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時効ハ完成セシカ

後藤 脩 

 昭和49315日付本紙30号ヨリ「週番生徒達示」ノページ現ル。マズハ会費未納者ヲ追ヒ立テ地獄ノ沙汰ヲ達示スルガゴトシ。サレド思へ。一号生徒、けっぷがん、艦長卜並ビ称サンニモオヨソ人ノ世ニ週番生徒ヨリ純粋絶対ナルハナシ。猛烈苛烈ナルハナシ。恩讐ヲ彼方ニシテ功罪ヲダレカ問フ。ハタマタ光陰流水ノゴトクシテ亡霊再来ノ真意イカン。

ケダシ 「時効は左の期間内其執行を受けざるに因り完成す、死刑は三十年」
 (刑法第三二条)。

 ムべナルカナ。往事ハ鮮烈タリ。

 

  千代田艦橋前

 押本編集発行人曰く。 この間樋口がこんなことをいっていた。73期のクラス会で、72期は〃お嬢さんクラス〃だ、あれでは74期は育てられない、という話が出たとき、それを聞いていたのは樋口ひとりで、その席に72期は誰もほかにいなかったはず、それがどうして後藤 脩の耳にはいったのか、わからないとネ。

 ―― 古い話だナ。誰がいってきたか、それはオレにも思い出せない。しかし、そのときの第一生徒館の生徒隊週番生徒室の情景は思い浮かぶナ。前後のいきさつもよく覚えている。

 押本 これは〃クラス会史〃に記録しておくべき出来事だ。

 ―― ウーン、自分の方から書こうという気になる種類のことでないし、関係する人もあるで。しかし、キサマのいうように、そういう時機になってきたのかもしれない。

  みんなも記憶のことだろうが、原田期指導官は「日本の武士にとって、面体に手を当てられるごときは許すべからざる恥辱であり、果たし合いになったものだ。鉄拳修正などというものは明治になってからイギリス海軍によって持ち込まれた野蛮な風習だ」という持論だった。そこで、オレもオレなりには考えた。一週間はたっぷり考えただろう。しかしその結論は「ナグる」ということだった。

 そして、71期の卒業前夜、参考館講堂で伍長予定者会議が開かれた。議題はわれわれ72期の新一号としての指導方針、つまるところは、ナグるか、ナグらないか、というだけのことなんだが、これが大問題。和泉は「ナグらない」というが、オレとても考えたあげくのつもりであるから「ナグる」と後には引かない。意見は二分してまとまらないままに、結局、一つの暫定妥協案が成立した。それは、新一号の第一週目の週番生徒は和泉とその他であり、オレは第二週目のグループという順番だから、第一週目は和泉式でいき、その成り行きを見て第二週目は考える、というものだった。

一週目が過ぎ、例の〃お嬢さんクラス〃事件が持ち上がったのは、二週目、オレが生徒隊週番生徒室に乗り込んだ早々のことだったと思う。記憶に間違いなければ、オレは報告を受けるや否や第一分隊自習室へ飛んで行き、「二号総員修正」を和泉に宣言した。これには和泉も反対を唱えなかったと思う。

 自習ヤメ後「二号総員、千代田艦橋前へ集合セヨ、一号モ総員集マレ」で生徒館は騒然、十一月末の江田島の練兵場の夜はすでにかなり冷えていただろうが、九百人の影を六百人の影が黒々と取り囲んだ熱気の立ちこもるなかで、どんな〃達示〃をしたのか、いまとなっては記憶にない。ただ、最後の「一号総員カカレ」の号令に十二分の気合がはいっていたことには間違いない。

 (それから二十年近く経た一夜、広島市民病院で宿直に当たっていた和泉医師を訪れ、夜を徹して話し込んだ。お互い″人殺し″を専心学んだ身の上で、第二の人生として、和泉は「人の病気を治すため」といい、オレもプンヤとして「社会の病気を治すため」と相変わらずがんばったが、〃お嬢さんクラス〃事件については触れずじまい)

 

  練兵場駆け足

 押本  一号が練兵場を駆け足させられたこともあったナ。あれは伊藤孝一だったろう。

 ―― 一号の駆け足ネエー、オレ、やったナア。

 押本  なんだ、あれやったのもキサマか。

 ―― イヤイヤ、伊藤と関係あってのことか、なくてのことか、そのへんはなんともいえない。

  確かか、どうか、オレは最初と、中ごろと、卒業前と三回、週番生徒に当たったように記憶しているが、いま考えてみると、どうして三回も当たったのか、勘定がわからない。そのうちで、一号を駆け足させたのがいつのときだったか、これまた確かでないが、おそらくは最初のとき、73期総員修正に続いてのことではなかったろうか。

 課業整列五分前ジャスト「待テ」 「定位置ニイナイ者ハ直チテ中央玄関前二集マレ」とやったまではよかったが、続々と集まってくるズベ公どものなかに、やたらと一号が多い。中央玄関階段の上からこれをながめて考えた

 ―― お達示だけですまそうか、一号を別扱いにできない、当直監事、教官たちも見ているしナー しかし、次の瞬間には決めた。「練兵場駆ケ足」。とたんに、わが意を得たりとばかり横から飛び出し、「モタモタスルナ」とかなんとか、百万の援軍を、わが週番生徒に送ってくれたのは石川教官だった。

 (候補生の練習艦隊が終わり、拝謁のため特別列車で上京することになり、しばしの自由時間にメートルを上げ、腕時計の狂いに気が付いて、しまったとイダ天走り、発車ベルの鳴り続ける呉駅のプラットホームに危うくすべり込んだオレを待ち構えて、二、三発くらわしたのも石川指導官だった。おかげで、アルコールが全身を回り切って、ぐつすり寝込んだ翌朝の車中の目覚めは、まことにさわやかであった。合掌)

(なにわ会ニュース31号10頁 昭和49年9月掲載)

 

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