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新なにわ会設立の経過   平成28年8月3日

                            海兵72期戦没井尻文彦弟
                           元世田谷区立駒繋小学校校長
                               岡 野  武 弘


戦後、海兵72期・海機53期・海経33期の昭和18年卒の同期の合同クラス会が、同期戦没者慰霊の靖国昇殿参拝と懇親会に、同遺族全員を招待し、特に、両親たちは、熱い孝養を尽くして下さいました。

悲嘆の両親たちが、毎年なにわ会を生き甲斐に生き、会友との親身な交流を知る私は、会友への尊敬と感謝を胸に刻んでおりました。海軍一家の三男と謂われた私は、海軍のなにくそ精神で団結、日本復興にも、自己犠牲で貢献された先輩方を師範として、公正は歴史観に立つ公教育に貢献する事ができ、なにわ会のお陰と感謝しております。

伊藤正敬様編集のなにわ会ニュースとなにわ会便りは、初刊からの愛読者で、時に、編集に参加、HPの戦没井尻文彦欄にも寄稿の栄に浴しました。実に幸せでした。

 伊藤様や他の会友方のご逝去が続き、80歳を越えての期に、なにわ会を解散、との報を知りましたが、講師業で繁忙の時の私でした。

 なにわ会通信の上野三郎代表の編集運営で、続行されましたが、2年前の懇親会で、「今後の懇親会は廃止」との話が提示されました。私は、「今後の懇親会は遺族側で運営し、会友の方々をご招待したい」と提案し、小灘夫人はじめ、多くの遺族の方々の賛成を戴きました。

 仙台の村上典夫様(名簿No.57)とは、「なにわ会の名誉を残したいね」と語っていましたが、夫人のご逝去に彼の入院が続いて、彼との連帯を諦めました。

 上野三郎、村上隆、深尾秀文の3代表幹事と打ち合わせ3回を持ち、ご指導・ご支援を受け、遺族主体のなにわ会存続の案が決まりました。

 そして、1年前のなにわ会は、遺族の参加は増え、会友の参加が減少となりました。会友への案内に遺族主体の主旨の不徹底がありました。急遽、来年以降も、なにわ会の進行は続くと、参加者に挨拶しました。

 そして、本年、堀江保雄様を遺族代表にお願いし、小河昌彦、土井美幸、川田真樹子、阿部嘉久、の方々の幹事就任のご承諾を得て、幹事会を結成し、準備万端整いました。私が幹事代表となった次第です。

 本年初めに、靖国会館が他の団体に、先取りされていると判明、諸工夫の末、寧ろ、<アリカディア市ヶ谷>を懇親会場とし、<戦後70年、新なにわ会誕生>のテーマで開催しようと決めたのでした。

 平成28年6月4日、参拝後の参集殿2階楠の間での、遺族方の総意の諸決定事項で、遺族側主体の新なにわ会が誕生した事を報告します。

 なにわ会ホームページも、今後は遺族の利用を加え、銃後の記録に歴史の展開を求めたいものです。早速、飯沼和子さんの追悼文をHPにと依頼した如く、なにわ会の実績を後世に伝えたいと考えます。

 新なにわ会万歳と、村上典夫様の感激の祝辞があった事を付記します。

 最後に、海軍エリートの子々孫々に、靖国護持の庭に、多くのなにわ会会員の歴史が存在した事実となにわ会の継承を願うものであります。