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平成22年4月28日 校正すみ

福田 英の戦死の現場を訪ねて

 福田 文枝

 

昭和20年4月30日、空襲警報、そして敵機来襲に出足をにぶらせられて相模鉄道二俣川駅へ下車したのは正午過ぎであった。

お父様と私と美智子さん(同居の女子医専学生)の3人は、初めての土地とて、とも角国民学校で聞けば、と思い、近くの二俣川国民学校の門をくぐり、校長先生に会い来意を告げると、それならばと現場近くまで帰宅する女の先生に道案内をさせて下さることになった。そして「誠にご立派な戦死でございます。が、惜しいことを」と慰めて下された。

女の先生は自転車を引きながら、私達を案内され、途中当日の空中戦の模様をいろいろとお話し下さった。4月19日午前10時頃、英の飛行機が敵機を捕捉して空中戦が始まったため、警報と同時に帰路につかせた学童達は機銃掃射をまぬかれ、町民は非常に感謝していること。前回の空襲では学童めがけて機銃掃射をやったことなど話された。それを聞いて私も英の攻撃精神が学童を守ったことを知って大いに慰められた。  現場は隣接の白根町とのことで3人は温い陽ざしを背に浴びつつ、いろいろな話をしながら、蓮華草の咲き乱れる田舎道を歩いた。

 

先生はまず当日、英の遺体を収容し、供養して下されたお寺、正円寺に案内して下された。小高い石段を登ると目もさめるような緑の麦畑を背景に、いともささやかな簡素な本堂が明るく建っていた。先生は庫裡の戸を開いて「先日の戦死者のご遺族の方です」と紹介されると、「ようこそ、さあ、お上り下さい」と本堂を開かれたのは背の高い住職の楠正康氏であった。

私達がまず現場へと申出たので、心よく「では早速参りましょう」と令息の少年に花を切らせ、ご自身は線香と水桶を手にさげて先に立たれた。当日、英戦死の後始末万端を世話して下さったという斉藤英司さん、また英司さんと一緒に現場にかけつけてお世話下さったという警防団の方も、百姓の仕事着のまま一緒にお供して下さった。山添いの道を登り行く程に山懐ともおぼしき雑木林の一隅に白木の塔が建っているのがいち早く、私の目に入った。私達は此処が遺体の横たわっていた場所だと聞かされ、私は堪えきれず声をひそめてすすり泣いた。

「英ちゃん、よくぞ戦ってくれました。敵幾4磯と渡り合い、さらに4機を加えた敵機群の真只中に続く寺島二曹機とともに突入して勇敢に戦った由、日頃練習の自信も多勢に無勢、さぞ残念だったでしょう」私は当日の戦斗を頭にえがき、万感胸に迫り、あたら23歳の若さで、この地に戦死を遂げたわが子を思い、英の霊魂よ、永久に安らかにここに眠らんことを……と祈りつつ泣けるだけ泣いた。

白い塔の塚の前には彩とりどりの花が、今もなお清々しく捧げられていた。私達一同は英の写真を塚の上に捧げ、お線香をたき、水を注ぎ、住職の読経とともに静かに冥福を祈った。私は白木の塔を今一度見つめた。

「故海軍中尉福田英慰霊塔」と鮮やかに書かれていた。

住職や警防団の方々が交々語る所によると英は右手でしっかりと操縦杵を握り、右脚をまげて上向きに構えていた。飛行服は焼け腹巻きまで半分燃えていた。右頭蓋骨は大きな弾痕で打ち貫かれ、いかに善戦苦闘したか想像される戦死であったとのことであった。特に住職は体格が大きく立派な方で驚いたと話された。私は生まれた日から苦心して立派な体格に育て上げ、今、お国のために最も役立つ戦斗機搭乗員にと仕立てたことを追想し、また泣けて来た。警防団の人は当時の見た戦況をこう語った。

「何しても8機の中へ2機だけで突進した。初め敵3機を追って激しく弾丸をうち合い交戦中、英中尉機が大きく旋回すると、その後方から敵4機が追いかけて弾丸を集中した。

3、4百米の低空のことで、ひどい爆音であったが、その時の命中弾で機は空中分解し火だるまとなって落下して来た」と。

一同は道のない崖をよじ登って搭乗機雷電の墜落現場に行った。立木は(あか)く焼かれ、今でも機体の破片が散乱して無惨な有様であった。身体重さで自ら開いた落下傘は遺体の横たわっていた側の樹にふわりと掛っていたそうである。

私達は町民の方々のご厚志に厚くお礼を申し上げ、慰霊塔に()しい別れをつげ、お寺に帰った。楠住職は衣を改めて再び読経して下され、私達は次々と霊前に焼香した。私にはこのお寺の住職の名が楠ということが奇縁のように思われてならなかった。英の父はそのころ、英の帰宅が遠のいていたので厚木航空隊へ面会に出掛けた。その時始めて猪口司令から英の戦死を知らされた。その戦斗は突然の急襲のため不利な立上りで多勢の敵機の中に迅速に飛び上った2機だけが突入することになったとのことで、英の戦死も湊川の戦と同じ心境だったろう。さぞや無念であったろうと、英をあわれんで幾度も泣いた。

