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平成13年9月寄稿

残して置きたい話

押本 直正

一 東京空襲の翌日の霞ヶ浦上空

 東京空襲が頻繁になったのは昭和二十年二月、硫黄島が米軍に占領されてからだが、特に有名なのは三月九日から十日にかけての大空襲である。その後、東京は連日の空襲で空襲警報の出ない日の方が少なかったのではあるまいか。

東京に空襲があった翌日、飛行訓練で霞ケ浦上空を飛ぶと、昨夜の火事の煙で焦げ臭い匂いが立込めていたもんだ。家や家財の焼けた煙に交って、人間の死臭もあったに違いない。

そんな経験を持った人も少ないと思うので、書き残して見た。

そのうち、「東京空襲を記録する会」にでも、知らせて置きたいと思っている。

 

二 日本の焼け跡 奇麗ですね

昭和二十年の暮、佐世保線の車中で隣に座った朝鮮人が、私に聞こえよがしに言った言葉である。それから朝鮮人が嫌いになった。昨日まで同胞として一視同仁視されていた朝鮮人が、手のひらを返すような言動を見せ始めた。今でも朝鮮人が嫌いな原因は、この一言からである。

最近、韓国の日本に対する内政干渉は目に余る物かある。日本の教科書について、歴史認識がどうの、こうのと言う発言が有るか、これに対して日本の政治家や外交官の熊度が腰抜けで情無い。どうして毅然たる態度がとれないのだろうか?

 朝鮮の教科書にはどう書いてあるか、調べて公表して然るべきである。

 

三 日本語の通じない宮古島の古老

昭和二十一年四月、海防艦竹生の航海良で、宮古島周辺の日本海軍敷設の繋維機雷掃海に行った事がある。上陸して老人に話し掛けても、標準語か通用しないのである。若い人の通訳が必要であったとは、不思議である。

新円として十円紙幣に証紙を張る時代だったが、証紙を張った紙幣は通用しなかった。

今ではラジオ、テレビの普及で全国津々浦々に日本語か通じるが、方言が聞けなくなったのは、むしろ寂しい事である。

 

四 鞍馬を知らなかった体操選手

ロスアンゼルスのオリンピックに出場した日本選手は「鞍馬」と言う体操器具を初めて見たそうだ。当時の選手だった近藤 天氏から横須賀の海軍砲術学校で聞いた話である。

近藤氏は戦後日本体操協会の会長を勤めた人だが、戦争中は招集されて砲術学校で体操の教員をしていた。昭和十九年十一月、私が横砲で体操の講習を受けた時、直接彼から聞いた話。

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