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平成22年4月28日 校正すみ

福山正通少佐を想う

豊廣  稔

 

国のため盡す命を惜しまねど

唯気にかかる国のゆくすえ

これは福山正通中尉が神風特別攻撃隊金剛隊員として比島マバラカットに飛ぶ直前、昭和1912月の後半20日間ぐらいを台南航空隊で隊員の錬成訓練をしながら待機していた折に詠んだ辞世の歌である。たまたま同時期に同じく比島のセプ基地から台南空に補充の飛行機と搭乗員を受け取りに飛んで来ていた第804飛行隊分隊長高木 昇大尉(予学飛9期)が金剛隊員を含む零戦搭乗員達に降爆訓練の手ほどきをした関係から別れに際し、死に行く金剛隊の士官ばかり15名に対し、自分が首に巻いていたマフラーを外して寄せ書きを求めた。その中に右の福山の歌が含まれていた。高木大尉は夜戦月光(二座)を主休とする飛行隊の歴戦の分隊長だったが、その後内地の航空隊に配属替えになり、武運めでたく復員、マフラーを持ち帰った(高木大尉は現姓沢井氏、奈良県吉野で薬局を経営されている)。そのマフラーの寄せ書きに関するドラマチックな出来事が、昨年7月刊行された(私家版)『風立てば  続・続・続海軍あれこれ』という本に掲載された。私は友人K氏(高木大尉と同期)に、このことを教えられ、著者の大町 力氏(予生飛1期)を紹介された。

著者から本の寄贈を受けると共に、「なにわ会ニュース』に福山中尉と金剛隊員たちの記事を紹介することの赦しを得た。大町氏は自他共にゆるす「海軍の語りべ」であるようだ。

神風特攻隊員・福山正通中尉が残した足跡ともいえる冒頭の歌に私はいたく感動させられた。これまで福山に関することは『なにわ会名簿』に記載されている、昭和20年1月6日、第19金剛隊員としてリンガエン湾の敵艦船群に突入(特攻戦死・戦闘機)。という程度にしか知らなかった。

この歌が福山の胸のうちで特攻隊員拝命以来ずっと熟成をまっていたものか、あるいは求められて即座にひらめいて出来たものかは勿論知らない。しかしあまりにも素直な詠みっぷりで、特攻隊員の心情がストレートに私の胸に伝わってきて思わず目頭が熱くなった。

福山のことを「なにわ会ニュース』に書くには、せめて墓参ぐらいはしなくてはいけないと思いたち、昨年の11月中旬、奈良県山添村の福山家を訪問した。昭和58年に厳父政之氏(元陸軍少佐)が亡くなられ、現在は令弟正昭氏(昭6生)御夫妻の代となっている。

母堂もとえ様も御子息夫妻の許に同居されている。86歳(明35生)の御高齢ながらお顔の血色もよく少しお腰が曲られたが大変お元気であった。「正通に御供物をありがとうございました」と幾度も礼をいわれた。おたずねして本当によかったと嬉しかった。先の大町氏の本「風立てば』と福山家で見せていただいた故人の手紙、遺書、遺文、休暇記録などと防衛研究所図書館で閲覧した戦史資料をもとに本文を構成したいと考える。

○マフラーへの寄せ書―金剛隊の若桜たち―

昭和1912月半ば時点での福山中尉から先にとらえることにする。高木大尉については前に紹介したのでダブリを避けて途中から『風立てば』の記事の紹介に入る。
 (注『 』の部分が本″から引用、分隊長とは高木大尉のことである)。

『・・・レイテ沖海戦の頃、毎日同じ顔ぶれながら戦闘が2ケ月も続くと飛行機も搭乗員も消耗して来る。残存勢力が20機ほどになった時、隊長が悲鳴をあげた。

「分隊長、台南に新品が届いているそうだ。すまんが、飛行機と搭乗員をしっかりつかまえて来てくれ」

1220日、台南空に来てみると、ナルホド、零戦やら搭乗員が大量に届いている。だが、搭乗員はいずれも100時間か150 時間ばかりの飛行時間の保有者で、とても実戦には使えない。急降下をやらしてみたが、突っ込み角度が浅く、2000 ぐらいまで降下して来ると20 度ほどになってしまう。速度がつくとスティックを押さえきれないから機首が上がって来るのだ。

