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魂(こん)

或る元海軍士官の自惚れ

       富士栄一

八月十五日の木更津航空基地の昼休みの話題 暗澹というのはあんな時の為に作られた言葉でしょう。

結局「これからどうするか」という事でした。20年の4月編成さら当時の海軍としては最新最強を誇った艦爆流星隊の搭乗員も三分の一に減り、愛知時計が全力を挙げて作った新鋭流星も激戦に18機が空しく列線に並んでおります。そしてこの搭乗員達は「ハワイ」、南太平洋、台湾、比島と転戦した古豪から、飛行時間五百時間足らずの若武者迄毎日毎日今日こそ死ぬ日と定めて飛行場へ出て居りました。中には八月十五日の正午あの御詔勅を挟んで出撃命令の出た一小隊の如きは、午前中進撃した者は敵空母の特攻攻撃に成功し、午後の出撃予定者は生き残ったという奇蹟もあったのです。つまり何れも死が人生であったのです。「これかどうしよう」と言う言葉は即ち生を意味します。死の道を急がれた方々の御覚悟の程は察するに余りあります。然し我が隊には運命による死は免れぬとしても既に生きようという決意がほのめいて居りました。生と死の違がここに完全なる表と裏を表現したのです。

さて「これから」という話の内容です。第一に誰でもの胸を暗くさせたのは「飛べないんだ」という一言です。羽をもがれた鳥そのままの言葉が如実にあてはまる我々でした。そして、此の人々は学徒として中途出陣を余儀なくされた方々を除き飛び戦うという以外世を渡る術も、物を作る業も凡そ所謂世間というものから全く縁のない人々でした。幸い航空隊の搭乗員は大体中卒程度の学力もあり帰るべき家もあった様です。しかし、果して微妙極りなさ操縦梓や風向測定儀を握った手が甘んじて鋤、鍬を持ち算盤を弾く事が出来るのでしょうか。航空隊の士官とは人格識見と共に飛行に乗ることが上手くなければなりません。いくら威張っても爆撃演習で弾が外れ、定着訓練でジャンプばかりすれば、部下は直ちに言う事を聞かなくなります。実力の世界です。この人達が果たして阿諛と迎合が栄え、不信と陥穴の待つと聞く世間に出てなにをするのでしょう。そして、こんな人々の不安をよそに、日は一日一日と立ち八月二十四日米軍の進駐を前に総員復員致しました。九十「パーセント」の不安と十「パーセント」の希望を持って。

 そして八年、現在私の耳に入る彼等の消息は、其の仕事に千差万別はあっても力強く生き続けている彼等の姿を証明して居ります。

貧富は問う所ではありませんが「あいつは」と思う男はあいつだけの事をして居ります。そして私自身が彼奴はと思う理由は一体何に原因したのでしょう。之は私の過去、現在を通じて浮び上って来る鮮明な人々に対する尊敬、信頼、友情等が何に原因するかという意味なのです。私なりの解釈として職業、老若、男女を問わずこの人々に一貫するものが魂であると気付いたのは最近の事でした。

魂(こん)とは闘魂であり士魂であり商魂であり学魂であり「サラリーマン」魂であり父であり子であり夫であり妻である魂、即ちすべての目標に徹する魂(こん)なのです。

 そして想い出は遠く魂の道場江田島三年の生活に飛びますが、暫く措いて八月十五日の私自身がたどった運命に現れた魂について多少の自惚れを含めて語りたいと思ひます。

流星の「テストパイロット」から始め全生産81機の流星の中63機の納入試飛行を実施した私にとって敗戦という深刻な打撃の外に流星と別れるという事実は全く子を失うとはこんな気持かと思われました。未だに忘れられないのですが、米機の空襲でしかも整備員の不注意から自分の愛機が地上で焼き払われた時、怒るのも忘れ、人目もなく、声を上げて泣いた私でした。そして、これからどうするという不安さえも忘れてぼんやりと我が家へ帰ったのです。そして待っていたのは今迄の不安を幾層倍した激しい嫌しい世相でした。

私は其の頃既に家庭を持って居りました。それも海軍中尉の頓、浅草の商人の一人娘と三年越しの仲が実を結んだ迄は良かったにですが、当時の法規として一人娘との縁組は廃嫡するか養子になる以外には無かったので三男妨に生れた私は躊躇なく養子縁組したのです。そして家内は三月10日の空襲に母を失い、三度も焼け出され、家業である菓子屋も企業整備になり、私の実科の家作で老父と共に寂しく夫の安否を気遣っていたのです。幸い実家は工場の一部を焼いたのみで残って居りました。そして私として一番楽な道は実家の会社に勤めるか、父に頼んで大学へ行かして貰う事でしたが、私の良心に問うてそれは許されませんでした。成程、新憲法は家を廃止し、個人の自由は認めておりましたが、理由の如何を問わず養子として人籍した以上養家の存立は男の意地にかけても自分だけで再現しなければと思ったのです。そして菓子屋として再出発したのが終戦後半年ばかり立っており丁度新円切り替え時、経済的にもわが家の財政が終盤に近づいていました。

 士族の商、上手いこと言ったものです。この言葉の本当の意味は商売が下手だとか。損をするとかいう事でなく精神的な苦悩即ちしっかりした目的を持たない仕事に対する悩みを言ったのではないでしょうか。

