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  思い出の陸奥湾周遊記                             泉 五郎


かねてよりもう一度訪ねたいと考えていたところ、丁度阪急交通の「みちのく三大半島と人気の秘湯不老不死温泉・仏ヶ浦遊覧4日間」の旅のしおりが舞い込んだ。
 旅は好きだが昨秋華南の旅で風邪を引き海外はもうこりこり。
しかし国内4日の旅なら手頃でもあり、そろそろ梅雨の心配もあつたが善は急げとばかり早速申し込んだ。

平成24年6月28日(木)

 0640和光の車で出発。0710快速で東京へ。久しぶりの東京駅は変わり様も甚だしく、和光同伴でなければ迷うところ。
集合場所では大年増で大デブの添乗員にやれやれ!
男なら粋のよい江戸っ子というところ。然しこの彼女が見かけによらず中々の気配りよう!
人は見かけによらぬものと感心。
0840発東北新幹線やまびこ53号で水沢江刺駅まで。 
考えてみれば関西方面へは度々行くが、夫婦で東北新幹線の旅は二度目である。
高架の車窓から見渡す限りの関東平野は所々にちらほらと緑の防風林が見られるものの、直線と円との幾何学的な構築物で埋め尽くされ、昔の武蔵野の面影は更にない。
我々には誠に殺風景に感じられるのも齢の所為か?
11時半頃水沢江刺駅に到着、バスに乗り換え、旅本番の始まり!

座席は前方見晴らしもよくガイドの説明も聞き易い。
此のガイド相当な小母さんであるが、ガイドと言うより昔の女学校の先生といつた方がぴったりの元秋田美人。
中々の雑学多識で色々説明してくれたが、残念ながら全部右から左!
よくもこんなに綺麗さっぱりと忘れられるものである! 居眠りをしなかっただけが取り柄で、撮りまくつた写真が今度の旅日記のネタというところである。
みちのく三大半島周遊と銘打たれた今回旅の記録は撮りまくった写真だけが頼りの綱!
然し、その写真にはメモが一切ない!ただパチパチと撮つただけ!撮影場所などメモも一切ない!
その昔、目から鼻に抜けるほどの秀才とまでは謳われなかつた我輩も、打ち寄せる老いの波風には抗し得ず、写真の大半は残念ながら撮影場所がはっきりしない。
写真を見れば思い出すなどとはとんでもない話で、旅行の記録としては情けないが甚だお粗末千万!
言い訳はそのくらいで、先ずは最初の目的地は男鹿半島である。

この男鹿半島の東側は戦前、八郎潟が満々たる水を湛えていたが、戦後食糧難対策として周辺の調整池を残し、大部分は埋め立てられて農業用地にと変貌した。
今となつては遥か大昔の話になるが、終戦直後の昭和20年の秋、既に故郷の兵庫県三田に帰郷していた私に復員輸送船第二新興丸の航海長の辞令が届いた。
早速陸路函館まで旅行した。終戦直後の大混乱期
ところがこの第二新興丸は終戦直後、樺太からの難民を輸送の途次、ソ連潜水艦の無法雷撃により船腹に大穴を開けられ、死傷者多数、ようやく函館港まで辿り着いていた。
僅かに沈没をまぬがれたものの到底復員輸送の役にはたたず、私は戦後の食糧難時代この船で暫くの間三食宿付親方日の丸の生活を楽しんだことがある。
それに続く面白い話もあるが、それはさて措き、戦後生まれの人には想像絶する交通難のこの頃、奥羽本線で此の八郎潟の畔を通つた。
当時は八郎潟も未だ満々たる水を湛えていた筈であるが、全く記憶にはない。
今回の旅行でも江刺から男鹿半島の西北端の入道崎、男鹿温泉までは高速道路も至って平凡。
記憶に残る景色といえば、途中観光客歓迎の為と思しき巨大「なまはげ」の像のお出迎えくらいのもの。
此の辺りから怪奇な「なまはげ」が旅の目玉となる。
観光用に建てられたと思しき立派な会館には諸々の「なまはげ」関連の展示がされていた。
とは云うものの、「なまはげ」自体はこの地方の大きな民芸作品と言うだけのもの、到底芸術的作品と迄はいかない。
概ね一見したらご満足という程度である。
見物には少々飽きたので此処で昔の食事に挑戦してみたが「どんぐりの実」など一度食べたらそれで結構、昔の東北の厳しさを痛感させられたのも旅の一興か。