「もっと深く40ぐらいで突っ込まんと駄目だ。戦闘機でやるより、艦爆で後席から指示して角度を覚えこまんとモノにならんぞ」

思わず口走ると、隣に一航艦先任参謀の猪口力平大佐( 52 期)がいた。

「キミ、なかなか見えているな。キミのところの搭乗員と、今日やって来た零戦の連中に突っ込み角度を覚えさせてくれんかね。僕が804へ連絡して10 日間キミを借り受ける。どうかね」

先任参謀のお声がかりでは断れない。セブへ帰るのを延ばして、九九艦爆の後席から「もっと突込むんだッ」と指導に当った。

高木大尉がセブに帰る日、201 空、金剛隊の金谷大尉(真一・ 71 期)以下56名の戦闘機乗りがマバラカットへ転進する日であった。高木大尉の操縦する月光に誘導されて12 31 日、戦闘機隊の第120 機がバシー海峡を渡った。

マバラカットに着けば直ぐに出撃となる。再び還ることなき身でありながら、彼らの顔には何の曇りもないばかりか、輝いているようにさえ見える。たのもしい奴らだ、と感嘆する反面、若い命がまた消え行くのかと思うと、たまらない悲壮感が湧いて来る。

「会ったばかりだが、お別れだな」

高木大尉は首に巻いたマフラーを外して言った。

「俺が先か、貴様らが先か、どっちにしてもお互いそう遠い先のことでもあるまい。俺のマフラーに貴様ら何か一筆ずつ書け。これを首に巻いて貴様らと一緒だと思うと俺も心強い」

高木大尉は生き残ったが、マフラーに一筆ずつ記した15 名は、(むら)()弘中尉(予学飛13 期)を除き、すべてリンガエン湾口に散って行った。そして純白のマフラーだけが高木大尉の手許に残った……。

金剛隊で特攻死を遂げた139 名の中の士官は65 名を数える。このうち予備士官は59 名で 12 期出身の1名を除く58 名が 13期出身である。高木大尉のマフラーに遺文を寄せた15 名の士官も兵学校出身の2名を除く 13 名が13 期出身であった。15 名の人々の名前と遺文は次の通りである。

神風特別攻撃隊第18 金剛隊(20 ・1・5出撃)

大尉 金谷 真一(71期)

中尉 長井正二郎(予学飛13 期)

  井上  啓(予学飛 13 期)

 

神風特別攻撃隊第19 金剛隊(20 ・1・6出撃)

中尉 福山 正通(72 期)

  山下 省治(予学飛13 期)

  永富 雅夫(  〃   )

  磯部  豊(     )

  富沢 幸光(     )

 

神風特別攻撃隊第22 金剛隊(20 ・1・6出撃)

中尉 鹿田 豊吉(予学飛13 期)

 

神風特別攻撃隊第25 金剛隊(20 ・1・9出撃)

中尉 村上  惇(予学飛13期)

 

神風特別攻撃隊第30 金剛隊(20 ・1・6出撃)

中尉 高島  清(予学飛13 期)

  井野 精蔵(     )

  小林武 雄(     )

  小林 秀雄(  〃   )

  (むら)()  弘(     ) 生存

 

井上中尉の「玉砕」、山下中尉の「必中」、永富中尉の「轟沈」、磯部中尉の「唯死」など遺文からは自らを省みず、自らの死によって祖国の安泰を願う(たましい)の叫びが聴こえて来る。

だが、金谷大尉の「空」には「考えることはひとつもない、すべてを空にして俺は往く」という気持ちも察せられるが、私には何もかも空しいと読みとれてならない』

 

