TOPへ  日記目次    海軍兵学校目次

思い出草 その2

(2学年時代)

平成22年4月12日 校正すみ

昭和161116

70期生徒が出られて生徒館は71期、72期だけになった。矢張り淋しい、でも3月に69期生徒が去られた時よりも幾分か我慢しよかつた。心と心がぴったりと添って鍛えられた上級生徒と御別れするのは辛い。殊に自らが尊敬し手本として居る人と波万里を離れ去ってもう死ぬまで会へぬかと思ふと何ともたまらない気持になる。然し此の悲しみを持てるとは、兵学校生徒は実に幸福である。下級生総員が誰も彼も皆自分の理想の人を上級生徒に見出せるのである。自分の分隊の一号生徒に己の理想の人を必ず得られるのである。俺に着いて来いと指導される人が自分の理想の人であること。これが人生の大きな幸福でなくて何であらう。実に有難い幸である。

今日は、午前中は分隊編成替えで相当に忙しかった。21分隊の雰囲気は未だ知り得ないけれどもよい分隊たらん事を祈るや切。新分隊にて新なる意気込を以て万事に努力せん。

 

昭和161117

東京より来られた工藤師範に教授され、「強し」と言はる。何処の中学なるやと問はれしを以て「豊橋です」と答ふるや、「河合先生か」と言はれたるはいと懐しかり。新分隊監事、大関大尉と柔道をし鼻柱を挫きたり。

 

昭和161120

夜静かなる海面に漁火は赤く燃ゆ。中村の灯霞みてまばらなり。望郷の思い、思一瞬胸裡をかすむ。故郷はよき哉・・・されど訪うによしなし。

 

昭和161130

明日より下級生を持つこととなり柳か嬉しき感あるも立派なる上級生徒として振舞ふべく努力せん。

 

昭和1612月1日

73期入校式

 新入生徒を迎ふるは待ち焦れたることなれど、入り来るを見ればさしたる感なし。皆土臭く娑婆臭し。知らざるが故の事なるもいと愚気に思はる。対番も期待せしに反せり。余はよき二号たらまし。余が統率者としての修養を積むによき初めの日なり。豊橋に旋風ありたる由、被害如何ばかりなるものやありけむ、吾家の健在なりしは幸なりき。

 

昭和1612月年6日

過去1年間「婆婆気」なる語を以て幾度か注意或は達示を受けたり。第73期生徒を迎へ「婆婆気」とは何たるかを柳か実感せり。新入生徒には言語態度等の不馴れに依るもの以外に甚だ「ギコチ」なきものあり。則ち余は此を心構えの相違より来れるものなりと信ず。

吾人は心構えの如何によりて修養上の得失大なるものあるを知覚せざるべからず。余は先づ以て凡ゆる事に臨み直に応じ得る如き心構えの修得に努めん。

 

昭和1612月7日

日曜。10時より西田倶楽部に於いて四号会開催、和やかな裡に一日を送り得たり。小母さんに借りて「ギルド・モーパッサン」の「女の一生」を読みたり。芳枝先生に「あなたにはまだ早い・・・」と云はれしことありたるも心理描写に注目し、その意味を知り得たり。されどフランス人の心性を深く感ぜり。又人生の社会の一面を赤裸に示されたる如き感を受けたり。併して余は清くあらまし〃とこいねがうことや切なるものありき―何故に人は斯くももろきぞ。

 

昭和1612月8日

朝総員集合がありて監事長から「本未明より帝国は米英両国に対し交戦状態に入れり」との旨を達せられ、続いて生徒としての現在あるべき道を(さと)された。身体一杯心一杯がぢんと引き締まって、遂に来た・・・・・・と思った。

 「生徒の本分は常に不変である。唯此の際本朝の新なる決意を以て層一層努力、勉強せよ・・・」と落着け、落着け、そしてやるぞ、やるぞ。

其の内に帝国海軍航空隊が「ハワイ」 「グワム」 「フィリッピン」「シンガポール」 「ウユーキ」香港の奇襲爆撃に成功せりとの報がもたらされた。11時米英に対する宣戦の大詔が渙発(かんぱつ)せられた。

 

昭和161210

 「マレー」沖海戦。英の誇りし不沈戦艦沈む。「プリンス・オブ・ウェールス」又「レパルス」轟沈す。海軍航空隊の闘志を見よ。「グワム」「フィリッピン」に敵前上陸敢行。

 

昭和161219

銃剣術競技にて一人をも倒すことなく敗れたるは残念なり。闘志の欠乏は最も不可なり。肉体其の他、四囲の状況に左右さるるが如きは軍人として必要なる修養を欠くこと大なるが故なり。余は死生を超越し、肉体を完全に使駆し得る精神を錬成するに努めん。

 

昭和1612月年15

 肉体滅乏の瞬間何を考うべきや?