 幸い、仲見世の焼け跡に、戸板を並べて品物を売れば大体生活も立って行きました。菓子屋といっても、主食に類似したものは売れない時代で商品には大分頭を痛めました。東北から魚の丸干を貨車で引いたのが商売の手始めで人形やら、玩具やら、雑貨やら色々手を出した挙句段々菓子屋の本業に近付いて来ました。

 寒天と「コーヒー」で作った羊羹(まあゼリーですね)勿論サッカリンとズルチン飴等で甘味をつけたものを自分で考案し「海軍さんも可愛そうに」等という言葉を聞き流し乍ら薪割りから最後に切って売る迄一人でやったのが菓子屋復業の第一歩だった様です。

 今ではとても食べられるものではありませんが、当時としては相当良心的な品物だったと思います。店へ出せばとても間に合わない位売れ、問屋からも卸して呉れと頼みに来ます。とうとう人を一人雇ってやりました。市価より相当安かった様です。

 それでも製造販売とはこんなに儲るものかと思った位です。(これは内緒ですが)実は今住んで居る家も店も此の怪しげな羊彙の利益でこしらへたものです。こうして菓子屋復業の悲願?もどうやら本道に乗って参りました。

 然し我々の誰もが切実に体験した悩みでしょうが、どうしても頭を離れられないのは「何の為に」という一言でした。金儲、何という厭な言葉でしょう。資本主義国家の存立は個人の利益から等という一般論は陳腐な慰めでした。

 昨日迄の私の目的は敵艦を沈めて戦に勝つ、国家を安泰に置く、例えその一端であったとしても誠に雄壮なはっきりした自惚れを持って居りました。そして今「何の為に」毎日生きているのか。自分は食べる為に働いているのだらうか。金を儲ける為からか、そしてどうしようというのであろう、こんな考えが始終頭を往復します。そのくせ、手は休みなく羊羹を煉り、口からは「有難う御座居ます」と云う言葉がだんだんすらすら出て参ります。こんな状態が三年ぐらいも続いたでしょうか、其の頃はどうやら家も店も売上も戦前の段階にたどりついた様です。そんな頃の一日店をやり乍ら(此の頃はもう時代が変って来て本業のあられ、かきもち等商い、老舗という信用も回復して参りました。)

 ふと思ったのです。『どうやらここ迄素人商売やって来たのは世間の御蔭、店の看板と共に、自分自身については、何時の問にか、染みついていた士魂、闘魂が商魂といふ形に現れたのではないだらうか、人間は目的によって仕事に徹するのではなく、人間であるが故に現在に徹するのである。」と。

 江田島の短艇競技では只一本の「オール」以外一号も教官も或は国家さへも又自分自身兵学校の生徒であるという自覚すら忘れ、唯漕いだのです。弥山登山では目の前の石段を一つ登る事が人生の総てであったのです。之は原因結果として自分自身の練成、やがては国家の為等々・人に聞かせても立派な事でしょうが、真の姿はすべてを忘れて現在に徹している自分の姿、即ち魂(こん)の現れだったのです。

 飛行学生の初期どうしても編隊飛行が上手く行かず、級友が皆帰った夕暮の飛行場に唯一人残って編隊の模型写真を二時間ばかり睨み続け次の日完全に「マスター」して同乗の教官から「昨日までふざけていたんではないですか」と驚かれた時の泣くような感慨、「グラマン」に追かけられ逃げるのが面倒になって、いっそ死んだ方が楽だと思はれる時、糞!と頑張って、やっと振離した想い出。戦争前の国技館の豆電球を思わせる米機動部隊の弾幕の真唯中へ夜間急降下で唯一機、まっしぐらに突込んだ瞬間、私の半生を通じて、之が魂 (こん)だと思はれる時が、此処、かしこに顔を出しているのです。

 そして形は変っても薪を割る時は薪を割り羊彙を煉る時は火加減に総てを忘れ、一枚の「せんべい」を売る時は売る事に徹するのが、人間としての生き方というより、本来の姿に還った人間としての誇りを感ずるのではないでしょうか。

 暫く前の事です。私と家内が店に居た時、一人の客が千円ばかりの買物をしました。そして帰り際に「此の前に買った「せんべい」は湿っていたが今日は大丈夫だね」と一言、言ったのです。その時、妻は変らぬ調子で客の処へ行き「私共では絶対湿った品物等売らぬ積りで居りますが、若しそんな事があったのでしたら責任上今日の分は御代を頂くわけには参りません。」といって、押問答の末とうとう只で品物を差上げて終いました。後から見ていた私は苦笑いをしながら商人の娘として半生を過した妻の商魂、一つの形で現れた魂(こん)をしみじみ感じたのです。とんだ惚気話で恐縮ですが、惚けついでにもう一言聞いて下さい。

一寸宣伝めきますが、私共のせんべい屋は良心と質では日本一を目指して居ります。そして寝物語りに妻はしみじみと言います。『お父ちゃま、若し店がつぶれて二人でモク拾いになる様な事があったら「デパート」とでも特約して日本一の「モク」拾いになりましょうね。』此の魂(こん)が私を結婚後八年未だに妻の口を持って認じさせているのです。

 今私自身店と同時に実家の会社で橋梁を造って居ります。仕事の入札をする時は入札に、客の接待をする時は接待に、掛金を取る時は取る事に、工員と折衝する時は折衝に唯現在に徹する魂(こん)。なかなか出て来て呉れないのですが、総てに捧げる魂(こん)を一生持ち続ける様努力して行きたいと思うのです。

 (なにわ会会誌1号 14頁 昭和27年12月掲載)

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