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分校急設

海軍兵学校大原分校の碑 海軍兵学校岩国分校の碑
海軍兵学校針尾分校の碑
戦時中作られていた防空壕

 昭和18年11月15日、岩国航空隊内に海軍兵学校岩国分校が開校された。江田島本校9部90分隊,岩国分校2部24分隊となり,3学年の73期160名,2学年の74期230名が岩国分校に移った。

 昭和18年12月1日,75期3,480名の入校式が千代田艦橋前で行われた。校庭で行われた入校式の最初である。式後約300名が岩国分校に配属された。1号生徒である73期の在校期問は2年4か月で,昭和19年3月卒業の予定であるから,4か月の問に4倍以上の3号生徒に海軍兵学校の伝統を受け継がなければならない。73期が海軍兵学校各期の中で最も檸猛なクラスと呼ばれ,厳しい指導を下級生に行つた理由もここにあった。

 昭和19年3月22日,73期898名の卒業式が高松宮殿下御臨席の下に挙行された。式後巡洋艦香椎,鹿島に乗艦して江田内を出港,大阪から特別列車で伊勢神宮に参拝した後解散,3月末日まで特別休暇を許された。

 3月31日東京品川の海軍経理学校に参集した73期少尉候補生は,海軍機関学校54期,海軍経理学校34期と共に4月2日参内,拝謁の後宮城前広場で解散,それぞれの配属先へ急いだ。航空要員500名は42期飛行学生として霞ケ浦航空隊に入隊,艦船要員400名中300名近くは呉に直行,戦艦大和に便乗して4月24日出港,5月1日リンガ泊地に到着して第1機動艦隊各艦に配乗した。

 昭和19年9月30日に海軍機関学校が海軍兵学校舞鶴分校となったのに続いて,同年10月1日,大原分校が設置された。江田島本校9部90分隊,岩国分校2部24分隊,大原分校4部40分隊となり,74期280名,75期600名が大原分校に移った。

 大原分校は本校の北2キロの津久茂にあり,江田内に面した農地その他を埋め立てた20万坪(66万平方メートル)の校域に,庁舎,生徒館,各科講堂があり,昭和19年5月起工,同年9月に竣工した。東側に木造2階建の第1,第5,第3,第7生徒館、西側に同型の第2,第6,第4,第8生徒館があり,渡り廊下で結ばれ,その北にはそれぞれ2,000名収容の東食堂,西食堂.その中間に大浴場があった。生徒舘の西側と北側に各科講堂,東北側に柔道場,剣道場があり,南側は練兵場になっていて,その南端に桟橋とダビットが設置されていた。

 76期と77期の採用試験は昭和19年7月,同時に行われた。採用予定者と決定した7,300余名の中から,昭和3年4月までに生れた3,570名が76期,残りの3,771名が77期に振り当てられた。

 昭和19年10月9日,76期3,570名のうち機関専攻生徒542名は直接舞鶴分校に入校,残りの3,028名は江田島本校の千代田艦橋の前で入校式を行った後,本校,大原分校,岩国分校に分属した。

 74期生は岩国航空隊で実施された航空実習中の適性検査と志望調査によって,在校中に航空班600余名と艦船班400余名に分けられ,昭和19年5月から分離教育が行われ,同年11月末には航空班の半数300余名が在校生徒のまま霞ケ浦航空隊に入隊して飛行訓練を受けることになった。

 2年4か月の修業期間を終えた74期の卒業式は昭和20年3月30日,御名代久邇宮御臨席の下に江田島本校干代田艦橋前の校庭において挙行され,本校,岩国分校,大原分校の700余名が参列した。霞ケ浦航空隊へ派遣されていた300余名の卒業式は,同航空隊に於てささやかに行われた。卒業式を旬日後に控えた3月19日,江田島に敵機動部隊の初空襲があり,グラマン戦闘機の機銃掃射を受けて,74期2名,76期1名の生徒が戦死した。また,霞ケ浦航空隊では離着陸訓練中の事故によって,生徒1名が殉職した。在校中に戦死者が出たのも,卒業式が2か所で行われたのも,74期が初めてである。

 卒業後の74期生は練習艦隊による実務練習も,拝謁も行われなかった。霞ケ浦派遣の航空班は,少尉候補生拝命と同時に43期飛行学生を命ぜられ,5月上旬,練習機の翼を連ねて北海道の千歳基地へ移動して,6月練習機教程を終了した。江田島等に残った航空班の300名は50名が44期飛行学生として千歳基地に配属されただけで.残り250名は航空基地要員、水上水中特攻隊要員,陸戦隊要員などに振り換えられた。一方,艦船班の400名は瀬戸内海の島蔭に分散退避していた艦船,潜水,砲術,電測などの各術科学校,水上,水中特攻基地などに小分けして配属された。世界最大の新鋭戦艦大和乗組を命ぜられた42名と,新鋭軽巡矢矧配乗の24名は,ようやく連絡がとれて,4月2日三田尻沖で両艦に乗艦出来たが,両艦が海上特攻として沖縄に突入することになり,4月6日午前2時に出撃準備であわただしい中を,涙ながらに退艦するという一幕もあった。

 前年9月に採用予定の通知を受けていた77期3,771名の入校式は,昭和20年4月10日,江田島本校と舞鶴分校で行われた。この日江田島は雨であったので,大講堂で入校式が行われたが,憧れの短剣が支給されず,上級生の短剣を借りて式に臨むという逼迫した有様であった。本校組1,500名,大原分校組久邇宮邦昭王殿下以下1,300名,岩国分校組300名に分れて訓練が始められた。なお,舞鶴分校で入校式が行われたのは機関科専攻生徒656名であった。

 この頃から兵学校の教育も実戦即応的になり,八雲,磐手による乗艦実習,短艇巡航等は行われたが,遠泳は乗艦が撃沈されたときの脱出訓練に換えられた。兎狩りや幕営等の行事は廃止され,夜問上陸訓練や野外演習が実施された。しかし,普通学とくに語学と理科学の教程を減らされることはなかった。

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