 

昭和161216

夢は夢だ。実現する夢は尊い。

 

昭和161225

死は易し 生は易し

生は難し 死は更に難し

 

昭和161231

今年も暮れて希望は燃える。冬休暇なんか無くなったつて何のその・・・。

 

昭和17年1月1日

今年は勉強努力と云うことに対して常に反省を怠らない様にしよう。訓練を通じて不撓(ふとう)不屈の精神を養はう。私も20才になった。余は死の目標を極めて身近に感ずる、此の短期間に如何なる修養を積むべきかに就きては大に考うるを要す。余の死をして最大の効果あらしむべく努力せん。

 

昭和171月4日

峰遥か我が故郷は あのあたり

  我がはらからは 如何あるらむ

 

昭和171月5日

余は本厳冬訓練期間を通じて肉体を完全に駆使し得る不撓不屈の精神の養成に全力を尽さんとす。難事を迎ふるに会心の笑を以て対し得るに至らば、目的を達成し得るに近からん。余は寒気を恐るる性なれば寒気には旺盛なる反発心を以て対せん。

 

昭和171月6日

余は無限なる余を信ず、愛とは?  十字架を負うとは?自ら死して他に・・・

昭和171月9日

珍らしく暖き朝、「オール」の光に夏よりも緑がかかりたる夜光虫美し。初日なれば猛訓練は行はざりき。夜、風強くなりぬ。されど暖かき風なり。柔道にて己の実力の低下せるに驚かされぬ。自己を酷使するに忍びざるの情些かたりともあるは極めて不可なり。

 

昭和17111

一生は向上の一日の反覆にして一日は亦人生の姿ならむ。一日の終を安眠に導く如く一生の終をば安眠に導かん哉。

 

昭和17114

武道は又もや張切る能はざりき。些細なる傷に全身の活動を阻まるるこそ口惜しけれ。

 

昭和17115

夕暮れに雪が降り出した。自習室の窓辺の電灯に映える粉雪は幼い頃の東京の街を懐しがらせる。

 

昭和17117

夜7時30分から「勝利の基礎」を見学。兵学校の剛健をよく捕らえ得た・・・と感じた。

 

昭和17123

武道有志練習、案外寒さを感ぜり。午後に至りて甚だ温き日とはなれり。課業整列5分前に於たる日射しは春酣の温もりを味はう感ありき。

 

昭和17年1月25

日曜。星澄み風無く霜しげき朝なり。よく眠り居たりと見えて起床「ラッパ」の「ラストサウンド」に驚かされぬ。随意体育は純白の霜の芝生に「バレー」をせり。手いと冷しと雖も心地よし。倶楽部宜候。芳枝先生よりの贈物は干菓子なりき。何とその懐かしかりき。皆と共に喜びを領ちぬ。暖き日、春3月の酣を思はしむ。昼内食は柳か腹一杯となれり。

午後は明日の航海実習の勉強、・明日は元気に実習せん。腹満ち心足りて暖きよき夜哉。故郷は父母如何に、同胞如何に、先生如何に・・・

 

昭和17年2月1日

雨の夜に 昔の家を 想う哉

  いっかな消えぬ 雨雫の音

 

昭和17年2月2日

 「ハーモニカ」欲しと思う日なり。埋れたる己が心のかなでたきなり

 

昭和17年2月16日

昨夜「シンガポール」陥落す。他民族を使うに際し考ふべき事如何。全滅を期して戦はば彼の大要塞も大なる価値を発揮すべかりしを。

 

昭和17年2月21日

夜、大講堂に於いて武藤大尉の大東亜戦争に関する講話を聞き海軍々人の荷へる責務並に兵学校生徒の本分を強く思はしめられたり。生徒の本分は平戦を間はず不変にして異ることあるなし。現下の大戦争は吾人の修学目標を明示し、勉強態度に対する絶好の指針なり。以て自発奮励し有為なる兵科将校たるべく努力せん。

