TOPへ     思い出目次

ワレ候補生乗艦中 オサキニ失礼

      押本 直正

岸川正紀氏(69期・日本航空機長)の話

 「昭和18101日付、当時中尉だった私は利根乗組(飛行士)を命ぜられ、10日頃トラックの春島泊地に赴任乗艦しました。

 ところが利根は機械故障のため呉で修理することになり、11水戦の指揮下に入り、31日トラック発、内地に回航することになりました。山城、伊勢、竜田、隼鷹、雲鷹(?)、

駆逐隊が一緒でした。

 115目早朝、隼鷹は豊後水道の入口で潜水艦の雷撃をうけ航行不能になりました。

それにも拘わらず、同行中の戦艦戦隊は

 「ワレ候補生乗艦中 オ先二失礼   利根ハ隼鷹ヲ曳航シテ呉二向へ」

という信号を発しながら、白波を蹴立ててさっさと豊後水道に入ってしまいました。

 飛行士の私はカタパルトの射出音も勇ましく、零式水偵にうちまたがって対潜制圧と前路哨戒に発艦しました。

 というと勇ましいのですが、実は利根艦載機五機のうち完全なもの四機はトラックに残し、積んであったのはフラップのこわれた一機だけでした。それをだましだまして水発(艦を停止しデリックで降しての水上発進)し、佐伯空艦爆二機が制圧したあとを、燃料の続く限り上空哨戒し、呉航空隊に先行しました。利根は命令通り隼鷹を曳航して、4節でよたよたと呉に入港したのは6日の午後でした。あとで判ったのですが、この時乗艦中の候補生が、わが4号生徒72期だったわけですね」

 

 この話を聞いたのはもう数年前のことであつた。

 「候補生が乗っているから先に帰る」という短い信号は、「航空母艦の一隻や二隻より候補生の生命の方が大事だ」という、日本海軍の思い遣りが偲ばれる、海軍流にいえば全く″泣かせる話″といえよう。

       ×     ×     ×

 今度、「なにわ会史」を作ろうという話もあり、この″泣かせる話″をもうすこし詳しく調てべみょぅと思い、当時の関係者に当ってみた。

伊勢乗組左近允・池田武邦候補生

 申訳ないが全く記憶なし

龍田乗組水野行夫・佐藤静候補生

 右に同じ

伊勢乗組沢本・山根候補生

 トラックから帰りは大和も一緒ではなかったろうか。

大和に魚雷が一本命中したが、傾斜一度程度で航行支障なし。具に帰港してその破穴の大きさをみて吃驚した記憶があるが・・・。

山城乗組樋口候補生

 隼鷹がやられた時、俺は丁度艦橋で当直中だったので憶えている。しかし当直以外の候補生は知らないままであったろう。信号をあげてお先に失礼したとは、今まで知らなかった。宇品から積んだ陸兵が、どういうわけか金米糖を沢山持っていたのが、妙に記憶に残っている。

 樋口の証言だけがすこし頼りになるが、大部分の人には、すでに忘却の彼方のようだった。

 そこで、左近允海将から防衛庁防衛研修所戦史部の吉成惟義一等海佐(74期)を紹介してもらい、つぎのような資料を教示してもらった。

@ 中部太平洋方面海軍作戦(176月以降)

A 中部太平洋陸軍作戦(マリアナ玉砕まで)

 (いずれも戦史室編、戦史叢書)

B 軍艦山城、伊勢、龍田、隼鷹、利根

行動調書または行動概要一覧表

以下は右資料の要約と引用であるが、これに関して何か記憶をお持ちの方は是非お知らせ下され度。72期が参加した「最初の実戦」であり、「なにわ会史」にも是非収録したいと 思っているので・・・。

丁三号輸送部隊

 ご存知のように72625名が江田島を巣立ったのは昭和18915日。

 即日、102名は伊勢、82名は山城、21名は龍田、

 

 

