TOPへ 

  平成25年 67年ぶりの屋久島                           泉 五郎


7月4日 木 
 四時半起床、満天暗雲ながら高度ありなんとか持ちそう。天気図も一応低気圧圏外。後は神様任せか!まゆみの車で京成千葉駅まで、何時ものようにバスで羽田へ。
阪急交通の旅・世界遺産・屋久島周遊三日間!・・羽田発8時半、鹿児島空港で小型機に乗り換え昼前には屋久島着、ほんとにあっと言う間に到着である。
空港は島の東北、宮の浦も程近い。

屋久島は私にとって正に危機一髪、或は命を落としたかも知れない思い出の島である。
その事件とは終戦後の昭和21年の秋、戦時中に敷設された旧日本海軍の機雷を掃海処理するため、北は宗谷海峡から南は琉球まで海防艦屋代での掃海作業を終え内地に帰る途中のことであつた。
正確な日時は覚えては居ないが昭和二十一年秋の頃、我が乗艦屋代は丁度琉球列島を北上する猛烈な台風に襲われた。その威力の前には海防艦など木の葉のようなものであつた。
竹内仁司艦長は海軍兵学校58期、私が最も敬愛する熟練の大先輩であつたが、この猛烈な嵐では到底航海を続けるのは無理と判断。そこで最も近い屋久島の宮之浦港に投錨避難することになった。
然し、この宮之浦は航海上の要衝とはいっても、峻険な屋久島の峰々から流れ出す小さな川の河口に広がる漁港を兼ねた鄙びた港町に過ぎない。
当時は海防艦といえども軍艦の端くれ、屋久島にはこの屋代が繋留できるほどの岸壁はなかった。当然港内に錨泊して低気圧の通過してくれるのを待つ他なかった。

 ところが嵐の勢いは更に強まり、猛烈な風圧と打ち寄せる怒涛に押されて艦はずるずると走錨を始めた。つまり錨が本来の役目を果たさず艦は流され、このままでは座礁転覆の危険性は必至の状況となったのである。
そこでやむ無く艦長は荒れ狂う外洋へ脱出を決意、然し猛烈な風圧のため普段のように揚錨機で錨を揚げている暇はない!非常手段として前甲板で錨鎖を切り離し、嵐が収まってから之を回収する方法しかない!
そんなことが出来るのか?とお思いであろうが、実はこのような緊急事態に備え錨鎖には要所に鎖を分断する為のピンが装置されていた。ピンといっても棒状頑丈な鉄製のものである。
そのピンを抜く作業自体はたいしたことはないが、何しろ前甲板を襲う狂瀾怒涛の合間を縫って決死の作業である。それに軍規弛緩の終戦後のこととて、そんな命がけの作業に乗組員が尻ごみするのも止むを得なかった。
そこは痩せても枯れても兵科将校、艦長の要望もあり航海長自らのお出まし。逆巻く怒涛一瞬の合間を縫って無事作業完了! 艦橋では思わず歓声が上がったらしいがこちらはお陰でびしょ濡れであつた。
更に、艦橋下の入り口に辿りついた瞬間、小山のような大波が前甲板を洗った。
正に危機一髪の出来事を経験したのがこの宮之浦湾である。 
戦時中の伊369潜水艦時代と云い、この事件と云い改めて幸運の女神に感謝するのみである!

そんな忘れられない思い出があり、かねてより再訪のチャンスを待っていたが長年の念願がかなっての今回の旅行、漸く屋久島の土を踏むことと相成った次第である。
朝、千葉の自宅を出て昼飯はこの屋久島飛行場近くの屋久然料理! 考えてみれば随分と便利になったものと思うのは老人の感懐か?
その名も田舎味の茶屋「ひらの」である。
薬(くすり)を屋久にかけた薬(やく)膳(ぜん)、見るだけで充分な京風の料理である。
或は平家残党の後裔(えい)か等と勝手な想像をめぐらしては見たが之には何の根拠もない。
食後何はさておき観光目玉の「ヤクスギランド」散策。写真を撮るのに懸命で紀元杉の印象も希薄とはまことに本末転倒!    
この辺りで又もやカメラのシャッター、レンズのカバーが作動不良、肝心な場所での撮影に失敗とは残念千万!その後何とか修復したがカメラも余り使わないと錆びてくるか?!
阪急旅行社の案内書には「50分コースを約90分かけて散策」とある。登山道はよく整備され緩やかな山道をバスで楽々。  そして、屋久杉の威容には感動の一言!