 

昭和17年2月22日

日曜日 午後から分隊監事自見仁一少佐の官舎を2学年で訪問した。分隊監事の頃の昔の兵学校生活を面白く話して下さった。分隊監事は「人の弱点を衝くものでない・・・」とよく言はれるが、分隊監事が「クラス」第一の大男で、会う人毎に「あなたは体重何瓩ですか」と聞かれたのが嫌でたまらなくて、弘次達にもそう教えられるのださうだ。朝定時点検の時、巡航用の酒保請求用紙に御印を戴きに行くとき、「分隊監事」と云つてあとまだ何も云はないのに「ポケット」から御印を出して下さる分隊監事。こんなことを思い乍ら分隊監事の横顔をみつめているとその大きな御顔と御体がとても面白く、良寛様の感じに似た性質を持っておられる様に思はれる。遠洋航海の御話が済んで「トランプ」、将棋、和歌合せなどやった。「リーダー」は奥さん、とても面白い。海軍士官の奥さんはいいつて下士官の教員がうらやましがるのもむべなる哉・・と感じた。

 

昭和17年2月25日

父母は 如何に在すらむ たえてなき我が 音づれを 待ちおはすらむ

 

昭和17年3月8日

第3学年生徒乗艦実習の留守に際し吾人は、第1学年生徒に対する垂範窮行を以てせり。然れども努力足らずして良き模範たらざりしを憾む。上級生徒は其の行動に於いて下級生徒をして感奮せしむるものを持たざるべからず。言語態度に於いて行動力決断力に於いて下級生徒を啓蒙するものを有たぎるべからず。此れ将来兵科将校として部下指導の要諦ならむ、吾人は此の目標に対して精進せん。

 

昭和17年3月12日

芳枝先生より御手紙を頂いた。まるで弘次が特殊潜航艇に乗ると始めから決めている様な御手紙だった。

 

昭和17年3月22日

真に親を思い、家を思ふうこそ尽忠報国の大精神の基なるを確信す。忠孝一致とは私を超越せる大孝を致すに於いて遂げらる。吾人は既に父母の膝下を去りて唯大孝を致すべきあるのみ。鳴呼、思はざるべからず。

 兄より手紙来る。余の死を怖れいるもの如し。死豈に怖るに足らんや、何ぞ弟を惜む乎。

 

昭和17年3月24日

柔道場に於いて植芝老師の天心合気武道を見学し、長時間の演武にもかかはらず老師の呼吸が全然乱れないのはその修鎌の程が窺ほれて驚嘆した。そして武道は何であっても修錬法と技術とに柳か差異があるだけで其の奥義は武道たる所以に於いて何等変りたる所なしと感じた。

 

昭和17年3月26日

今日より3日間の学年巡航、江田島一周、「カッター」を帆走艇に備へて用意怠りなし。

早朝「ポンド」を出発、風無く汽艇に曳航され屋形石に至り、帆走を開始す。初めは疾しらざりしも次第に風を得、心地よき迄疾走す。航空戦隊に行き会ひたり。向風烈しく疾れども横圧大にして上り得ざるを以て呉より少し先にて曳航開始、凰愈強くガブルこと烈し。為に三九「カッター」の舷索切断、これが復旧の応急作業にて一寸緊張せり。各「カッター」の舵、波涛にて外れ艇長は苦労せり。

酔ひて艇底に就く者過半数なり。余は酔はず、大に自信を得たり。

夕日水平線に近き頃、鹿川着、阿多田の周囲に繋留す。夕食を終り→ポンド」に至りて就寝用意、星を眺めつ遅く迄語り明かしぬ。

 

昭和17年3月27日

5時30分起床 赤き雲のたゝずまひ面白し。昨夜の波は静まりて海隠かなり。曳航にて小黒神島に至り帆走開始。風無くあまり駛走せざりき。約四時間の帆走にて大竹海兵団着。水兵達の短艇競漕の最中なりて、桟橋に「カッター」を繋ぎ研究会場にて研究会を行う。帆走法に就きての各艇の相当の苦心をよく披歴せり。阿多田迄橈漕にて食事をしに行き(ボタ餅なりき皆の顔)又帰りて「ダビッド」の下に繋留。星を見つつ波を聞きつつ早く寝たり。

