹君(名村 英俊)

逝 きし 友(後藤 俊夫)

 

これで、戦後物故者の記事、362件すべてののチェック、修正を終わった。

# by naniwa-navy | 2010-05-16 05:33 | 日記 | Comments(1)

 

 

 

517

戦後物故者の記事に ニュースにある写真を出来るだけ取り込んでいます。

あ から た まで終わりました。

今日中に残り全部終わる予定です。写真間違っているのがあったらご指摘下さい。

 

 

518

5月18日の戦没者 66年前 昭和19年 

衣笠幸夫(追 風駆逐艦) トラック島沖で

 阿賀野乗員を収容帰投中、敵機の雷撃を受け沈没戦死

 65年前 昭和20年 なし

 

戦後物故者、戦没者の記事に出来るだけ写真をとりこみました。

一部にボケた写真があります。取り換えた方がいい写真を持っている方メール添付で送ってください。取り替えます。

 

519

5月19日の戦没者

 66年前 昭和19年 なし

 65年前 昭和20

山田 三郎(1001空 戦闘機)静岡方面で

 零戦空輸のため霞浦から鈴鹿基地に向う途中、天候不良となり、田方郡大室山付近山中に激突し、墜落殉職

 

平成224月のブログ゙の記事を整理してHPに取り込んだ。

 

520

519日(水)幸田正仁君主催の湘南歩こう会が次の通り行われました。

参加者 写真の6名 西洋と日本が調和する歴史的な名園である旧古河庭園のばらの観賞

旧古河庭園には石造りの洋館(大谷美術館)や洋風庭園、日本庭園、大滝、心字池等がある。

 

写真

左から高田俊彦、品川夫人、幸田正仁、小松崎夫人、深尾秀文、伊藤夫人

バラが見ごろでとても美しかったそうです。

高田俊彦君から写真を送って頂いたので見て下さい。

 

64日の永代神楽祭の参加者予定者  97

参拝のみ     34(会員 5名 遺族29名)

懇親会まで参加  63(会員35名 遺族28名)

(会費 参拝のみ  500円  参拝して懇親会参加 3000円)

519日現在 まだ若干の増減がある見こみ)

 

旧海軍から続いていたゴルフの同好会「アドミラル会」が5月18日の会で150回を迎え、一番若い会員も80歳を越えたので今回で幕を閉じた。最終回は機52期の関 陽三氏が優勝された。

この会には樋口 直、加藤孝二、押本直正、伊藤正敬、小沢尚介、恒川愛二郎、北村卓也のなにわ会会員も参加していた

 

 

 

 

 

524

5月24日の戦没者 66年前 昭和19

 出宮喜顕(白露 駆逐艦) 四国南方海面で

  台風時前部砲塔故障を挺身修理中戦死

65年前 昭和20

 佐藤美保(攻704 陸攻操) 南西諸島方面で

  沖縄本島敵基地空襲爆撃後被弾戦死(一式陸改)

 伊藤八郎(攻406 偵察) 沖縄東方洋上で

  敵艦に対し夜間雷撃敢行、帰途消息を絶つ(銀河)

 

525

 64日の永代神楽祭 

524日現在参加予定者 97

 参拝のみ34(会員 5名 遺族29名)

 懇親会まで参加63(会員34名 遺族29名)

 平川 進 欠席に変更

 

片山 勇君 転居(村山 隆君から新住所連絡あり。住所録変更)

 

杉田繁春君から来信。次の事をHPの海軍兵学校72期生存者名簿の末尾に掲載してはとの提案あり。

@ 卒業生数      625名  生存率

A 復員者数      290名  46.4

B 平成元年生存者数  252名  40.3

C 平成11年生存者数  209名  33.4

D 現在  生存者数  126名  20.1

 

 @ A Dは既にHPの会員の現状に掲載済み。

 B C   は追加掲載した。

 

 

 

 

 

日記 521

編集 | 削除

521日現在の永代神楽祭参加予定者数は98名です。

参拝のみ34(会員 5名、遺族29名)

懇親会まで参加64(会員35名、遺族29名)

 

