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朝  露

加藤 孝二

人の現世の営みは宇宙の大に比ぶれば朝露の如くはかないものである。併しその朝露の中にも我々は宇宙の真理を体得し光り輝く朝霧でありたい。

 昭和十九年十二月台湾比島沖の戦に消耗した偵察第三飛行隊(期友水野英明、川端博和戦死)は内地残留搭乗員を合わせ飛行隊を再建せんと五航艦の指揮下ではあったが訓練為三航艦基地の木更津へ仮入隊した。その時木更津には中攻・銀河・彩運隊があり、権代、佐藤美保、佐伯、増子、粒良、平野誠がいて冬の切替えもないという吾々(広瀬、コレスの小山)のために歓迎会をしてくれた。嬉しかった。幹事は権代で会の途中空襲警報でオジャンになったことを覚えている。その折のメンバーは私一人になってしまった。その他要務飛行進出の折等木更津に立ち寄る期友多く記憶しているだけでも

松本、水谷、新保、正木、合原、小原(以上戦死)、茂木、長谷川、粟谷,和泉等の面々で皆我こそはと各々の隊で張り切っていた。

 戦局につれ次々と進出し、翌年一月三航艦に偵一〇二飛付隊が出来、掘江が勇躍対岸の横空より飛行隊士として着任した頃は木更津には小山と私が残るのみであった。その様な状況で二ケ月間の期会は常に進出飛行隊期友の送別会兼先に進出戦死期友の追悼会であった。 「あいつももう死んだ頃だろう」と云った具合であった。

 思い出は限りないが、直接木更津飛行場より発進戦死したのは掘江みであったので彼のことについて記したい。

 二十年二月頃私の隊は訓練を不完全乍ら一通り終り九州へ進出せんとする直前であったのに比べ飛行指揮所は同じであったが、偵一〇二は毎日の着任者も漸く集まったが彩雲の操訓を始めたばかりで、我々が指揮所にいてスムースに訓練しているのに比べ堀江はあちこち飛び廻っており、索敵可能の組は僅かに分隊長と堀江を加えて三組しかいない状況であった。敵さんはそんなことはお構いなし硫黄島へやって来た。朝先ず館山・横須賀とやって来た。偵三は作戦可能であるが五航艦の指揮下で既に進出予定である。硫黄島海面は三航艦の受持ちである。(堀江の戦死後偵三は一時的に五航艦の指揮下より三航艦の指揮下に入り作戦した。)

 司令部では何時索敵機を出すか、空襲の合間に出すので索敵二時間待機・一時間・三十分即時待機と指令は三、四度変った。偵102より掘江の組の他館山・横浜より合計十機が索敵した。昼間索敵である。結果は全機未帰還。出撃後三十分の連絡があったのは堀江の組だけであった。

当日雲があったので、平常の索敵要領どおり雲下高度五〇〇乃至三〇〇米で索敵したのに対し敵戦斗機は内地の海岸線に待機し当然来るであろう日本機を待っていたのである。網の中に飛び込んだ様なものであった。以上はこれはいかんと状況偵察のため黎明索敵機が偵三より出され数ケ所で敵戦斗機に会い電信機故障で帰還した後判明した。この戦訓により爾後の昼間索敵は発進後北に進路をとり、関東で高度六〇〇〇米以上をとり、索敵基点も著名目標を避けて行動したので其の後この様な被害はなかった。私もその直後このお蔭を蒙った一人である。

それはそれ、人智の致すところ兵家の常。問題は彼が索敵待機の折である。彼は即時待機機の折はしなかったが、三十分待機でも暇さへあれば寸暇を惜しんで待機中搭乗員の地上訓練を行っていた。例のとおり童顔のチンコロが笑ったような顔をして(一人二役は忙しい」といいながら・・・。

「貴様は偉いなあ。若し俺だったら今日の作戦には間に合はねとか言って訓練は人に任せてダベッているよと言うと「いや貴様んとこにはいるが俺んとこには訓練する奴がいねえからよ」と相変ずいそいそと訓練していた。そして張り切って出て行って帰って来なかった。所謂一コロである。

 併し彼は最後迄自己の命を大切に使った。淡々と最後迄自己の任務をやって行った。「こいつ、こいつ」と思った。その夜私室でこの感激を「あいつに負けぬ様」と日記に書いたことを私は記憶している。(日記は終戦時命令で焼却してしまった。)

 其の後私は掘江の後任に偵一〇二へ転任したが頭のよい彼のあとだけによく分隊長(堀江と横空に一緒にいて一緒に偵一〇二へ転任した市川大尉)から「もっと要領よくやれよ 堀江はもっとスマートにやったぞ」と言はれ「彼奴と比べられてはかなわんですなあ」と閉口した。頭の差+αの差であろうと思っている。何しろ生身の人間と仏様だから始末が悪い。あの世へ行ったら堀江に「貴様のあとで苦労したぞ」と言ってやろう。 (終)

(なにわ会会誌 2号 51頁 昭和29年1月掲載)

 

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