 

昭和17年3月28日

 5時20分過ぎに目を覚し、起きろ起きろで、一同瞬時に起床。直ちに艇内整頓。全艇阿多田に集結。朝食後、汽艇に曳航され本土と厳島の間を北上、睡気を催し宮島迄居眠りせり。青山と鳥居まばゆく目覚めたり。塗り替へたばかりの宮島の社殿と大鳥居は実に椅麓だ。聖崎より帆走を開始せるも殆ど無風にして艇進まず、遂に橈漕にて小郡沙美島迄至れり。

 爾後江田島迄汽艇に曳航。ここから「ポンド」迄2浬の橈漕競技。総員疲労し居れるも元気一杯先頭を争いて力漕せるは、矢張り吾等は兵学校生徒たりの誇を嬉しく感ぜり。

此の3日間の短艇巡航にて大に海に親しみ得、分隊員互に経歴を明し合ひて大に親密の度を加えたること、叉荒天の場合も自己の責務を思い精神的に元気旺盛ならば決して酔うことなしとの確信を固め得たることは好き収獲なりき。

博、上級学校合格の由これにて安心せり。

 

昭和17年3月29日

雨の日曜日。1日かかって佐藤亮義の「明るい人生」を読み、将校は凡ゆる点に於て部下を訓し得る広汎な常識を有すべきを知り得た。

 

昭和17年4月1日

戦時下「エイプリルフール」も何もなかった。

午後国語は万葉集の反歌をやった。古代精神の二つの大きな代表である柿本人麿の大君は神にしませは・・・の歌に表はれた天皇信仰と大伴家持の海行かは・・・の歌に表はれた実に透徹した国家観を感じ得た。

 

昭和17年4月6日

分隊点検を受けている最中、ふと自分達は常に何かの目標を持って、例へて小さく云へば座右の銘を持って間断なき反省と共に修養を発展せねばならぬのだと強く痛切に感じた。

 

昭和17年4月7日

精神科学の時間に時間に就いて学んだ。天地の其の中に動いて行く時間、昔と未来がある時間、斯うして字を書けば前に書かれた字は後に残る、時間・・・死と生がある時間、弘次が将来部下を持った時に部下が安らかに死ねる様に立派な死生観を与へる事が出来ねばならぬ信念が大切だ・・・と思った。死生観集を何十冊読むのより唯一つ己の信念があればよい。立派な信念を得る為の勉強は何事でも大切だ。

 

昭和17年4月10日

柔道技倆査定があった。腹痛の為充分実力が発揮出来なかったのが残念だ。一目的達成の為、身体の肉体的故障を克服して肉体を存分に使駆し得る強固なる精神力を更に滴養すべく努力せねばならぬ。

 

昭和17年4月14日

教官の講義にて理解し得ざる所ある場合及び教科書にて難解なる所ある場合等、自己にて解決せんとして能はざる時にも教官に質問するを躊躇する傾向を有するは不可なり。勉学の能率を良くせん為には或程度頻繁に質問すべきなりと感ず。

 

昭和17年4月19日

期末考査に臨むに一として自信を持ちて対し得ざるは口惜し。人間万事に精通するは望むべきことなれども、此は至難にして凡庸のよくする所に非ず。故に吾人は何事にても何か他人に秀れたる所を己に発見し之が助長に勉めざるべからず。

 

昭和17年4月29日

天長節。ひねもす御殿山に在りて尺八を習い天を仰ぎて国を思う。

 

昭和17年4月30日

靖国神社春季大祭。遥拝式を終って分隊逆番号順序に名牌参拝。9時外出許可。中西、飯野、石井、市瀬と共に津久茂方面に遠足す。湾口を外より望みて甚だ心地よし。尺八を習う。漁師の子供に菓子をやりたり。いと喜びたることよ。帰途会ひたる子等に菓子をやる。子供はよき哉。暇あらは子等と遊び度き気持にて一杯なり。

 

昭和17年5月1日

部の移動訓育にて小郡沙美島に赴く、5水雷艇に曳航されたカッターはもりもり揺れて気持ちがよい。午前は地引網、小魚ばかりで癪だった。

 オコゼが真赤な顔と体で怒っていたのでおかしかつた。午後は相撲、砂に足がめり込んで勝負予測を許さず非常に面白かつた。弘次は澤本倫生とやって負けた。

 凱旋して小郡沙美島に休養中の軍属一人、崖の上で居眠りをしてゐて海中に転落溺死した。未だ故郷に帰らぬのに何たる悲しみぞ、監督者たる若き少尉の心如何。

 