長井中尉の「新高の御山仰ぎて立つわれに

                  まだ来ぬ秋やすでにいぬらん」、

富沢中尉の「北の熊今日ぞ忠死の撲り込み」、

虞田中尉の「不惜身命」、

村上中尉の「必中・必殺」、

高島中尉の「唯祖国の栄光を祈りつつ」、

井野中尉の「嵐吹く秋ぞ散りゆく若桜 春来る日の御代を思ひて」、

小林武雄中尉の「死生一如」、

小林秀雄中尉の「大死一番」、

(むら)()中尉の「天皇陛下萬歳」となっている。

それに福山中尉の冒頭の歌である。

 

マフラーは本誌が刊行される3月には沢井氏と大町氏の手により靖国神社資料館に奉納されることになっているが、しばらく私の手許に預からせていただいた。流石にそのものは少し黄変してはいるが、墨書された文字は44 年前と少しも変らず不思議な迫力を以って見る者に迫って来る。墨の(にじ)んだ跡、墨汁が飛び散った跡、腰の弱い絹地に書きにくそうに書かれた文字、眺めていると若い15 人の金剛隊員達と相対しているような気持になってきて感無量である。

因みに川越は福山と一号が同分隊(56 分隊)であと飛行学生が一緒、いずれも戦闘機乗りとなり、片や筑波空へ片や元山空へ別れていたが、台南空で再会した。前記のマフラー寄せ書き″と同じ時機である。福山中尉は川越中尉より早く着いており飛行訓練の真最中だった。  別にあらためて話すこともなく、どうせ死んだら國の宮でゆっくり話し合うことができると思っていた。川越中尉の方が先に比島に発つことになった(12 19 日)。「先に行くぞ」というと福山は「しっかりやれ」と言った。先に行くとは靖国の宮のことだった。「先に行った方が階級が上になり威張れる。と二人は笑い合って別れた。

44 年を経て、死生命あり論ずるに足らず″と川越は長嘆息した。親友福山と生死を分けてしまったからだ。

 

○福山正通中尉の航跡

さて、福山が兵学校卒業後どういう経路を辿って台南空にやって来たのか、その航跡を少しく後づけてみる。

昭和18 年9月15 日海軍兵学校卒業の第72 期、625名中、306 名が第41 飛行学生として霞ケ浦航空隊へ入隊した。約6ケ月の霞空の練習機教程を終え、引き続き約5ケ月の実用機教程に入ったが、福山は神ノ池空で戦闘機の教程を修めることになった。そして昭和19 年7月末、すべての飛行学生の教程を終了し、第1線配備となった。福山は直ちに元山空に配属となり、9月15 日には中尉に進級した。元山空は練習航空隊であった。福山は元山空着任と同時に教官配置となった。

 

元山空で飛行作業にいそしむ福山中尉に母上から手紙が届いたのは11 月の初めごろである。

 

正通、その後は如何ですか、定めしお元気で責務に励んでいることと存じます。御地は最早やあたりは霜枯れて寒気も厳しいことでしょう。外套は到着致しましたか。南方の重苦しかった霞も払われて次ぎ次ぎに大戦果が報ぜられて誠に慶賀なことです。しかし数多の未帰還機、自爆機の搭乗員は皆若くつぼみのまま散って行かれたのでしょう。

この世に生を享けて20年そこそこ、勉強と訓練との生涯を花々しく閉じたってわけですね。神風攻撃隊の敷島隊の隊長はあなたより2期先輩ですね。一戦は一戦毎に後輩のあなた達を引寄せて呉れるのですね。必勝の信念に突き進んで行かれた先輩に恥じない様に頑張って下さい。弟鷲も余程羽達者になりましたか。(中略)

正昭は今日から陸幼の学科試験です。1日としてそのための勉強をして居るのを見たことがないのですから不勉強はあなた以上ですね。大門のビルにカミソリの刃がありましたから高貴薬と一緒に送ります。

そして正昭の服にでもと奈良から持ち越して居た毛糸をあなたのために使って靴下1足編みました。妙な編み方をしたので、はくとしっくり食い付いて好さそうです。はいて見て下さい。飛行作業の時はこの上へ木綿のをはくと好いでしょう。では寒気おいとひなさい。

1029日       母より

 

正通様みもとに 

11月1日投函

 

