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昭和44年2月寄稿

なにわ会の由来に関する考察

押本 直正

 

 兵学校七十二期、機関学校五十三期、経理学校三十三期の連合クラス会を「なにわ会」と呼称する。これは諸賢先刻ご承知のとおりである。

ところが、この「なにわ会」発祥の由来、すなわち、何時、何処で、誰が、何の理由によってこの会を発足させ、この名称を冠したかとなると、極めて曖昧で定説がなく、神話めいてくるのである。

 

 現代歴史学者には、神話を否定する傾向が見受けられる。曰く、科学性がない。曰く、時の権力者の捏造(ねつぞう)したもので、政治に利用される道具に過ぎないと。なにもこの現代歴史学者の傾向におもねったわけではないが、この歴史的事実を解明しようではないかという集会が、四十四年八月二十七日持たれた。

 

 「歴史的事実の解明」とか「集会が持たれた」などの表現を用いると、今流行の反帝学生か造反教師の不穏な行動を思わせるが、なんのことはない。

 

 足立英夫、樋口 直、高杉敏夫、押本直正が銀座四丁目の渋谷信也の店、梅林に集って、同店特製のヒレカツとカツサンドを餌に、ビールを五本飲んだというだけのことである。

 

さて、本論に戻るとしよう。この日の物的証拠として、足立英夫狂授(学者の集会であるからには、カッコよくこう呼ぼう。狂授ほ教授の上の位である)から提出された文献はつぎのとおり。

@ なには会名簿(昭和20年8月)

A 同右追加其六(同時代と推定)

B なには会名簿(地方別)(21年7月)

C 同 会名 簿(2111月3日)

 

 「なには、難波、浪速という語感から推測して、昭和2223年頃、大阪における七十二期クラス会に由来すべし。」という澤本倫生狂授(当日欠席)などの学説は、@Bの二十年八月作成にかかわる「なには会名簿」の実在によって、まず科学的実証的論拠を失ったわけである。(ただし、二十年八月の「なには会」と大阪に発生した「なには会」とは、別個のものであって、名称だけが偶然に一致したという学説を固執する学者も一部にいる。)

 

 さて、問題の@Aの名簿であるが、これはガリ刷、六頁(うち追加分二貢)で、掲載人数は五十七名(うち追加分二十名)で、氏名、本籍、現住所、家の職業を付した簡単なものである。ところで、このガリ版を切った男は、当日出席の高杉敏夫狂授であったことは、本人の報告により明白となった。すなわち「俺は終戦当日の八月十五日、三十三潜水隊の主計長職務執行として、大竹港にいた。八月下旬、呉軍港に移動したが、この印刷物は呉において作ったものであろう。二十年八月下旬ともなれば、そろそろ復員ということも考えていた頃であるから、別れ別れになる前に、大竹・呉方面にいたクラスの名簿を作ろうということだったろう。」

ところがかんじんの「なには会」という名称を、誰がつけたのか、この名簿を作ろうと発案したのは誰かということになると、同狂授はその専攻と研究の範囲を逸脱するという理由で、明確な発言を留保されたのである。

(ワカリヤスクイウト、ワスレタノデアル)

 

 たまたま、この名簿には○と◎印が付されている。○印をつけられたのは、右近恒二、川島 清、渡辺 望、堀剣二郎、鬼山 隆三の五名で、◎印が付けてあるのは、田中宏謨だけである。どうもこのマークは、幹事の印であろう。◎の田中にきけば判然するであろうというのが、当夜の狂授会の結論であった。

 

そこで早速、翌日の昼休み時間に、大谷友之狂授(二十七日の狂授会は欠席)と共に、田中宏謨狂祖(教祖の上の位である)を人形町のご本堂に訪れた。大和田のうな丼をご馳走になりながら聞いた田中狂祖のご託宣は概ねつぎのとおりである。

 

 「当時、吾輩はイ五八潜(原爆を搭載したインディアナポリスを轟沈せしめた栄光の潜水艦航海長)として、八月十七日平生に帰投、十八日呉に回航した。余談であるが、同日、平生基地において自決した橋口寛は、八月二十三日、イ五八潜に搭乗して出撃する予定であった。呉には潜水艦乗り、駆逐艦乗りがたむろしていた。何時、何処に集って、誰の発案で名簿を作ったかは記憶にないが、誰いうとなく四号生徒時代の期指導官原田耕作中佐が、期訓育のとき、教育参考館で訓話されたこと、即ち某生徒は家郷通信の中で、「私のクラスは七十二期です。七と二を足すと九になります。私はなにくそ(七二九)と思って頑張ります〃とあったことに関連して、七二波(なには、波は海と関連)「なには会」と名づけたものであろう。吾輩に◎がついているのは、武勲赫々たるイ五八潜の栄光を讃える意味もあったのであろう。)

 

 なお、この間の詳しい事情及び、二十年の暮か、二十一年の始めに佐藤秀一によって東京において作られたであろうクラス会名簿(この名簿は現時点においては発見されていないが、田中狂祖がCICとかいうアメリカ諜報機関にうるさく追及される原困になったという因縁あるものである由)に関しては、狂祖ご自身が次号会報に発表することになっているので、乞ご期待。

 

以上各狂授の学説ならびに、諸種の考古学的文献を綜合整理し、さらにエドガー・ランポ以上のアテヅッポウを加えて、光栄あるわがなにわ会に振出せんとする標記なにわ会の由来に関する考古学的考察〃なる学位論文の結論はつぎのとおりである。

 

「なにわ会なる名称は、何糞クラスという信念を底流にふまえ、終戦直後呉にたむろせる主として潜水艦乗りの面々によって命名され、その後きびしき米軍当局の通信検閲を避くる便法として、漸次一般化せるものの如し。なお、当初は七二波会なる字を当てたるも、最近に至って機関科、主計科のコレスポンドも合流したれば、むしろなにわ(七二和)会の字を当てるを、適当とすべし」

 

編集部追記

右の学位論文に対し、異論ある者は、向う一年以内に、なにわ会報紙上に、その所説を発表すべし。


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