なまはげ会館を後にして多分八郎潟干拓地の南を西進、左に波も穏かな日本海を見ながら途中から右に北上、男鹿半島山地の東側を半周して、雄大な景観の入道崎に抜けたのではなかろうか?
くどいようだが何処をどう通つたかなど、考えてみればたいしたことではない。
然し、旅日記ともなれば一応気にかかる。 この辺りいつまで経つても昔堅気が抜けきらない。
それにしても入道崎の景観は素晴らしかった。
広々とした緑の芝生敷地に、白と黒の縞模様に彩られた灯台の巨大な円柱が青空に鮮やかに映えて誠に爽やかな風景である。
今回はこの入道崎の写真を旅行記の表紙に飾ることにした次第。



バスは概ね予定通り、夕方5時半ころ男鹿半島の西北に突き出た男鹿観光ホテルに投宿。
夕食後少々時間を持余したが、夜の8時から近くの「なまはげ」会館で見物した「おんでいこ」は、出演者女姓一名を含む小人数ながら迫力満点!
誠に日本的な音色に感心満足。
先年北欧に旅行した際オスローのホテルのショウウィンドウに「鬼太鼓」の看板が出ているのを見て、こんなところにも進出しているのかと訝ったことがあつた。
然し改めて聴いてみると。この大太鼓だけの男性的な音響は迫力満点で、案外外国人にももてるかもしれないと感心した次第である。

そういえばその昔、クラス会での能登旅行の際初めて聞いた鬼太鼓、この時の演奏も素晴らしかったが、現地で案内役をつとめてくれた藤田直君の消息も絶えて久しい!本日のバス走行204キロ

6月29日(金)2日目

旅行社の予定表によれば、この日は男鹿半島北端の付け根の能代からローカル列車で黄金崎まで、この日は左に穏やかな日本海を眺めながら行程である。
しかし写真ではその撮影日時と旅行社の日程表とはどうも符合しない。
黄金崎・不老不死温泉では露天風呂から雄大な日本海の光景を満喫、昼食に出た帆立貝の殻。この貝殻あまり見事なので一枚綺麗に洗ってもらい工作材料にに持ち帰つた。
この日の写真もいろいろ撮つてはいるが概ね何処だか判らない。
1658表紙の入道崎の写真だけがまあまあの出来。

6月30日(土)3日目
0800ホテル発、陸奥湾西岸中央に位置する蟹田港より遊覧船に。私にとっては今回の旅の本番とも言うべきクルージングであつた。
快適な高速艇で見晴らしもよく陸奥湾北岸仏ヶ浦の景勝を満喫することができた。
海軍時代、乗艦木曾の母港が大湊、戦後も航海長として勤務した海防艦屋代も同じく大湊が母港であつた。

そんな訳で戦中戦後を通じ陸奥湾には結構馴染みはあるが、この辺り迄は接岸航行することはなかつた。
この大湊では戦後色々と思い出は多いが、詳しいことは改めて自分史に記録する予定である。
斧のような形をした下北半島の西南端の脇野沢から再びバスで大間崎へ。
大間崎では小さな売店で大きな帆立の貝殻を2ヶ購入別送、5000円に値切ったか?
この際の送り状など購入先の資料を廃棄してしまったのはまことに残念!
この貝殻は我乍ら見事な電気スタンドに変身!
和光家と達洋家に夫々お土産!

 大間岬も灯台の風景はなかなか素晴らしかったが、単調といえば単調、一瞥したらおしまいという程度である。

バスは早々に日本三大霊地の恐山へ。この恐山は仏閣だけは立派だがなんとなく不気味な雰囲気!
科学的には特異な火山風景に過ぎないが、純朴な東北人ならずとも人間には格好の自然畏敬の場所である。
しかし、もう一度誘われてもあまり行きたいところではない。
本日の投宿は馬門ホテル、出立直前ホテルの女将らしき女性との写真があるが記憶は皆無!

7月1日(日)
この日は昨年の大震災被災地を再訪の旅である。
先年旅した久慈鉄道沿線の風景も地震と津波の被害で惨憺たる様子である。
然し、流木等も整理され一応被災の傷跡は傷跡なりに整頓せれている。
「狎れ」というものは恐ろしいもので、テレビで散々見飽きたか、この惨状にも余り衝撃を受けない。
前回の東北旅行では行かなかった北山崎。「海のアルプス」と呼ばれる断崖絶壁、高さは200メートルと言われているが生憎の靄で迫力半減。
然し、霧に包まれた辺りの風景は微かな潮騒を感じるものの静謐そのもの、大自然霊気が満ちていたとでも言うべきか?
早々に出立、更に途中少憩の道の駅「三田(みた)貝(かい)会館」、
土産物屋も買うものとて無く、
退屈なひとときだったが、単なる偶然の「三田」の二文字に才子共々なんとなく郷愁を誘われる。
ふるさとは旅先にてこそ郷愁を誘われるものであろうか?!
帰途は盛岡より新幹線、千葉駅よりタクシーで帰宅。9時過ぎ、お疲れ様でした!
それにしても今回の旅行記は甚だ難儀でござった。