 杉田繁春君から頂いた手紙の一部です。

戦後物故者数と現存者数が逆転したように思われ、それぞれの人員数を把握しようと試みたのですが、丸2日たっても満足する資料が出来ませんでした。小生が悪戦苦闘しているのを見かねた娘が「生存者名簿や物故者名簿は伊藤さんのHPにあるよと教えられ、早速プリントしてくれと頼んだら、ものの10分ぐらいで希望の次のデーターを集計することが出来ました。

 貴兄作成のHPで大変助かりました。それから「訃報」は大体5~10日ごとに娘に調べさせ追加があればプリントさせています。とても助かります。

 最期に小生近畿大学通信教育部法学部を卒業しました。(平成17319日)名簿に追加お願いします。(編集部  訂正しました)

 

74期訃報

 内山 俊英 様(1学年24分隊) H22. 5.17 没

 

522

 戦没記録を全部見直して修正終わりました。

 

523

 海軍兵学校76期から「生徒館129号」を頂きました。76期は平成25年まで毎年1回全国総会を開く計画のようです。129号はB532頁で、内容は10月実施予定の全国総会の計画と各支部だよりが中心となっています。

昨年11月総会の時72期池田武邦君が行った講演記録が1冊(13頁)に纏められて添付されていました。

 

74期訃報

浅見 道雄 様(25分隊) 平成22422日 没

内山 俊英 様(24分隊) 平成22517日 没

 

 購読会員のAさんから「『海軍兵学校の歴史』の中に、恩賜生徒の一覧表がありますが、その中に戦没かどうか不明として66期岩下豊生徒の名前があります。たぶん、南太平海戦で戦死された瑞鶴艦爆分隊長の石丸豊大尉のことだと思います。結婚して姓が変わられているそうです。弟さんはいまもご存命の戦闘機の岩下邦雄さん(69期)です。」というメールを頂きました。海軍兵学校名簿で調べましたら言われる通りでした。早速HP訂正しました。Aさんご指摘有り難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

526

 523日に頂いた76期会報に同封されていた池田武邦君の76期総会における講演の記事をパソコンに取り込み、HPに掲載しました。 ↓ 拝読下さい。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-ikeda-76kouen1.html

 鹿児島の野村治男君、体調不良で入院中です。ご家族から、昨年、今年の年会費を送金して来ましたが、既に納入すべき金額は入金ずみですので寄付金として処理させて頂きました。

 

527日 海軍記念日

 第二次世界大戦以前に527日を海軍記念日としており、休日であった。1905年(明治38年)527日に行われた日本海海戦を記念して制定された。1945年に敗戦とともに廃止された。

日露戦争は、アジアの小国日本が欧州の大国ロシアに勝利を収めた。その中でも、遠路ヨーロッパ・バルト海から回航された強力なバルチック艦隊(ロシア名:第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち これを撃滅した日本海海戦は、陸上での奉天会戦の勝利(陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われていた。これは終戦昭和20年の40年前のことである。

 

池田武邦君から64日の永代神楽祭に出席の予定であったが用事が出来て参加できなくなったと電話があった。

 

泉 五郎君から次の童謡を頂いた。

 平成の童謡・・鳩ポッポ 

  ポッポッポ 鳩ポッポッポ   僕の縄張り 返してよ!

    鳴いてはみたが お客さん  知らん顔して ソッポッポ

       みんなでワイワイ 騒いでろ!

 

 平成の童謡・・モシモシ亀よ亀さんよ

 (1) モシモシ亀よ 亀さんよ  世界の中で お前ほど

     でっかい面した 奴はない  どうしてそんなに デカイのか

 (2) なんとおっしゃる 皆様よ  そんならみんなで 面くらべ

     テレビの前で 顔揃え  ハガキで投票どうじゃいな

 

528

 5月28日の戦没者

 66年前 昭和19年 なし 

65年前 昭和20年和田 智(佐伯空 偵察)大分湾で

佐伯航空隊で飛行訓練中、海面に接水し墜落殉職

 

 昨27日午後 記念艦「三笠」において好天のもと日本海海戦105周年記念式典が三笠艦上で盛会裡に実施された。

また、1200からJR横須賀駅に隣接するヴェルニー公園内 「海軍の碑」前において横須賀水交会主催による記念行事が実施された。

九州では海軍記念日を祝する恒例の合同クラス会が5271200より120名の参加を得て、行われている。

 

529

64日の永代神楽祭参加予定者、29日現在次の通りです。

参加者数       95

参拝のみ      33(会員 5名 遺族28名)

