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「なにわ会ニュース第100号」と聞いて

後藤英一郎 

 全く感無量である。クラスが兵学校を卒業してから65年を経過しているわけだが、なにわ会がしっかりと纏まっていることは、我々会員にとって真に有り難いことである。戦争によって多くの戦死者を出したばかりか、残った者も戦後の激動期には、誰もが大きな環境の変化に見舞われた。全国に散った会員とて同様であったが、これらの経過を見て、なにわ会について色々と面倒を見てくれた樋口 直 大兄はじめ、多くの幹事諸兄の御苦労には一方ならぬものがあったと思う。また、この間の事を詳細「なにわ会ニュース」として報告してくれた会員諸兄にも厚く御礼を申し上げたい。

 

 小生がなにわ会ニュースに貢献したスペースは極めて小さいが、思い出すままに二、三述べたいと思う。

 なにわ会の中で、小生が係わった事の中で忘れられない思い出は二つある。

 その一つは、数人のクラス会員で、スケッチ旅行会を楽しんだ事と、各自の作品を持ち寄って東京の画廊で絵画展覧会を続けてきた事である。

その二つは、東京の西武新宿駅近くの碁会所で続けた「クラス囲碁会」である。従って、この二つについて、思い出を辿ってみることにする。

 

 スケッチ旅行の第1回は1992年、平成45月で、山梨県の道志村への小旅行であった。それ以降、毎年のように実行した。計画は斎藤義衛(機)で、彼は長野の出身で、長野県、山梨県の風光明媚な場所に詳しく、計画立案に優れているので、スケッチ場所、宿舎等は彼に一任、また、メンバーの一人の平野律郎が航空隊司令の腕前で車を運転してくれるので、若松と小生は安心して同乗させてもらえるわけだ。良さそうな場所を見つけると、一斉に車から降り散らばって画(えが)き始めることになる。どこもスケッチに快適な所ばかりで、再び訪れてみたいと思うぐらいだ。宿舎も贅沢ではないが、感じの良い家ばかりで、田舎風呂に入り、皆で一杯やりながらクラス会となる。何とも楽しい一時である。

 

 スケッチ旅行は、毎年のように行った。行った所は、信州森村、杏の里、寸又峡、日本平、妙義山、勝浦、甲州、桃の里、潮来、安曇野、竜王峡、御代田、小淵沢、小諸、別所、芦ノ湖、大洗、日光、大笹牧場、碓井峠、青梅、御岳、信越線田中、八重原、千葉館山、野島崎、洲崎等である。そのほか焼津港スケッチではクラスの旭輝雄、大笹牧場では和田恭三の御二方には大変お世話になった。

 

 次に作品の発表であるが、

1回 渚の会展(19938月)   場 所 日比谷 やまがた画廊   出品者 斎藤、平野、深尾、水野、若松、後藤

第2回 渚の会展(19961月)   場 所 日比谷 やまがた画廊   出品者 阿部、平野、深尾 斎藤、若松、後藤

                                            協賛出品 藤瀬、水野

3回 渚の会展(19987月)   場 所 東京京橋東京近代美術クラブ   出品者 阿部、斎藤、平野、深尾 松下、若松、後藤

4回 旅の四人展(200011月) 場 所 ギャラリーくぼた4階(京橋)   出品者 斎藤、平野、若松、後藤

5回 第2回旅の四人展(20033月) 場 所 ギャラリーくぼた4階     出品者 斎藤、平野、若松、後藤

6回 旅の三人展(20052月)  場 所 東京近代美術クラブ1階     出品者 平野、若松、後藤

 

7回 旅の三人展(第2回)を2009年に開催する予定にしていたが、ギャラリーの都合で開催できなくなった。今後の予定は不明。

以上6回の展覧会では、毎回多数のクラスの方に見て頂いて光栄の至りであり、かつ、色々とご寄贈品もいただきました。会員一同感謝しています。

 

 次になにわ会囲碁会(西部新宿会)について

 

 なにわ会の中で、囲碁を趣味とする者は多いと思われる。各地方で囲碁会が開かれているのではないかと思う。その中の一つが東京西武新宿駅前の碁会所で行われていたと考えてほしい。

 

 戦後、会社勤めをしていた名村英俊と小生が、時々会う機会があったが、土曜日の午後になると、お互い暇になるわけで、ある時打ち合わせて「碁でも打つか」という事になって、以後お互い何もないと待ち合わせて近くの碁会所で会うことになった。これは大分何回か続いたが、お互い会社を辞めてからは、二人の住所から便利の良い新宿で会うことになった。これが、西武新宿駅のすぐ近くにある西武囲碁クラブである。

 

 その後、これを聞いたクラスの面々が、加わって総勢15〜16人となり賑やかになった。暫くして、クラスの指導官だった柳田教官まで加わって頂いた。そして、教官の発案で大会を行う事になり、教官から賞品を出して頂き盛会となった。しかし、これも長くは続かなかった。教官が亡くなられたからだ。残念至極のことであったが、これからクラスのメンバーも一人、二人と減って碁力の強い柴田も体調を壊し欠席するようになった。平成20年には遂に野崎(機)、新庄と小生の3人になってしまった。暫く3人でやっていたが、野崎、新庄とも住所から遠いのでどこか良いところを探そうということになって、西武新宿会は解散ということになった。残念至極であるが、クラスの年齢を考えると自然な成行きかも知れない。昔を偲ぶこととした。

(なにわ会ニュース10050頁 平成21年3月掲載)

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