昭和17年5月2日

棒倒しにて一部に負ける。棒倒しは戦闘なり。絶対に負けるべからず。士気揚れるは勝ち、沈滞せば必ず負ける。有志練習を行う。終りて短艇練習、次に2学年対1学年、3学年対1学年、3学年対2学年にて野球試合を行いたり。2学年が全部「ドロンゲーム」にて優勝す。

 

昭和17年5月4日

 夜 期指導官、伊藤少佐、川内砲術長に補せられ5日退庁せらるるを以て参考館に於て別辞ありたり。忠孝を充分得心の行く迄訓されたり。「公務の暇あらは親を慰めよ、折あらは兄弟と睦まじく過せ・・・」との訓に思はず落涙せり。そして戦場に臨むには唯死を期すること、即ち死に徹底すべきあるのみなるを感ぜり。

 

昭和17年5月10日

 川尻倶楽部にて「アンドレ・モローア」著「フランス敗れたり」を読み、欧洲国民性を各国政治家を通して窺ひ得たり。生を求めて流転しつずける世相に、生を擲って精神の高きを求める者無き欧洲を悲しく思いたり。生を捨て得て高きを追求し得ざるは怯者なり、懦者なり。

短艇週間の第1週を送り吾人は更に更に努力を要すべきなるを痛感す。戦は勝つに在り。兵学校の競技は勝つに在り。吾人は今次の競技に全力を傾注し、必勝の信念を獲得せんと欲す。心ゆく迄猛訓練を行い、然して生徒館第一等とならば自信の信念を得るに難からざるべし。

 

昭和17年5月14日

故郷よりの手紙に思いを凝す。中西達二と市瀬文人とを諷刺して次の歌を示す。

屋代島を望みて

 若き日を共に語れる童なり

    我が思ふこと言はで知れらむ

文人申さく

 山峡の河原悲しき想ひ哉

   幼な馴染の童何処に

中西の「スマイル」の写真はあまりにも有名になった

昭和17年5月17日

15日に行ほれた2、3「クルー」の第一次競技は3「クルー」はラスト、2「クルー」は第2着、1着との差僅かに0.5秒。3「クルー」の石にかぢりついても競技には勝たねはならぬのだと云ふ心構えの乏しきと、一方2「クルー」の精神力の偉大さとを感ぜしめられたり。16日の1「クルー」の第1次競技には1着となれり、嬉しかりき。

 此の日、第4分隊第2学年生徒(第72期)田村誠治は4部の予選にて第1着となり「ゴール」に入りて櫂立てを為したる後斃れ遂にまた帰らず。兵学校の全生徒に大なる感銘を与へて死せり。

 

昭和17年5月22

 宮島遠滑の日。表桟橋沖の出発点より逐次一隻ずつ出発、湾口迄に数隻を追抜き爾後、精根一杯の苦闘を続け更に10数隻の「カッター」を追抜けり。安渡島を幻の如く見て通過、力漕又力漕、今にして恩へは肉体と精神とは分離しありしなり。兵学校訓練の精華、精神の完全なる肉体統御を初めて体験したるなり。優勝を確信し漕ぎに漕ぐ。真に一生懸命の心境にて決勝点聖崎に入る。力漕八浬、心は唯張りつめて一として後悔なし。最善を尽くし得たるなり。水雷艇曳航にて宮島に上る。体操、休憩、其の内に本競技の成績発表さる。見よ! ああ! 21分隊14位。優勝を確信して漕ぎ居りいも14着なりしなり、上には上あり・・・

 兵学校に於いて第1等となることの難さと更に更に猛烈なる修鎌の必要とを、驚愕に近き反省の「ショック」と共に訓えられたり。遠漕には敗れたり。然れども我が必勝の信念を挫くこと能はず。次に来るものにて必ずや優勝せん。

 

昭和17年5月23

去る17日の短艇競技にて敢闘、遂に勝利と共に昇天せる、田村誠治の海軍葬儀の日。田村生徒の死を顧み、斃れて後止むの精神を深く感ぜしめられたり。彼の此の精神を永遠に継ぎて生かさんと強く決心す。

