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深井良の最期の分る記事

 編 集 部

 第九銀河隊でエンジン故障により帰投した辰口尚氏(甲11期)は後にK501で荒木氏(操縦)の銀河の偵察員になったそうです。辰口氏は既にお亡くなりですが、第九銀河隊出撃の様子を手記に残されていました。甥の深井紳一氏がみつけられました。同氏が探し求めていた貴重な記録です。原文のまま転載します。

 第九銀河隊出撃の日

最後の面会

特攻隊に編入されると家族との面会が許可される。隊員は全国にわたって居るので近くてあればともかく、私のように郷里が遠い者は帰る事が出来ないので、面会に来るように手紙を出した。幾日か経て父親がはるばる面会にやって来てくれた。二年振りである。汽車の切符をようやく買い求め、途中空襲に遭い、汽車を何度か乗換え三日がかりでようやく来たという。なにか歳老いてやつれて見えた。近くの旅館に案内し久し振り親子水入らずの話が咲いた。物資欠乏の折りだったのに子供の為ということで、砂糖キビを絞って作ったという、おはぎを重箱に一杯詰めて来て呉れた。此の時ほど親の有難味をつくづく感じた事は無い。故郷の味を涙と共に味わった。航空部隊、特に第一線の航空部隊は給与が良い上、特攻隊に編入されるとそれにプラスアルファーが付く。酒ビール等飲み放題と言って良いくらいで、酒好きの父だったのでこの際、平素の親不孝のお詫びとばかり二、三日泊まって貰って飲んで貰った。此の間、事情は父に話さなかったが私の写真帳、私物等整理して父に持ち帰る様頼んだ。父も薄々感じとったようであり、土産にはウエスキー・ビール等持てるだけ持たせた。人間、逢うは別れの始めという。父親を駅迄見送ったが、これが見納めかと思うと辛かった。逢いになぞ来てくれなければ良かったのにと、つくづく手紙を出したのを後悔した。戦後九死に一生を得て帰ったが、あのウイスキーやビールの味はつくづく忘れられないと、今は亡き父が述懐していたのを思い出す。

 

特攻出撃前夜

父に逢い、私物も整理したので、今や思い残す事は無く、出撃を待つばかりであった。その日は今でも忘れる事はできない昭和二十年五月十日である。いよいよ我等三十名の宮崎基地進出の命令が下り、即日苦しい訓練の思い出の美保基地であったが、総員の見送りを受けて十機編隊で勇躍出撃した。箱庭の様な美しい瀬戸内海を眼下に見下ろしながら宮崎基地に着いた。さすがに此処は最前線の基地である。飛行場のあちこちに爆弾の穴があいており、基地の空気も美保と違っている。着陸に際し梨本兵曹(怪我をしてペアが変わったもの)の機が爆弾の穴に入り脚を壊して、先ず脱落し九機になってしまった。指揮所の前に整列し隊長の深井中尉が司令に到着の報告をすると、明十一日午前中に沖縄に出撃する旨命令された。士官バスに乗せられ飛行場から少し離れた宿舎に案内され、隊員全員で作戦を練った。此処では日の丸鉢巻から下着の褌に到る迄の一切新品の物が支給された。いわゆる武士が戦場に赴く際の例に倣った死装束である。その日の日中は指示も有って、肉親宛てに遺書を書いた。遺書については戦後種々の雑誌に出版されているが、あれを見ると身につまされる思いがする。私は両親宛てに書いたが、その中に爪と髪の毛を切って入れた。さて夕食ともなると酒・ビールは勿論あの当時の御馳走としては最高のものが並べられた。私はその方の訓練も成果が上がり相当いける口になっていたので、隊員と一緒に飲み、かつ食い、元気を出して歌ったがさっぱり酔わず、折角の御馳走も全く味は無かった。明日の死という事が頭にあるからである。恐らく他の隊員も同様であったのでは無いかと思う。最初に比島沖に出撃した敷島隊の関大尉の映画を見た事が有ったが、その姿はいかにも元気がなかった。なんだ、私ならと思って居たが、今その立場になると、その姿が判る様な気がし、生への執着がいかに強いものか知った。最後の夕食も終わり、明日早いからと言われたが寝る気にもなれず、神津一飛曹を誘って宿舎を出て付近の山野を歩いた。九州の山野は戦争とは無関係に新緑に包まれており、綺麗な月が印象的に輝いていた。

 