懇親会まで参加  62(会員33名 遺族29名)

名簿はメールで送ります。

 

74期訃報

伊藤 六郎 様(1学年 50分隊) 平成22年5月6日 没

 

我が家と三笠(機、齋藤)

編集 | 削除

海兵13期河野三金太は私の祖母方の親戚、記録によると「閉塞船の引き上げ除去を行う、軍艦引き上げに功あり、日露役三笠引き上げをなす」とある。三笠艦の陳列室に河野少将の資料あり。河野少将の三男寿氏は陸軍大尉、2・26事件に於いて牧野伸顕伯襲撃の隊長!負傷し自刃す。

 

530日の戦没者 66年前 昭和19年 なし

 65年前 昭和20

蕪木正信(横須賀突 海竜)横須賀港内で

  特殊潜航艇海竜回航中、機関故障沈没殉職

真鍋良弥(232空 兵器)南支那海で

  内地へ赴任時、三亜一上海間で消息を絶つ

成瀬秋夫(戦401 整備) 比島で

  比島タルラック地区からルソン島東海岸向かう途中で、消息を絶つ

 

永代神楽祭参加者のうち、山下 誠君が所要発生、欠席に変更

故春日 仁君の奥様 尚子さん ご出席いただけると連絡があり、

参加者数     95

参拝のみ     33(会員 5名 遺族28名)

懇親会まで参加 62名(会員32名 遺族30名)になりました。

当日の懇親会には個人ごとの弁当を準備しています。急に欠席されると弁当が余り、お金が足らなくなりますので、もし都合悪くなって参加できなくなった方は直ぐお知らせください。変更が間に合わないときは会費をお願いすることになります。

 

 

5月歩こう会    上野三郎

 平成22年5月27日(木)〜28日(金)1泊2日の日程で、行き先は埼玉県長瀞町及び秩父市、参加者12

宿泊はナチュラルファームシティ農園ホテル(長い名前だが)

1日目:JR上野駅に集合、熊谷で秩父鉄道に乗り換え長瀞駅で下車。昨夜の大雨(秩父地区)で荒川が増水長瀞ライン下りは中止と残念。川岸の岩石園にて弁当を広げ久し振りに戸外での食事を楽しむ。

国指定重要文化財旧新井家住宅及び郷土資料館

養蚕農家の姿を伺うことが出来た。又隣接の郷土資料館には「民具」「遺跡出土品」「機織(はたおり)」の3つのコーナーが設けられ、この地区の縄文時代から営々と過ごしてきた生活の状況(山仕事、炭焼き、漁労、養蚕、機織等)が伺われ参考になった。

宝登山神社

 ヤマトタケルの尊 東征に関わる神社だ。

ロープウエーで宝登山(497m)に登ると駅から10分の歩行で宝登山神社奥の院に達する。

宝登山よりの眺めは素晴らしい。長瀞方面、秩父方面が一望される。 

宝登山神社奥の院

 長瀞駅より秩父鉄道にて秩父駅に移動、ホテルバスにて今日の宿泊場所農園ホテルに投宿。名前の通り秩父盆地を眺める高台にあり、反対側は農園に連なっており、鄙びた環境だ。ホテル部屋よりの夜景は素晴らしい。

 

2日目:ホテル発1000

写真

左より 前列 

高田、藤井夫人、中井夫人、伊藤夫人、品川夫人、村上夫人、幸田、上野

後列 深尾夫人、小松崎夫人、深尾、中井

 ホテルバスにて秩父駅に。買物後歩行で近くの秩父神社へ。秩父神社は延喜式に記載の古い地元の信仰の厚い神社だ。彫刻は見事だ、左甚五郎作と言われるつなぎ龍も見事だ。

秩父まつり会館。日本三大曳山祭(京都祇園、飛騨高山、秩父夜祭)として有名な秩父夜祭に関する資料を展示、映像で紹介。豪華な屋台、傘鉾の展示を中心に、秩父の山並みをバックにして夜空を彩る花火を上げるワイドな映写コーナーは楽しめた。

 

秩父神社

武甲山(標高1295m)

