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なにわ会創始期の名幹事

澤本 倫生

我が『なにわ会』は団結の固い親和で有名な海軍のクラス会の中でも、「兵」、「機」、「経」三校の連合である点は、異色の存在として認められ、吾々も誇に思って居るものである。

今回幹事の努力によって、会誌123号が復刻再発行された御蔭で、昭和二七年秋の靖国神社慰霊クラス会での想い出、感激が鮮烈に蘇って来た。終戦後のモヤモヤしたものを、一気にあの慰霊祭にぶっつけた意気込みが紙面に踊って居る。それにつけても、此処まで来るには、実に多くの名幹事の涙ぐましい努力が貢献している事を 

この際想い出し、感謝を込めて纏めて見た。

 

一、名 簿

終戦直後、まだ軍令部の残務整理をやって居た時、卒業時の名簿と戦時中の公報によるクラス・メンバーの消息を基に、住所、氏名、家族、戦歴等を記入して貰うよう、タイプ印刷を全員に郵送したが、返事は三分の一も返って来なかった。中には「これから、どうなるか判らぬから、暫く住所は秘密にしておきたい。当分こんな連絡をしてくれるな〃」と云う返事すらあった。

昭和二三年だったか、樋口と渋谷の店「珍トン シヤン・豚・美人」 で会い、「こんな不完全な名簿だが、これを基に纏めてくれないか?」と頼んだ。当時公的には吾々の集会は禁止されていられ、局所的名簿は出来つつあったようだが、復刻された会誌の記事によると、クラス全員についてのものは、昭和二七年に配付されたものが第一号のようである。

会誌第一号の樋口の投稿『二つの世界』にも名簿のことが書いてある通り、殆ど零から資料集めをしたようなものであった。大谷の記憶では水野行夫が樋口 直を大いに援けたと言う。初め不備だった名簿も、各員の協力で次第に完全なものになって行ったが、ここで忘れてならないのは、大谷の努力である。昭和四三年ポケット版の名簿を作り、勤務先やら、住所やら、いろいろに区分してくれたことは諸君も覚えていると思うが、生存者はもとより、戦死者御遺族で消息不明のものを徹底的に調べ、殆ど解明してくれた。その時の唯一の消息不明生存者酒井博がヒョッコリ伊勢佐木町の加藤の店に昭和四四年顔を出し、全生存者の情報が揃った。

会誌第三号に『連絡不能者名簿』として三三遺族の御名が載っているが、昭和四三年名簿では五遺族に減っている。その後不明遺族は三谷吉甫(妹) のみだと言う。本籍地、出身校、友人等をたどっていろいろ調べてくれたのである。大谷が転勤となってから今日まで、名簿幹事をずっとやってくれているのが市瀬文人である(以来既に十二年)。三年毎に内容を更新して、定期的に発行してくれ、

その中間では『なにわ会ニュース』 に訂正をいれてくれていることは、諸兄御存知の通りである。

不正確な名簿では意味がない、このため幹事は大変な苦労をしているのである。御遺族も、クラスの者も、自分は勿論他の人の移動や記事の間違に気がついたら、必ず名簿幹事に連絡して下さい。又高齢になられた御両親の近くに居られる御兄弟姉妹の方々にも御願いします。どうか御両親に代って必要な御連絡をして下さい。

 

二、会 誌

会誌第一号の松元の記事『発起より結実まで』には、「会誌はとても時期的に間にあわないので、将来の作業とし、今回はガリ版刷の名簿だけにする予定であったが、泉兄の努力で、意外に早く発行できるところ迄進んだ」とある。当時泉五郎は長男和光君が誕生した頃で、家も多忙、事業もまだ安定不十分の時期であったと思うが、慰霊祭に出席出来ぬ御遺族に、クラス会の便りを御伝えしたい一心で奮起してくれたものと思う。江古田の借間で、生れたばかりの乳飲児を抱え、一方で大きな野望に燃えて猛勉強中なのに、会誌編集に努める五郎チャンを見て、大いに手伝いをしたのが大谷である。これにより、戦後七年にして、期友と御遺族の意志疎通の道が拓け『なにわ会』発展の大きな絆が出来た。三号迄続いた会誌も、編集者の転勤や交替、原稿の集まり不良等で一時中断の形となった。会誌の再発行に立ち上ったのは、熱血漢加藤孝二である。昭和三八年彼は『バイパス・ニュース』 の発行を宣言した。「三号停止で

