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 思い出の宗谷海峡65年目の再訪
 平成22年9月24日〜26日
                            泉 五郎




9月24日 (金)
早朝6時過ぎ、まゆみに送られ京成千葉より羽田行きのバス、例のごとく幕張のホテルで次々乗客を収容、その分少々時間はかかるが、海外旅行ではないので搭乗手続きは比較的楽。
0930離陸、飛行順調11時過ぎ新千歳空港着。

 多少は覚悟をしていたものの、新千歳から稚内までのバス旅行、車窓の光景も平凡で延々と続く田園光景! 途中砂川で昼食、ジンギスカンは敬遠、持参の弁当で間に合わす。車中バスガイドの下らぬお喋りにうんざり!

 延々続く広野の風景、漸く車窓左側に広がる灰色の波の彼方に懐かしい利尻の島影が姿を現した。
礼文は利尻山の陰に隠れて見えない。やがて落日が利尻の山影をくっきり映して暮色迫るころ稚内港バスターミナルに到着。

 稚内の景色は勿論終戦直後の風景とは全然別世界、化粧直しですっかり綺麗になつてはいるが、稚内港に列柱の立ち並ぶ壮大な防波堤の景観だけは昔のままで、私にとっては甚だ懐かしい。 今回の旅行は実はこの防波堤を見たかからともいえる。

そんな訳でこの写真を旅行記の表紙に飾ることにしたが、パック旅行の悲しさで、こんな個人的な感傷等は全く通用しない。ゆっくりドームの写真を撮る暇もなくバスは早々に宿舎の稚内サンホテルへ。

異常気象で暖かとは云つても北国稚内の夜は誠に静かで、夕食後は早々に寝るよりほかに仕事はない。本当はタクシーで稚内の街を一巡りしてみたかったが、何しろ64年前の昔に比べ余りの変貌振り!
稚内の街は港のドーム以外、全く街の様子はすっかり近代化されの異郷という感じで流石にそれは諦めた。

当時の思い出といえば、町には一軒の映画館があつた。町自体が戦火を免れた為かこの劇場も比較的立派な建物で、恐らく終戦直後は宗谷地方唯一の娯楽施設ではなかつたろうか。
勿論、芝居小屋にも映画館にも使える建物であつたと思われるが。当時流行っていた長谷川一夫主演の越後獅子が上映されていた。
休日にでも上陸して観に行つたのであろうか、今でも獅子頭に華麗な衣装を着けた彼の見事な舞姿に大変感銘を受けた記憶だけが鮮明である。

旅の話がいきなり昔話になってしまったが実は戦後間もなく、正確には昭和21年の春のこと、当時私は海防艦屋代の航海長として宗谷海峡の掃海業務に当たつていた。

今の若者に関心がないかも知れないが、敗戦まで樺南半分は日本領土であつた。
本来ならば樺太全島は間宮林蔵によつてたシベリヤ大陸とは別個の島であることが初めて確認され、当然日本領土として確保されるべきところ、当時徳川幕府の無能によってロシアに奪取された。
日露戦争の勝利により漸く南半分は確保されたが、今次大戦末期ソ連の無法参戦で
再び樺太全島がロシアの手に落ちた。我々大正生まれの人間には耐えがたい屈辱的な事実である。

然しそれはそれとして、敗戦までは日本領土であつた樺太南半分と北海道の間を隔てる宗谷海峡は両島間の交通も大事であるし、更には当時ホーツク海からアメリカ潜水艦が日本海への侵入防止という軍事的観点からも甚だ重要な海域であつた。

そこでこの海域には幾重もの対潜水艦用の機雷が敷設された。勿論状況によっては一般水上艦船に対しても目に見えない兵器として甚だ有効であつた。
いわば海の地雷とでも云うべき物であるがであるが、地雷が地中に埋められているのに対し、機雷はワイヤーで海底の重りに繋がれ本体は海中に浮かんでいた。

我々が掃海したのはこの繋維機雷であつた。
海防艦2隻が並んで航行しお互いの艦尾から太いワイヤーを引っ張り合って、その間に引っかかった機雷のワイヤーを切断、浮き上がってきた機雷を機銃射撃で爆発させるのである。