○金剛隊編成の背景と経過

防研図書館戦史資料によれば、昭和1911月中旬といえばレイテの増援が思うようにいかなくなり始めると共に、次に敵が指向して来るのは中比以北であることが敵信により徐々に明らかになりつつある時期であった。

即ち1110日大本営海軍部が入手した情報は、

「ウルシー・マリアナ方面に有力艦船集中シアリ、通信活発(新作戦名称出現)」とか、

「大攻略作戦開始ノ疑アリ、20日前後警戒ヲ要ス、指向方向ハ中比以北」というものであった。

一方、在比島の―福留中将は16日、前記海軍部の判断に対し「中比以北ニ新攻略作戦ノ場合(船団100隻卜仮想)海陸ヲ合シ約300機ノ協力アレバ機動空母ヲ制圧撃破シツツ船団ヲ潰滅シ得ル算アリ」

「航空兵力ノ急速増強ヲ非常措置ヲ以テ促進スル要アリト認ム」との意見具中電を軍令部次長と聯合艦隊参謀長宛に打電している。

福留中将の意を承けて、大西中将は首席参謀猪口力平大佐を帯同して18日夕刻入京した。目的は福留中将の前記意見具申電を具現化するためであった。大西中将は日吉の聯合艦隊司令部をたずね豊田大将に会い情況報告ののち同夜軍令部に出頭し、及川軍令部総長以下関係者に意見具申した。その主旨は第十四聯合航空隊(台湾)の艦爆、戦闘機で計50機の抽出が可能であることを例にあげ、これからすれば練習航空隊から全部で200機ぐらいは抽出できるのではないかと胸算し、これを敵の来攻時までに北部台湾に伏勢待機させておくという自己の考えをのべた。大西中将はまたここ1〜2週間が重大時期である旨を述べた。

この大西中将の提案をうけて、海軍部・源田参謀が翌1119日、航空本部、海軍省人事局の関係者と打合せている。結果は内地教育隊から教育を一時停止するならば、零戦、九七式艦攻、九九式艦爆等180機の抽出可能の見込みであるという言質を得たので、最終的に軍令部と海軍省が協議して「零戦特攻隊150機を練習航空隊から抽出すること」が短時日のうちに決定したのである。

大本営海軍部は同日、海軍次官、軍令部次長の連名で、聯合艦隊司令長官、第一聯合基地航空部隊指揮官及び練習航空総隊司令官に次のように通知した。

(まる)(だい)兵力(注神雷部隊)現地進出迄北非方面ニ対スル敵ノ新攻略作戦ニ備へ1120日付第二〇一海軍航空隊へ艦戦特攻隊150機臨増セラレタシ

右兵力ハ練習航空隊教官教員及教育用機材(14聯空〈注台南高雄空>40機、筑波空30機、元山空30機、大村空20機)ヲ以テ編成セラレタルモノニシテ爆装工事実施後11月末迄ニ台湾方面ニ進出可能ノ見込ナリ。尚○大兵力進出後ハ右兵力ハ原隊ニ復帰セシメラルル予定」

(大海機密第201351番電)

 

右の兵力は12月4日以降、新竹、高雄、台南の所定基地に分散進出、5日の時点で台湾に勢ぞろいした兵力は97機であった。とあるから、福山中尉もこの頃に台南空に到着したものと思われる。

 

○福山中尉機、元山空を発つ

福山が元山空に配属されてからわずか4ケ月にも満たないのにもう福山中尉の身上に異変が起きる。即ち昭和191120日、201空付、金剛特攻隊員の拝命である。その背景、経緯については前述のとおり。お判りいただいたように金剛隊は練習航空隊の練成途中の予備学生13期を中核として、その教官、教員を以て編成されたものであり、いわば今でいう「青田刈り」であった。わが航空部隊の中枢が打ち出したこの乾坤一都の特攻作戦に福山中尉等は選ばれたのである。

福山は身の回り品を整理して不用品はすべて母上の許へ送った。1122日付で左記手紙を書き、もう24日には愛機零戦を駆って2度と還らざる思い出深い元山空を離陸している。