は意味がない」との意見に対し、「俺は絶対継続してみせる」と言い切った。創刊号が昭和三九年二月一日に発行された。タブロイド版四頁のもので、現在の 『ニュース』 に較べると体裁は貧弱であるが、紙面には加藤の意気込みが躍動している。

二号以降は現在の体裁に近いものに改められた。編集の責任を押本に引き継ぐ迄の十年間、一度の遅れもなく、年三回の発行をやり抜いてくれたのには頭が下る。然し加藤のこの熱意を支え、陰になって協力してくれた品川弘(故人)、眞鍋正人、前記押本等にも大いに感謝する次第である。

『バイパス・ニュース』は、七号から「機」「経」が合流し、十六号から『なにわ会ニュース』と変更され、名実共にクラス会の正式の機関誌となったのである。五郎チャンの投げた一石は加藤の情熱に受け継がれ、押本に引き継がれ、『ニュース』も早五五号まで回を重ねた。

五郎チャンの三部を加えれば、来年には通算六〇号ができることになる。

此処で、吾々からも御願いするのは、御遺族を含めて、『なにわ会』全員から投稿して貰いたいことである。『ニュース』 の中で、加藤が何回も『ニュースを送れ〃』と書いているように、原稿が集まらねば編集の仕様もないし、熱意も薄れて来る。「最近記事が偏向している」との声もあるが、各員が投稿してくれれば自然とそれは直る。御遺族のオジィチャン、オバァチャンの御孫さんによる便りだとか、地方々々の名物や面白い行事のことやら、ネタは幾らでもある筈である。無精をせずに、編集幹事に送って下さい。

 

三、クラス会幹事

終戦直后から、ズーツと会の中心になってくれたのは勿論樋口であるが、初期に於いて我々の集合場所を提供し、会計幹事をやってくれたのは渋谷信也である。『クラス会幹事持回り制』になってからも、初めのうちは会場に料理を入れてくれていた。

前記名簿と会誌の幹事、この樋口・渋谷の常任幹事の他に、ゴルフ幹事を引き受け、長くクラス懇親に協力してくれている泉五郎の名もここに残さねばならない。泉は「クラス会の永続の為には、各種会合を定期的にやった方が良い」と主張し、それ以来『略全員が最終位(大尉) に進級した六月一日』に一番近い日曜日に、靖国神社参拝クラス会を『兵学校入校の日、十二月一日』 に近い第一金曜日に忘年クラス会を、卒業(九月十五日)と少尉任官の日(三月十五日) にゴルフ会をすると言う今のクラス会の基本形式ができたのである。

年二回のゴルフ会 (ケップガンクラブ)も、この秋で四〇回目となる。

昭和四三年のクラス会幹事連中の集まりで、「樋口と渋谷に会合の世話を何時迄もやって貰っては済まない。又幹事をやることで、幹事の苦労も判り、クラス会との連帯も深まる。更に幹事が変われば、クラス会の雰囲気も変って良いのではないかけ」と大谷と私とで提案し、『クラス会幹事持回り制』が始まった。

大谷は「言い出しベエだから、初代幹事は沢本と俺でやろう」と言い、私には「貴様は名前だけで良い。細かいことは俺がやる」と言って、殆ど一人で準備を進めてくれた。勿論何人ものクラスの者が陰に日向に協力してくれた。翌年、樋口が「初回の持回り幹事はうまくやった。然し、一番艦より二番艦、三番艦の方がむつかしい。二代目、三代目の幹事しっかりやってくれ」と言った。その後の運営は諸兄御存知の通り、流石ネービーである。

二番艦山根・足立(英)、三番艦名村・市瀬は勿論、毎年名幹事が実に良くやってくれている。此の中で五二年と、五八年とに富士(故人)・相沢のコンビだけが二回やってくれたが、御存知『江田島クラス会』 の為である。

毎年の幹事諸兄には本当に感謝の気持で一杯であるが、まだ幹事をやっていない方もかなり居る。是非積極的に幹事を引き受けて、亡き級友に報いて頂きたい。(6177) 

 以 上

(後記)

此処に名を出さなかった方々でも、クラス会のため、大変協力して下さった人も多数居る。特に「機」や「経」の幹事の事は書きたかったが、余りに長くなるので割愛した。コレスの人達、夫々何か書いて下さい。又碁の幹事、地方幹事も何か投稿して下さい。

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