機雷には何本もの触角があり、これに船がぶつかると機雷が爆発するという寸法である。従って弾丸がこの触角に当たらないと爆発しない。失敗すると浮流機雷となつて追跡処分に手古摺ることもあつた。
また、戦後のことで軍規は甚だ弛緩、時には前甲板の見張り員が浮流機雷を発見すると後甲板へ逃げてくるということもあつた。

この時の對艦の航海長は同期の間中十二君だったと記憶しているが、最早確かめる術もない。艦には平服のソ連監督官時々乗り込んできたが、高等商船学校出の艦長太田少佐は英語はぺラペラ。敗れたりとはいえ乗組員は帝国海軍の残党で作業には文句のつけようもない。ただお役目で艦橋にいるというだけの感じであつた。

幸い危険な事故には遭遇しなかったがその頃の作業基地が稚内であり、掃海作業で艦位測定に際し時々御厄介になつたのが利尻、礼文の両島である。遠くから眺めていただけで上陸する機会がなかつた両島を、機会があれば一度この目で確かめたいというのも長い間の念願であつた。
海から眺める利尻礼文の両島はまるで夫婦のような感じである。
正に海に浮かぶ富士山と云つた感じの男性的な利尻島に比べ、寄り添う礼文島は平坦で女性的な遠望を呈している 
翌朝、稚内を出て最初に向ったのは礼文であつた。最近は自動車で移動する人が多いので、連絡船も相当の大きらフェリーである。

        
     (左)稚内港フェリー岩壁                (右)礼文・香深港遠望

         
観光は利尻がメインで礼文はその前にチョロリ見る程度かと多寡をくくっていた。

礼文観光の謳い文句は花の浮島ということであつたが、いくら残暑が厳しい今年の秋とはいえ日本最北端の島、今頃花の咲いている筈はない。苦し紛れのように草花の種子についての説明がいろいろあつたが、これにはたいして興味も関心もなく些かうんざりというところであつた
ところがバスが礼文島の北スコトン岬に差し掛かると景色は一変、荒涼たる山容、峨々たる岩壁が目前の海に迫る光景は予想外の迫力であつた。
勿論、ヨーロッパやアメリカの大峡谷に比べると、その風景は壮大極まるとは云いかねるが、予想していなかっただけに感動をおぼえた。

 下手な描写より写真のほうが雄弁!

 

   

    春には草花が咲き誇るのであろうか?        旅愁、寂寥の感漂うスコトン岬の小さな部落

波止場では島人を見送るのか?或いは若者集団が何かパフォーマンスでもやっているのか? フェリーの甲板と波止場で長々と掛け合い風のやり取りをやっていた。
何を叫んでいるのか喚いているのか?!さっぱりわからない。我々老人には異邦人である。

      
礼文に別れを告げ利尻島へ 

           

雲に覆われた利尻富士の山頂、滅多に全景を現すことはないらしい。
下は利尻島鴛泊・夕日に映える波止場の風景。才子はこの写真をこの旅行記
の表紙にしたかつたらしいが、この光景も素晴らしかつた。

利尻の島はバスでぐるりと一周したが、利尻山遠望以外はあまり大した風景も期待出来ないようである。ただいつも雲に覆われている利尻富士が珍しく晴れで、旅人が偶然このような写真を取れるのは大変珍しいとのこと!

   

港から望む利尻富士の雄姿

稚内もこの利尻も共に新しいホテルでまずまずの食事ながら、最近はどこへ行つても大して変わり映えしない。早々に寝るだけ。
翌朝ホテルの周辺を散歩、土産に御当地出身のカメラマン撮影のカレンダーを購入。これは誰もあまり褒めてはくれない。
土産には利尻昆布の他、煮鮭の昆布巻きなど少々、昆布は才子を督励して小海老入りの佃煮をとの魂胆。矢張り上等の昆布は必ずそれだけの値打ちがある。

この日も好天に恵まれ無事稚内へ、先ずバスは市内大型土産物センターへ。
才子の物色中、折角だから佐賀君宅表敬訪問しようと思い店外で待つこと暫し。遂にタクシーが通りかからず断念、矢張り地方都市は交通事情も多少違うようである。

ショッピングタイムを終わつてバスは眼下に市内を一望できる高台の稚内公園へ。高層ビルも結構目立ち、勿論昔日の面影はない。ドームと防波堤の辺りだけが昔日の面影を止めているのであろうか。
現在は人口38000人との由、こじんまりとした街の様である。