彼の死は彼の精神を表して余りあり。死の前の肉体的苦痛に克ちて競技に出場せる精神力の偉大さに打たれざるべからず。人の死に臨むとき最後の態度は実に其の人の平生の精神を表はすものなりと確信す。吾人は深く思ひを此処に致し日常の修養努力を怠ることなからん。

 

昭和17年5月25

今日は並んだ隣の戦友中西達二の誕生日、達二の御誕生日に弘次より

達二 御誕生おめでとう 達二が何時も朗かで楽しい人であります様に・・・と次の言葉を御贈りします。

『四方より患難を受くれども窮せず、為ん方尽くれども希望を失はず』

達二 何時迄も御機嫌よう

又アドヴァィスとして

達二よ 若き想ひに惑うこと勿れ〃去る者は日々に疎し・・・と汝も亦其の例に洩るる能はず、真実は美しからず、幻想又然り、煩悩に苦しむ勿れ!過去に拘泥すること勿れ、世の大流れに逆らふこと能はざれはなり

 夜は音楽会、達二が、『俺の誕生日を祝して』と勝手に決めて喜んでいる。今日のは軍歌調の賑かなものばかり。楽屋裏で森の水車〃をやるときのせせらぎの音  甲板ブラシで太鼓をこする  を、のぞいて面白かつた。

 

昭和17年5月27

 海軍記念日。朝大講堂で式を終つてから観艇式が行はれた。閲艇式、列艇式とも威風堂々立派に出来た。昼は教官生徒会食、午後は翔鶴艦長の講話を伺ひ、先輩の大なる犠牲的精神と尽忠の念の偉大なのに感激した。殊に『帰らぬ偵察機』の話には思はず暗涙を催した。兵学校生徒は此の生徒館生活に於いて如何なる執着をも断ち得る強固な精神力を鍛錬せねはならぬ。これが為には些細な事柄でも面倒がらずに必ず完全にやり通す習慣を作りこれを修養の第一階段としよう。

 

昭和17年5月28

陸戦訓練は古鷹山射撃場に於いて射撃練習。射座に就いて標的に対する時、昨年に較べて精神冷静なのが我乍らはっきりと感ぜられる。兵学校1年の飯って尊いものだと思った。

 

昭和17年5月29

夕べ月こそ美しけれ。遥かなる人を偲ぶとは斯くの如き月に向ひてや云ふらむ。

 

昭和17年6月2日

精神科学にて宗教に就き学びたれども胸打たれざりき。されど千葉先生に今少し宗教に就き学び置きたれは・・・と反省せしめられたり。然して又神道と宗教との差異及び真に強き軍人たらんには宗教より来れる確固たる信念を有せざるべからざるを知れり。

 

昭和17年6月5日

射撃訓練にて照門に輝く光線に対する修正を加味したるに零点を取れり。生兵法の不可なるを感ず。

 

昭和17年6月6日

総員訓練終了後 分隊巡航、4時30 11汽艇にて小郡沙美島に向け江田内出港。偶数員は「カッター」にて被曳航、途中で汽艇は設営作業の為に先発、「カッター」は帆走開始。小郡沙美の一番大きな家で分隊会開催、酒保の多かつたこと。又烹炊係生徒の奮闘に依る汁粉の美味しかつたこと・・・分隊監事の浪花節の面白可笑しかつたこと・・・石井、市瀬の連吟のよかつたこと・・・夜の小郡沙美の感触のよかつたこと……

 但し3号の大塚が揚陸時、食器を海中に落し拾ふのに3米の海底にくぐつて園田生徒が大活躍された。

 午前10時頃出港。2号が機関員で缶室に入った。操作は平チヤラとばかりに主機関だけに気を配っていたら海水「ポンプ」を焼損しそこなひ、機関兵の叫びに吃驚した。12時入港、倶楽部宜候で休養す。

 

昭和17年6月8日

 堅忍不抜の精神を養う


注 

 海軍兵学校在校中の日記は17年6月8日で残念ながら中段している。

 しかし、1511月の合格発表から約19ケ月間のわれわれの共通の歴史を見事に再現してくれている。

(なにわ会ニュース37号44頁 昭和52年9月掲載)

TOPへ   日記目次   海軍兵学校目次-