として霞浦航空隊に入隊し、病弱だった7名は各海兵団付として卦任した。

 さて、その前後の戦況をみると

 (21) ガダルカナル島撤退開始、7日約一万千人余の撤退完了、戦死者二万五千

 (418) GF長官山本五十六大将、ソロモン群島ブイン上空で戦死

(512) 米軍アッツ島に上陸・四日守備隊二千五百名玉砕

 (720) キスカ島の日本軍撤退

94) 米濠軍ラユ、サラモアに上陸

 (99) イタリア降伏

930) 御前会議、「今後執ルベキ戦争指導大綱」および「右二基ク当面ノ緊急措置二関スル件」を決定

 絶対防衛線をマリアナ、カロリン、西ニュギニアの線に後退

102) コロンバンガラ島から撤退

111) 米軍ブーゲンビル島に上陸

      ×      ×      ×

 このように「戦況日々に不利」という時代であり、大本営は「戦争目的達成上絶対確保ヲ要スル国域」として、「内線屈敵ノ自由ヲ保持シツツ政戦略上ノ要務ヲ充足スヘキ最小限度ノ線」として絶対国防圏を設定するまでに追いつめられていたのである。

 この絶対国防圏、いわば引くに引かれぬ最後の一線を強化するために、中部太平洋の戦備強化が行なわれた。

 トラック島(含ポナペ)の地上防備増強には第52師団が当てられた。この部隊は甲子隊と呼ばれ歩兵107連隊長山中萬次郎陸軍大佐を長とし、歩兵107連隊約四、三六〇名、山砲兵16連隊の一個大隊約1,000名、工兵52連隊の一個中隊約250名、計5,610名。甲支隊の第一次進出部隊は915日(木曽、多摩で宇品発)、18日(栗田丸、大波で宇品発)、19日(隼鷹、谷風で岩国発)とそれぞれポナペに向った。

 第二次進出部隊(歩兵17連隊3大隊、78中隊、第2機関銃中隊の半分、第2大隊の残り、山砲兵16連隊、79中隊、段列等約二千名)の輸送にあたったのが、72期候補生が実習中の伊勢、山城、龍田、32駆逐隊であった。

 この間の事情を前述資料@435ページには、つぎのように述べている。

 第二次進出部隊に指定された支隊本部の残部、第二大隊の半部及び第三大隊の計約2,000名は、十月七日から金沢を出発し宇品に集結した。聯合艦隊長官は九月三十日電令作戦第七二七号をもって、第十一水雷戦隊司令官(木村進少将−兵40期)を指揮官として、「伊勢、山城、龍田」、第

三十二駆逐隊(早波、藤波、涼波)をもって丁三号輸送部隊を編成し、甲支隊の第二次輸送を下命した。

 第二次進出部隊は、集結地宇品において新たに同支隊に配属された聯合艦隊司令部付第一派遣通信隊を加え、右の海軍艦船に分乗、十月十三日、十四日の両日にわたり宇品発、二十日トラックに到着した。

 なお、1020日(水)から31日(日)のトラック警泊中、龍田は22日、25日の二回に亘りポナペに往復し、陸兵および物件の輸送任務に従事した。

      ×      ×      ×

 冒頭、岸川氏の話にあった事件は正しくこのトラックからの帰途に起ったが、前記資料Aの公刊戦史は、この間の事情をいとも味気なく記述しているのである。

 十月十六日「利根」は左舷機のタービン が故障したため、第8戦隊司令官は旗艦を筑摩に変更し、利根は応急修理のままブラウンヘ出動したが、開放検査の結果、工廠修理が必要となり、十月三十一日第十一水雷戦隊司令官指揮の下に、伊勢、山城、隼鷹、龍田と共に呉に向った。そのとき、利根は命により、高角砲、機銃弾薬及び燃料等を第四軍需部に還納した。(同書424頁)

 既述のように十月三十一日、第十一水雷戦隊司令官は、伊勢、山城、隼鷹、利根、龍田を率いてトラック発、呉に向う途中十一月五日、隼鷹は豊後水道の沖ノ島の南東四〇浬において米潜水艦の雷撃を受け片舷航行可能であったが、操舵が不能となり同航中の利根に曳航されて六日午後呉に入港した。(同書429頁)

(なにわ会ニュース38号 37頁 昭和53年9月掲載)

 

TOPへ     思い出目次