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平成22年4月24日 校正すみ

ある友<石川誠三)

美津彦

昭和18年9月、私は海軍兵学校卒業と同時に、同期生約80名とともに軍艦山城乗組となった。実務練習のためである。班編成のとき、私は「彼」と同班となり、2ケ月間起居を共にすることになった。

この期間中の彼については(態度の大きい奴だな)と思ったほかは、特別の記憶は残っていない。

実務練習が終って、新候補生がそれぞれ実戦部隊に配属されるとき、彼と私とは、同じく軍艦足柄乗組を命ぜられた。このときなぜか(やれやれ、またこいつと付き合うのか・・・)と思ったことを憶えている。

石川 誠三

 足柄のガンルーム(士官次室)では、「長官」のニックネームを奉られていた温厚な小灘利春は別として、6人のクラスメートの間で、なにかと口論することが多かつたようだ。別に仲が悪かったわけではなく、原因もたいしたことではない。要するに、毎日が平穏無事で、みんな元気がありあまっていたのであろう。そしてその渦中には、たいてい彼がはいっていたというより、彼自身がトラブルの震源であったようだ。

彼は航海士。ある日、潜水艦情報によって、敵潜の位置を海図に記入していたところ、どうしたことか、位置が島の上に出てしまった。

彼は早速、通信士に噛みついた。

「通信の奴等がボヤボヤしゃがって、受信を間違えたんだろう。もっとしっかりしろ」

通信士は吉江幹之助、

「なんだと、バカなことを言うな。受信は、絶対に間違ってなんかいない」

「じゃどうして潜水艦が島の上へ出るんだ。おかしいじゃねえか・・

「キサマの位置の入れ方が悪いんだ」

「なにっ・・・」          

顔をまっ赤にして怒鳴り合っている両人を取り巻いて、われわれは、ただニヤニヤしながら眺めていた

ある日、私は彼と、例によってなにか口論した。(原因はおぼえていない)かなり激しくやり合った直後、私は、副直将校として当直に立つことになっていた。その日は、クラス会だかガンルーム会だかがある予定で、揃って上陸することになっていたのだが、運悪く私が当直にあたってしまったのである。私が支度をしていると、彼がやって来た。

「なんだ、貴様、一緒に上陸しないのか」

私には、まだ余憤が残っていた。

「俺は当直だ・・・。あとでいく」

「冗談じゃない。当直だなんて、そんなバカなことがあるもんか・・・。よし、俺が二次室(第二士官次室)へ行って交代を頼んでくる。待っていろ」

間もなく、彼はガンルームへ帰ってきた。

「おい、当直は頼んできたからな。みんな一緒に上陸(あが)ろうや

(やられた)と思った。私は、皆と一緒に上陸した。余憤は、あとかたもなかった。

昭和19年8月、彼は小灘とともに、潜水学校普通科学生を命ぜられて足柄を去った。

退艦の前日、彼は、一緒にバスへはいろうと、私を誘った。私は、少々不機嫌であった。潜水艦に行く彼が羨ましかったのである。

せまい浴室の中で、なんとなく口数の少なくなっていた私の気を引き立てるように、彼は明るく、よく喋った。不意に「おい、背中を流してやろう。あっち向けよ」

と言いだした。こういう習慣は、われわれの間にはなかった。はじめてのことで、遠慮する私に「いいから、やらせろ」と背中を流してくれながら、珍しくしみじみとした口調で

「貴様とは「山城からずっと一緒だったな・・・。ずいぶん世話かけたなあ・・・」

思いがけない彼の言葉に、私は一瞬戸惑い背を向けたまま「う、うん・・・」と不得要領な返事をしただけであった。

昭和19年10月14日、台湾沖航空戦の直後であった。足柄は、急遽南方海域へ進出することになり、柱島泊地から徳山へ回航、給油をおこなっていた。夕刻出港の予定であった。

午後、彼と小灘とがひょっこり訪ねてきた。

出港前の慌ただしい時間を割いて、ガンルームで彼等と話した。気負っていた私が

「俺の方が、ひと足お先に敵にお目にかかるぞ」と言うと、彼はこれには答えず、ニヤリとしただけであった。

彼等が、なにか特殊な訓練を受けているらしいことは察しられたが、彼は多くを語らなかった。頭髪が伸び、童顔にうぶ毛のような無精ひげを生やした彼は、私の質問にはあまり答えず、ボソボソと小声で、当りさわりのないことを喋っていた。

転勤のとき、遂に見つからぬままになっていた彼の伝家の脇差が、あとでみつかり、私が保管していたので、このとき彼に手渡した。

その脇差の箱を抱え、通船に乗って遠ざかっていった姿が、私が彼を見た最後である。

 昭和20年6月8日、足柄は、スマトラ東岸のバンカ海峡北口で、敵潜水艦の雷撃を受けて沈没し、駆逐艦神風に救助された生き残りの乗員は、翌9日シンガポールに上陸した。このとき私は、はじめて彼の戦死を知らされた。久し振りに届いていた家からの便りに、内地の新聞に発表された彼のことが書いてあり、彼の写真が一枚、同封されていた。彼の母上から私の家あてに送られたものであるという。

私自身、故国を遠く離れて連絡も少なく、「回天」の消息もいくらか聞いてはいたものの、毎日の忙しさに取り紛れ、彼の戦死については、このときまで私は、迂潤にも全く気付かなかったのである・・・。

私は、一抹の慙愧を覚えながら、写真の彼を見つめた。

あれから30年の歳月を経た今も、私は、この写真をときどき出して見る。

大津島(回天基地)で撮ったらしい。6×6版の小さな密着写真は、すこし変色している。彼は、いつも変らぬ落ち着いた表情で、51才の私を静かに見返している。

写真の裏面には、彼の筆跡でこうしるされていた。

小河美津彦君へ  (足柄)

うたかたと 消えゆくわれを

あはれとも 思はば

醜の寇 殲してよ

生き残った私の、ひそかな慙愧の思いは、生涯、消えることはない。

彼の名は、石川誠三 

(昭和50年1月記)

 

回天特別攻撃隊金剛隊

昭和20年1月12日

午前3時、伊号58潜水艦より回天に搭乗発進、グァム島アブラ港の敵泊地に突入、戦死。享年21才

発進直前、潜水艦内との連絡用電話からは、彼の吹く口笛が流れていたという。

(なにわ会ニュース32号9頁 昭和50年3月掲載)

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