ここで再び海防艦屋代時代の話に戻るが、当時の稚内港4月の頃の海水温度はどの位であつたろうか?
正確なことは覚えていないが身を切るような冷たさであつたに違いない!
そんな或る日のこと、恐らく日曜日か何かでその日は岩壁でなく沖泊りであつた。お天気はよかったが若い乗組員の一人が海に飛び込んだとの報告があつた。
とは言っても自殺の為ではない。実は定期便に乗り遅れたが女恋しさに矢も楯も堪らず、衣服を頭にのせて岩壁まで泳いで行つたのである。
戦時中には考えられぬ軍規紊乱の所業であつたが、戦後のこととて先任将校の私も
彼が帰艦後「馬鹿なことをするな」とお説教する程度で事を収めた。

他にも稚内港で漁師さんが沢山獲れたの鰊を漁船一杯丸ごと呉れたこともあつた。
獲れたてを電熱器で丸焼きにした熱々の鰊は何とも美味であつた。
お返しには危険な掃海作業に対する特配の煙草を少々進呈したが、当時一般社会では煙草は大変な貴重品、終戦直後の日本、特に都市部では衣食住すべての物資が信じられぬほどに困窮していた。

実を云えばこの海域では折角鰊が獲れても燃料不足で内地への輸送が出来ない。保存用の「身欠き鰊」に加工しても同様であつた。昔はそもそもこの「身欠き鰊」などは肥料にするほど獲れていたのである。
一方煙草も一般社会では配給品で大変欠乏、昨今のように煙草の害は問題にされてなく、闇物資として大変な貴重品で、今では信じられない物々交換であつた。
士官室の食事も当時「娑婆」と称していた一般世間に比べると格段に優遇されていたが、戦時中と同じようにはいかなかつた。
或る日のことである。士官室でこの鰊を天婦羅にしてしこたま食べた。途端に総員が下痢症状である。なんと、ひまし油で揚げたのがその原因であつた。
更に、ひまし油での天婦羅に異議を唱えなかつたのが軍医長であつた。私より年配的には少々上の軍医大尉で平素から糞生意気な男であつた。
恐らく戦時中はそうでもなかつたかも知れないが、終戦後は軍令承行令が色あせてくると威張りだしたのであろう。然しこの一件ですっかり面目失墜、程なく退艦した。

この稚内にいる頃思いがけない親孝行をして郷里の両親に喜ばれた。
実はこのこの身欠鰊と数の子、それに利尻昆布を大きな茶箱二函に詰め、転勤荷物として郷里の三田に送った。お茶屋さんが使うあの大きな木函で内部は錫箔張りである。
しっかり目張りをすると匂いもしないし干物なので左程目方も重くない。発送人の住所は海防艦屋代、中身は復員荷物としてあつたので無事郷里三田の家に届いた。

昭和21年春のこと、農家以外は食糧難の真っ最中で、家財衣服を「闇取引」で米などの主食と物々交換して飢えを凌いでいた。農家の方も闇米はあつても副食の海産物などはまことに貴重品であつた。
現在の時価に換算して如何ほどになるか一寸見当もつかないが、結構有利な交換条件で飢えを凌ぐ足しになったらしい。
旅行記には少々お門違いのようだが、稚内にはこんな思い出もあるので今回出かけたとも言える。
掃海作業はその後三陸沖から沖縄の石垣島まで続いたがその話は別稿譲るとして、稚内公園から眺める稚内の街は写真でも見られるように中々の絶景である。
然しその一方氷雪の門や九人の乙女の像など敗戦の悲劇を訴える記念碑には、またしてもロシヤの無法、暴戻残虐さに断腸の思いい一入!



それにしても歴史を現代の知らぬ今の観光客は果たして如何ほどの関心を抱くのであろうか?歴史の真実を無視して全てを忘却と無関心の彼方に追いやろうとする戦後日本の姿には云うべき言葉もない
旅の終わりは北海道最北端の宗谷岬である。然しここを日本の最北端としてこの地に己の銅像が建てられた間宮林蔵の思いは如何なものであろうか?!



戦後日本人の腑抜け様には腹を立てる術もない!                             

懐かしく 怒りも新た 北の旅 何時の日戻る 樺太の土