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平成22年4月29日 校正すみ

兄(春男)の宿帳

藤田 貞子(春男妹)

毎日新聞の写真

  平成七年六月二十四日の毎日新聞に、「見る写真・読む写真」というタイトルで、″特攻の島″消せない記憶と、大きな活字、その写真に「特攻隊員が遺した絶筆の宿帳を見ながら、当時を語る神田スミ子さん」とあった。

その開いた宿帳には「海軍中尉藤田春男」とあり、私はそれを見た瞬間胸がドキドキした。世の中には、同性同名も沢山あるだろうが、「海軍中尉」であるのと、その筆跡には見覚えもあり、兄に間違いないと確信した。

兄は鹿児島県国分基地から、昭和二十年三月十九日特別攻撃隊彗星隊隊員として出動、九州南東海面に於いて戦死した。出撃地が「徳之島」とは聞いていないので、本江 博分隊長さんに電話をかけてみましたが、「藤田が徳之島に行った記憶はない」との返事であった。                                                                  

久原 滋様から目黒の防衛庁防衛研究所を紹介され、早速出向いて、事務官に会い、兄が所属していた、彗星部隊攻撃一〇三飛行隊の戦時日誌を調べていただきました。その日誌には、「特攻機でペアの飯塚英一上飛曹と索敵哨戒に出撃した。」昭和20128日付の記録だけで、徳之島飛行の事実は見つからなかった。

新聞には、徳之島の基地は「陸軍飛行場」とあり、私は不安な気持になったが、どうしても、手がかりが欲しいので、国分基地の当時の戦友、福岡県の久原 滋様(予科練出身)広島県の木松葉治様(予科練出身)に新開記事を送り、戦時中のことを思い出して貰った。ところ、木舩さんからのお便りで『昭和十九年十月から二十年一月にかけて、内地、台湾、比島間を、彗星部隊や諸隊が前線進出ならびに移動の途中で、エンジン不調により徳之島飛行場に不時着したのだと思います。故障機の修理部品や整備員を保有していた一番近い部隊は国分基地であったので、要務飛行で徳之島へ行かれたか、あるいは藤田中尉も国分から索敵のため沖縄海域を飛行していて何かの事故で徳之島に着陸された可能性も考えられます。木舟さんも徳之島に派遣されたことがあるそうです。

徳之島の多賀屋

その後私は、平成八年四月二十二日にとり行われた国分特攻機発進の地の慰霊祭に参列したついでに、鹿児島発十四時二十五分日本エアシステムにて徳之島へいきました。この日は快晴、コバルトブル−の鮮やかな海、思いは五十二年前に飛行した兄の時は、どうだっただろうかしらと涙がこみあげてきました。

 五十分ほどの空の旅、美しいサンゴ礁に囲まれた徳之島に着き、空港からタクシーに乗り「天城の多賀屋さん」と云うと、すぐにわかって、二十分位のところでした。玄関を入って、まずおかみさんに会いました。新聞で拝見した神田スミ子さんとすぐにわかり、来意を告げますと、お部屋に通され、別室から保存袋に入れられた当時の、宿帳を出して下さった。保存袋は近年町役場から支給されたとのことで、宿帳の表紙は、白板白紙で、「芳名録、昭和十九年以降、神田」と記してあった。

遺墨との対面

古ぼけた宿帳を一頁ずつ開いていくうちに、そしてあまり上手とは言えない筆の字で「海軍中尉藤田春男」と書いてあるのを見つけ、壊しい、兄の遺墨に万感の思いで合掌しました。「やっぱり兄さんは徳之島に、昭和十九年十二月二十三日に、宿泊していたのだ」と心の中で叫びました。

 取材にきた毎日の記者に、神田スミ子さんが宿帳を開いて見せた頁が、全くの偶然で、私の兄のところだったのです。このことを伺い、五十二年間もしまわれていた宿帳が、開かれて、そこに兄の筆跡があったというのですから、本当に奇跡としか、いいようがありません。

宿帳には、陸軍少将をはじめ、福岡県の知事、陸海軍の方、多勢記帳され、また国分基地の飛行長海軍少佐江問 保様(海兵六十三期)やお便りを下さった木舩さんも、書いてあるのを発見し、写真を撮らせていただきました。

 神田スミ子さんは、多賀屋の二代目、現在七十才で、スミ子さんのお話では、出撃する特攻隊員の方達と、夜は皆で歌を歌ったりしたそうです。戦意に満ち満ちた方たちが、翌日は宿の上を低く飛んで、ハンカチを振りながら出撃していったとのことでした。
 現在は旅館よりも、ダイバーリゾートとしての神田マリンの方が有名で、スミ子さんは、息子さん、孫さん達とやっておられ、宿は昭和二十年四月の空襲で、焼失しましたが、幸い「宿帳」は難をのがれたとのことです。

 戦後、徳之島は、アメリカの軍政府下におかれ、昭和二十九年日本に復帰した。その時に、戦前の場所から海岸の方に建て替えられたので、兄の宿泊した宿の姿は残っていませんでした。

 徳之島は、周囲八十四kmで、山もあり、各家々には、パパイヤが植えられ実を付け、ハイビスカスが咲き、まさに南の島と云うところです。兄は、南洋群島のバラオ島で生れ、沖縄、サイパンと、(父の転勤で)移り住み、きっと、一夜だったでしょうが徳之島で南国を味わったことでしょう。

翌日私は、戦艦大和の沈んでいる「犬田岬の慰霊塔」に額づき、帰りに、又多賀屋さんに寄り、もう一度、兄の遺墨に別れを告げ徳之島をあとにしました。

(なにわ会ニュース76号21頁 平成9年3月掲載)

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