     

「天高く 樹林の王者 紀元杉 
神の宿るや その威容」
感嘆しばし。

その後巨木と岩々の織り成す荒々しい渓谷美を満喫、言うことなし。
「百聞は一見に如かず」ボケ老人の旅行記より便利なインターネットで検索出来る見事な景色を見たい方にはそちらが勧めである。
夕方5時前、島の南端に位置する尾之間温泉“屋久島いわさきホテル”に到着、なんとも豪勢なホテルである。
高台の広大な敷地に庭も広々! 経営者の苗字は岩崎、但し薩摩の岩崎弥太郎家とは無関係の由。
背後には重畳たる山々、千メートルから2千メートル級の深い緑と前景の洋々たる海の色に身も心も吸い込まれそうな感じである。食事も豪勢で言うことなし。
ホテルからの絶景に一句
「屋久島の 峰々高く 雲の中 
遥かなる海 打ち寄せる波」
ロビーの吹き抜けには高さ5階近くまであつたろうか?巨大な屋久杉!
どうして運び込んだのか?と尋ねて見たら実は作り物とのこと!
余りにも本物そっくりで、とても人工の模型展示物とは見えない。
風呂もまた一寸したプール並み。
九州は南の果てにこんな豪勢なホテルがあつたとは流石薩摩隼人の豪気さに感服!
食事は広々としたホールでのセルフサービスであつたが、並んだご馳走は眺めただけで満腹!
一般客の半分も食べ切れない耄碌爺(もうろくじじ)婆(ばば)は料金を少々割り引きして貰わねばと言いたいくらい!

7月5日 金 
早朝の目覚め、することもないので朝飯前の散歩に千尋の滝を一寸見物と思い、ホテルの庭に立っていた看板を頼りに散歩がてらに出かけたがとんでもなく遠い! 
比較的楽な山道であつたが15分程行つたところで早々に退却、引き返したのは賢明であった。
「千尋(せんぴろ)の 滝の音(ね)たどり 老いの坂 
朝飯前と 思いし不覚」 
才子には何も云わずに出かけたので、滝まで足を伸ばせばきっと大目玉を喰らうことになったかも?
ホテルの食事は朝から誠に豪勢過ぎて私には精々果物だけで腹一杯とは情けなや!
食後、今回の旅行は体調やや不良で旅行社の行程表と写真や記憶がかみ合わず、断片的な記録になってしまったのは残念だが、之も年の所為(せい)であると諦めよう。

7月6日 土 
朝飯前にプールのような風呂でひと泳ぎ、9時ホテルを出発。
今度は千尋の滝までバスで楽々、然し徒歩では大変!昨日は早々に引き返し大事にならずに済んでよかったと反省しきり!
千尋の滝、密林の山腹に忽然と現れる荒々しい岩肌を洗う白い水の帯はダムの放水を思わせるほどの水量である。

内地の名瀑は概ね優雅ではあるがどちらかと言うと女性的であるに比べ、この千尋の滝は誠に男性的な絶景である。
緩やかな傾斜の大きな岩肌を白く泡立ち流れ落ちる大きな水の帯は壮観の一語!
南海の離島、遠くからではたいした滝には見えないが、展望台からの眺めは迫力満点、流石である。
往還、山猿の群れが屯(たむろ)していたが人間を恐れる様子は全く見受けられない。
恐らく屋久島の山の幸を満喫していても、尚人間の与える安易な餌の味を待ち受けているのであろうか?

     

 その後屋久杉自然館でみやげ物色。妙な外人が近くの道路脇で流木らしき小片を一本100円で売っていた。
お遊びの額縁細工用に4本購入、果たしてどんなものが出来上がるか?
帰りは勿論逆コース、羽田からバスで千
葉まで、夕方には無事帰宅。途中バスの窓から見慣れた筈の景観が、些か目新しく感じられたのはそれだけ世間の変化に縁遠くなってきた証拠か?
今回の旅行記は持病のリュウマチに悩まされ、筆の運びも遅々として残念ながらこれでお終い。