出撃途中発動機故障

翌十一日午前六時起床、すがすがしい朝だ。前夜はアルコールのせいかぐっすりと眠る事が出来た。気分は誠に良い。覚悟が出来た為か朝食は美味かった。支給された新しい衣服に着替えて飛行場に向かった。飛行場ではすでに滑走路に出撃する九機が並べられており、整備員がごうごうとエンジンをかけ最後の点検をしていた。又他の整備員が八百キロ爆弾二発を胴体の下に取り付けていた。合計一トン六百キロの爆弾である。鹿屋では飛行場のあちこちにB29の爆撃で穴があいていて、その中で直径二十五メートル位の大穴があったが、五百キロ爆弾の穴と聞いていた。その三倍以上の威力が有る訳である。いかに不沈艦と言われる戦艦でも一発必中すれば轟沈である。午前七時五十分指揮所前に整列すると、司令から「諸君の死は無駄にしない、神州不滅を信じ潔く散ってもらいたい」と訓示があり、予め用意されたテーブルの上にするめ、勝栗等が並べられており、司令の「御成功を祈る」との音頭で冷酒を乾杯し、隊員一同「行きます」と司令に挨拶し、それぞれの愛機のもとに駆け足で散った。私は酔ったりしては困ると思って冷酒には一寸口を付けただけであった。土を踏むのも、これが最後かと思うとその感触をはなしがたかった。操縦員の神津一飛曹のエンジンテスト中付近に咲いている草花を手折って東方の遥か宮城に向かって最敬礼し、整備員に挨拶して機上の人となった。整備員の真心込めた整備により調子は上々である。特攻隊長の深井中尉の合図により総員見送りの中を発進地点に移動し、隊長の一番機から発進離陸し、全機編隊を組んで飛行場で別れのバンク(翼を上下に動かす事)をして沖縄に向かった。途中鹿屋飛行場の上空を通り、桜島の横をかすめて洋上に出たが、鹿屋飛行場ではおよそ百五十機か二百機の戦闘機が飛行場一杯になり、砂塵を上げてエンジンテストをしていた。戦闘機は足が早いので後刻発進し、我々を追い越し沖縄の米軍飛行場を叩き一時的に制空権を取り、そこに私等の特攻機が突入する事になるのである。日本はまだまだ負けるもんか、と実に頼もしく、且つ心強く思った。洋上に出ると高度を六千メートルに上げ、硫黄島※の上空を通過した。三十分もすると寒さが身にしみてくる。沖縄まではまだ遠い、仕方なく二千メートルに下げる。「銀河」は足が速いので途中陸軍機等何機か追越して行ったが、見るといずれも日の丸鉢巻きをしめている。この人達も特攻隊員に相違無い、お互いに成功を祈って手を挙げて挨拶を交わした。あの人達はどうなったろうか・・・。愛機は約二時間位順調に飛んだ。図面からすると沖縄迄の三分の二くらいの地点に来ると右発動機が時々パーン、パーンと言い出してきた。神津兵曹に「どうした」と声をかける。暫くして「どうもおかしい、左右エンジンの回転が七、八百違ってきた」と言う。更に「沖縄迄大丈夫か」と問うと「自信がない、仮に行ったとしてもこんな回転が違っていては命中はむずかしい」と言う。残念だが仕方ない。行くか行かざるべきか協議したが、結局基地に連絡し指示を受ける事になり、無線で“ミハコ””ミハコ“を打電した。(右発動機故障の略語)暫くすると”カエレ“”カエレ“の返事が基地からきた。この時程ホットした事は無かった。死んだ隊員や遺族の方から不謹慎と怒られるかも知れないが、生きる事が出来るようになったんである。人間生への執着をこの時程痛切に感じた事は無かった。今でも時折夢を見るがあの経験は二度としたくないものである。後談であるが、私等が基地に着いてから聞いた話によれば、私等が反転基地に向かってから一時間位して他の一機が同様発動機故障を基地に打電して来たが、沖縄迄の道のりが半分以上になっていたので”ユケ“”ユケ“の指示が出たと言う、お前等はよっぽど運の良い奴よと言われた。この飛行機は飛び切れず途中の名もない小島の付近の海に不時着し、潮流の関係で島に泳ぎ着く事が出来ず全員死亡したと言う。全く紙一重の差である。基地になんとか辿り着くと、早速無線室に飛び込んで僚友の戦果いかにと見護った。午後一時頃だったと記憶している。前後して自分の機名と「コ」又は「セ」を連送し、最後の長符を引きながら突っ込み散って行った。私の数えたのは六機であった。

「コ」連送は航空母艦に突込むという符号。「セ」連送は戦艦に突込むという符号。長符は突入中電鍵を押しているので出ているもので、突入するか撃墜されればこれが止むのです。この時の戦果は戦後米軍の発表によると空母バンカーヒルは特攻機の命中により大破している。突入した隊員の名前を紹介すると

神風特別攻撃隊第九銀河隊

中尉    深井 良 隊長、鈴木 圓一郎、村上 守、少尉    山川 芳男

上飛曹   北山 博、谷岡 力、俵 一、小畠 弘、三宅 文夫、田中 栄一

一飛曹   松本 学、山根 光男、杉野 三次、伊藤 勲、佐藤 昇、吉田 雄

二飛曹   信本 広夫、

飛長    長谷部 六郎 

以上十八名である。

※ 鹿児島県の硫黄島

 

次回特攻隊から除外される

  5月十一日の特攻から生き残ったのは私等のペアと、最初宮崎で飛行機を壊して脱落した梨本兵曹のペア六名だけであり、早速次回の特攻員に回される事になって、新たに編成された隊員と再び激しい訓練が始まった、確か五月二十三日と記憶している。敵の機動部隊が九州沖を目指して侵攻しているという情報が入り、これに向かって突入する事になった。さて今度こそ終わりかと最後の美保基地の夜、外出が許可された。夕方外出用の士官バスに乗った所「辰口兵曹降りろ」と言う声がする。バスから降りて「なんで降ろすんだ」と言うと「お前はペアから外されたんだ」と言う。私も不満足ながら一人前の搭乗員になってきたので未熟の若い搭乗員が指名されたのである。この時もホットするやら複雑な気持ちになった。これを契機に本来の雷撃の方に回された。神津、梨本兵曹を含めたこの特攻隊員は二、三日後九州から出撃して行き、確認機が無いので戦果は不明であるが全機突入して全員壮烈な戦死を遂げた。従ってこの特攻隊員となって生き残ったのは私一人である。そのためにも本当の気持を赤裸々に皆さんに訴え、戦争と言うもの知って頂ければと思って書いた訳である。

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