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昭和27年11月寄稿

第一回 慰霊祭の祭文

樋口  直

 顧みれば、昭和十五年十二月一日、日本全国より六百五十余名の若人が一堂に集い、共に江田島海軍兵学校の門を潜って、ここに第七十二期生として誕生したのが、我々級友としての断金の交友の始まりでありました。

 その前日までは、北に北海道から南は沖縄・台湾の涯まで、互に顔も知らす、名も知らす、その存在すら考えてみた事もない我々が、一夜明けたこの日「生れた時と所を異にするとも死所は共に」と誓い合う盟友として瀬戸内の一島に結ばれたのも奇しき因縁と申すべく、また、天意の広遠な働きでもあったのであります。

 じ来三星霜、食事も学習も訓練も入浴も、一日二十四時間、起居行動を共にし、切磋琢磨を重ね、将来国家の幹城としての訓練を受けている時、あたかも昭和十六年十二月八日、突如として今次大東亜戦争が勃発致しました。

 当時、我々は二号生徒であり、未だ学半ばの為、この国家の危急に馳せ参ずる事が出来ず、遥かに太平洋の空を睨んで切歯扼腕(やくわん)したものでありました。

 昭和十八年九月十五日、恰もガダルカールが失陥し、ミッドウェーに、南太平洋に戦局も漸く我に不利を告げる時、我々七十二期もまた、学成って兵学校を卒業し、「この態勢を挽回する原動力は我々の手で」と眦決(しけつ)して、或は艦船部隊へ、或は航空部隊へ、はたまた、陸上部隊へと戦闘の第一線へ飛立ったのであります。

 思えは、この時の卒業生六二五名が総員一堂に会したのは、第一線部隊配属の直前、陛下に拝謁の為皇居に参内した時が最後でありました。

 我々七十二期が参戦した期間は、じ来僅かに二年に足らず、この間、日々戦局は悪化し、我軍の被害は幾何級数的に増大の一途を辿って行ったにかかわらず、皆よく、旺盛なる士気と冷静沈着なる判断とにより戦局挽回に努め、或は全世界を震駭(しんがい)せしめた特別攻撃隊の偉業を成し遂げ、或は絶海の孤島に知る人もなく、黙々として任務を果し、各々神州不滅を信じて遥久の大義に殉せられた級友は、総員の過半数に及びました。

 かくして、昭和二十年八月十五日、戦争の終幕を閉じる迄の間に、戦没者は三二九名、を数え、さらに戦後三名の自決者及び三名の公死者を出し、「死所は共に」誓い合った級友は、三三五名の英霊と、二九〇名の生存者と、ここに幽明境を異にする事となったのであります。

 時まさに昭和二十七年十月十二日、菊薫る佳日を卜し、在人の英霊としての諸兄と生存者としての我々と、再び一堂に会する事となりました。

 終戦以来既に七星霜を送り、その問、今日まで、このような機会を持ち得なかった不甲斐無さを深く慙愧すると共に、改めて諸兄の志を継ぎ、諸兄の信念である「神州不滅」 の途を講ずる為に、戦後生存者一同の辿った経過と現状を謹んで御報告致すもものであります。

 事、志と異なり、太平洋戦争においては一敗地に塗(まみ)れたとは言え、我々二九〇名が生きている限り必ずやこの日本をして再び昔日の隆昌と発展に導こうとの信念のもとに、復員後上級学校に進学した者は八二名、他は直ちに実社会へと突入し、あらゆる産業に従事して日本再建の為に微力を尽して奮闘中であります。

 第二次世界大戦終了の後といえども、世界平和は遥かに雲の彼方の存在として、又々各国とも軍備に狂奔し、我日本も一旦放棄した軍備を再編成する機運に乗って、保安隊の名をかりて再武装の一途をたどりつつあります。

 目前の情勢は「嵐にそよぐ芦」にも似て、右に靡き、左に流れる変転極り無い世相の中にあって、変らぬものは我々の心楔と我々の信念であることを我々は確信して居ります。

 未だその志業共に世に顕れるに至らず、業績に見るべきものが無いとは言え、

「在天の英霊も御照覧あれ!

必ず我々の手で諸兄の志を生かし、これを成し遂げるでありましょう」今、生存者一同相集まり諸兄の前で、その信念と覚悟を披瀝するものであります。

希わくわ、諸君の魂魄(こんはく)、永く此の世に留まって我々の行方を導かれん事を。

昭和二十七年十月十二日

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