思えば英の父は航空隊から帰宅していわれた。「英は不在だったよ、前線に征ったよ。厚木の雷電隊が皆出動したのだから、おそらく特攻隊だろう。今度という今度は再び生きて逢えると思ってはいけないよ」といったのである。そういわれた私は「ああ遂にその日が来たのだ、かねての覚悟ではあったが、あの逞しい、あの何事にも正しい英が再び、只今〃 帰りました〃‥と大きな声で入って来ることはないのであろうかと思い、月明の庭に出て、英よ、戦場の空を翔けめげる英よ、武運永久なれと祈って泣いたのであった。

それでもおろかにも英は運のよい子だ。1月27目の不時着ですら生命の助かった子だ、また今度も武運よく帰って来ぬでもあるまいと心秘かに還る日を念じて家の中に入った。

その次の日、2人の水兵さんがひょっこり玄関に立っていた。「福田中尉の荷物を持って来ました」という。はては何と手回しの早いこと、さては前線の基地、特攻隊へでもと思いまどう私の前で水兵さんは「軍刀はこれが福田中尉のでありましょうか、何しろその日は多数の戦死者があって、中尉が軍刀を持って行かれたかどうか分りませんので。」私はハっと驚いて水兵の顔を見守った。見られた水兵さんは却って驚いたらしく、ポケットから1枚の紙をとり出して「遺品目録はこれで」と、しどろもどろの態でいった。私は全く晴天のへきれき、限が暗んでしまった。遺品〃遺品〃・・英は戦死してしまったのか〃‥水兵はまた別に1枚の名詞を差出し、これはクラスの大山中尉からです。その裏面には英戦死のことが細々とかかれてあるらしいが、全く読みとる勇気がなく、水兵さんにご苦労様といって、遺品をだき抱えて応接間にかけこんだ。英の軍服、軍帽そして帯剣をしっかり胸に抱きしめて、泣いて、泣いて、泣きくずれた。ああ遂に戦死してしまったのか、英はもう還らないのか。

過ぐる4月10日に帰宅したのが最後であった。あの風雨の激しかった一日、英は帰宅して楽しい一夜を過した。あの日が思い浮かばれる。夜は父と酒杯を交し、例の戦斗機節を歌い、父と将棋をさし、元気よく話して2階で眠り、翌朝早く起きて大雨の止んだまだ薄暗い戸外に出て、「少し遅れた。駆け足だ」

「では行って参ります」そして、いつものようにきちんと挙手の礼をして出て行ったが、ひょっこり立ち止り、私の方に向き直って、「さようなら」といってさらに私に挙手の礼をしたのが今もハッキリと眼にうつる。あれが最後だった。

その日夕刻帰宅した父は、英の遺品の取出されたのを見て、初めて自分は2日前に英の戦死を知っていたことを話し、次の日には横須賀に至り、英の遺骨を拝して帰ったが、それでもひたかくしにかくしていた2日間、泣けて、泣けて、仕方がなかった、切なかった胸をうち明けられたのだった。しかし、やっとお前と2人で話し合えるようになったといい出されたので、私も英の戦死を確認してともに泣きあかしたのであった。

その日から3日目、私達は戦死の現場を尋ねたのである。住職初め、皆さんが立派な戦死をたたえて下さったが、親の身の悲しみは言葉で慰めえられるものではなかった。

お寺を出ると英司さんの宅で夕食の用意ができていますから是非に、とのご厚意で、3人で夕食をご馳走になり、帰路についた。途中町会長斉藤さんの宅に案内された。慰霊塔のある山の地主さんなので、ご挨拶に上ったわけである。斉藤さんはこういう話をされた。

「あの山は郷土史にも、私共の子供の頃からも福田山と呼ばれていました。そこで敵機と戦斗して下さった福田中尉が戦死されたことは何か深い因縁があると思われますので、私は永久にあの慰霊塔を残しておきたいものと思っています。」

過る4月22日には、英のために町民の慰霊祭が戦死の現場で行なわれ、この山里の町でまだ嘗ってない程の人が集ってお参りして下されたとのことであった。ああ斯くも素朴な人々に慰められ冥福を祈られることは何たる幸福であろうか。

日没前に斉藤さんの家を辞し、西谷駅についた。村人は親切にも私達を駅まで見送ってくれ、竹の子やその他の郷土土産を沢山もたせてくれた。

私達は英の戦死の現場を尋ねて、英が祖国のために奮戦敢闘し、身を以って示した報国の精神がこの地の人々に感銘を与え、その心の中に生きていることを知り、明るい気持ちをとり戻し、悲嘆のどん底から立ち上ることを心に誓って私家に帰りついた。

(注)私共は英の墓を戦死の地白板町の正円寺境内に定め、終戦の日、20年8月15日、遺骨をここに埋めました。横浜駅からバスで池田行に乗車、白板小学校前下車、徒歩5分位の所であります。電車ですと「鶴ケ峯駅」から近いです。

(なにわ会ニュース15号27頁 平成43年5月掲載)

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