 秩父盆地を囲む秩父連山の一つ、山の稜線に特徴あり。山肌には採石の進んでいる状況がうかがわれた。

西部鉄道池袋線特急に乗り池袋1446着、解散

 長瀞、秩父と俗界を離れた新緑に囲まれた地域で、気心の知れた仲間との一泊二日の旅、幸いに天候にも恵まれ(増水のため船下りは中止になったが)身心共に癒やされ、楽しかった。計画してくれた幸田君に深謝。

 

531

 永代神楽祭参加者のうち、窪添龍輝君が所要発生、欠席に変更

参加者数     94

参拝のみ     33(会員 5名 遺族28名)

懇親会まで参加  61名(会員31名 遺族30名)になりました。

 

 昨日高杉敏夫君から産経新聞の「命救われ恩返し」の記事を送ってもらった。この記事にある今村昌耕さんは駆逐艦楓の軍医長で戦時中高杉敏夫主計長、伊藤正敬航海長と一緒に勤務した仲であった。現在92歳とあるが、お元気である。この記事をブログに掲載した。

 

明美ちゃん基金に38年後の恩返し 外国人1号の“坊や”が2万ドル寄託

 2010.5.28 の産経新聞に下記の記事があった。この記事にある今村さんは昭和19年から20年にかけて戦時中、私と高杉敏夫君が乗っていた駆逐艦楓の軍医長であった。此の記事は高杉君から教えてもらった。

 現金2万米ドルを寄託したクルニアワン・イマサタ・スリスティオさん。右は当時医師として援助した今村昌耕さん

 『38年前の昭和47年、心臓病の子供を救う明美ちゃん基金(産経新聞社提唱)で手術を受けたインドネシアの「ニューニュー君(坊や)」ことクルニアワン・イマサタ・スリスティオさん(45)が28日、東京・大手町の産経新聞社を訪れ、基金へ現金2万米ドル(約180万円)を寄託した。外国人として初めて基金の適用を受けた7歳の少年は、いまや世界を飛び回るビジネスマン。「命を救ってくれた恩返しをしたい」と話している。

 ニューニュー君は4歳のとき、日本から医療援助で訪れた東京女子医大の故高尾篤良医師により、生まれつき右心室の出口が狭く肺動脈へ十分な血流がない「肺動脈狭窄(きようさく)症」と診断された。

 日本での手術を切望していたころ、医療援助に来ていた財団法人結核予防会結核研究所の今村昌耕医師(92)=東京都清瀬市=と出会った。今村さんは「体格もひ弱で、どこか不安げだった」と振り返る。

 今村さんは帰国後、ニューニュー君を救おうと高尾医師を訪ねた。高尾医師を通じ明美ちゃん基金に適用申請があり、東京女子医大病院で心臓外科の権威だった故榊原仟(しげる)教授の執刀で手術を受けた。外国人の適用1号だった。帰国後は元気に復学し、米国へ留学して財政学と会計学を学んだ。母国へ戻り銀行や不動産、保険会社などで働いた。現在は総合開発会社の管理職の傍ら投資家としても活動。欧米ビジネスマンに人気の携帯電話「ブラックベリー」2台が手放せない忙しさという。

 セカンドネームの「イマサタ」は、手術に尽力した今村、榊原、高尾の3医師の名前をもらったもの。今村さんとは家族ぐるみのつき合いが続き、今回の寄託が実現したのも、休暇で5年ぶりに今村さんを訪ねようとしたことがきっかけだった。電話で来日を伝えた際、現在も基金が活動していることを聞き、即座に寄託を決意したという。

 「当時は、貧しくて基金がなければ手術を受けられなかった。日本人の善意に心を打たれた。大人になって仕事で日本を何度も訪れ、常に基金のことが頭の片隅にあった。命を救ってくれた日本人へ恩返ししたいとずっと思っていた」

 今村さんは「ニューニューは経済的にも自立できた。恩返しするのもめぐり合わせだろう。彼の人生が開けた姿を見届けられ、うれしい」と話した。

 この日、今村さん、妻のリリーさん(49)と本社を訪れたスリスティオさんは、白い封筒に入れた百ドル札200枚を寄託した。

 「基金にはこれからも子供たちを救ってほしい。世界にはまだ、かつての私のように、貧しいがゆえに手術を受けられない多くの子供が助けを待っています」

今村昌耕さんと伊藤正敬、高杉敏夫の3名は長い間、駆逐艦楓会で付き合っている。 

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