TOPへ  歴史

支那事変から真珠湾攻撃までの海軍兵学校

地中海コース,アメリカコース,濠州コース,時に世界一周コースもあった正規の遠洋航海は、支那事変によって、64期が最後となった。昭和12323日卒業の64160名は,八雲,磐手に乗り組んで,内地,朝鮮,満州を3か月間巡航した後,67日横須賀を後に地中海コース遠洋航海の途に上った。77日華北の盧溝橋に端を発した支那事変の戦火は華中にまで波及して,89日第2次上海事変が発生,緊追した情勢になった。このため,最後の内南洋寄港を取り止めて,予定より2週問早く横須賀に帰港した。

 

 昭和133月卒業の65期は内地航海半か月,遠洋航海3か月に短縮されて,台湾,中国、シヤムまで航海しただけで第1期候補生を終り,111日付で海軍少尉に任官した。次の66期は昭和143月卒業の予定であったが,昭和135月になってから同年9月卒業に繰上げることに決まった。このため,5月以後早朝授業,夜間授業,白習時問の授業転用,夏期休暇半減等の非常措置による速成教育が実施され,927日にあわただしく卒業した。遠洋航海もフイリピン,内南洋方面で翌141月下旬横須賀に帰港した。

 

 67期と68期は最初から在校期間が短縮されて,1学年8か月,2学年,3学年各1か年,4学年8か月,34か月となつた。昭和14725日卒業した248名の67期はハワイヘの遠洋航海を行ったが,1587日卒業の68期は,新らしく練習艦隊用として設計建造された香取,鹿島に乗艦,近海巡航を終わって横須賀に入港すると「遠洋航海取り止め,少尉候補生は拝謁の後霞ケ浦航空隊に配属」の命令に接した。

 

 昭和13918日には江田島移転50週年記念式が挙行されたが,この頃から戦時体制が進み,外国語教育が次第に軽視されるようになって,同年末には外人の英語教師が姿を消し,昭和15121日入校の72期からは独,,,露語の授業が廃止された。

 

 70期は69期入校と同じ年の昭和13121日に入校した。同じ年度に2つのクラスが入校したのは,明治29年の26,27期と明治31年の28期、29期のほかは、この69期と70期だけである。455名の入校によって,在校生徒が41,300余名になり,436個分隊に編成された。

 

 69期からは在校期間が3か年となり,また,従来の練習艦隊が廃止された。昭和16325日卒業した69343名は,山城,那智,羽黒,北上,木曽で臨時に編成された「実務練習艦隊」に分乗して,各海域で実戦訓練を受けた後,艦船部隊,航空部隊等の実施部隊に配属された。

 

 昭和1612月下旬卒業の予定であった70期は,卒業式が1115日に急に繰上げられて,直ちに全員艦船部隊配属を命ぜられた。江田内から榛名で桂島沖に行き,聯合艦隊各艦に配乗した者が多いが,広島から特別急行列車で横須賀に行き,出撃直前の艦に深夜着任した者や,金華山沖で洋上移乗の離れ業を演じた者もあった。(榛名から霧島に移乗) 

TOPへ  歴史