大西中将が海軍中央部に話を持ち込んでからわずか6日目のことである。時は激しく歴史を刻みつつあった。

 

○第一線出撃の命を受けて 福山より母上宛の手紙

 

拝啓 向寒之候母上様には益々御健やかにお暮しの御事と推察仕候

大東亜戦争日を追ひて熾烈の度を加へ時局愈々重大なるの秋正通も出征の恩典に浴し近く第一線に赴く事と相成申候

顧みれば今日に至る迄何一つとてお心を安んずることなく御無理ばかりお願い致し私不幸の段御許被下度

父上にも1年間と謂うもの消息なく此度再び私出撃の上は御淋しき御事と推察仕候も淑子、久美、正昭もいることなれば、御心強く御暮しの程祈上候

私出撃の上は母上様の御期待に背かざる立派なる働きを致し父上と共に御国の為に盡す所存に之有候へは何卒ご休心被下度候

不要荷物及び軍刀返送致候間書籍中若し「秘」のもの残存せるものあらは焼却被致度

当航空隊在隊中は司令を始め皆々様に厚く御厄介に相成申候御礼状出され度

愈々御自重御自愛の程遥か祈上候

 

昭和191122

正通拝

母上様

(追申)司令宛名

       元山海軍航空隊司令

         海軍少将 藤原喜代間

(一部修正のほか原文のまま)

○福山中尉機、岩国空に立寄る

 昭和191124日夕刻、福山は数機の列機を率いて岩国空に降りたった。岩国にはクラスの林(藤太)、向井、相沢、渡辺光允、松木、渡辺清実、高見、山本勝雄中尉など332空(関西方面制空担当)の零戦乗り達がいた。

早速当夜は、士官室で福山中尉の壮途を励ますためにクラス会がひらかれた。

「俺、特攻隊だよ″とクラス会席上福山が自分の任務を明らかにした」(向井)

「彼になんと声をかけてよいのか分らないので、福山の応待は専ら先任の林にまかせきりだった。いずれ俺達も征かねばならないのだろうが、運命の日がヒタヒタと迫ってくるのを感じたなあ」(相沢)

「確かに福山は俺の部屋で泊った。しかし特に取りたてて話もなく、もっぱら飛行学生の頃の思い出話をしたが、彼は淡々としていたよ。ソファーに寝そべったりして…」(林)

と当時のことを3人3様に話してくれた。

福山は翌日1125日の目付で岩国から三重県津市在住の母上宛に巻紙に墨書した達筆の遺書を出している。封筒裏面つまり差出人のところは、「山口県玖珂郡岩国町大明小路 森本準治、電話21番」と印刷してある封筒を使用しており、森本準治を一本線を引いて消し、横に福山正通と書いて母上宛の手紙に使用している。林によれば森本準治とは、岩国空の士官がよくつかっていたクラブ(料亭)の主人の名前である。奥さんがおカミであった。福山は岩国に着いた翌25日に森本氏経営のクラブの多分、日本間の離れあたりで気持を静め、特攻隊として死に臨む決意を固めたものと思われる。

当初、林中尉の部屋で遺書を書いたと聞いていたが、林によれば確かに何かを時間をかけて書いていたのは覚えている。だからわざと席を外してやったりしたが、墨書していたようには見えなかったと言っていた。それは確かであった。福山は隊外で遺書を書き、直接母上宛送っていたのである。

23歳や24歳の年齢でよくもこれだけのものが書けたものと、私は圧倒される思いで彼の遺書の文字を見た。

 

○ 福山より母上宛の遺書(岩国空にて)

拝啓

3歳前米英に対し大事の御事催され候に附いては日を追ひて戦果を拡張し皇威を宣揚今日に及びたるも(やが)て敵は物量を頼み反撃を加へ来り愈危急存亡の秋と相成申候

此秋に当り豫て熱望の第1線出撃の恩命に浴し近く出征することと相成正通は勇躍出征仕候

  20()年の御養育厚く御礼中上候 何等母上様には報い奉ることなく相済まぬ次第に之有候も一死奉公の御事を以て御恩の萬分の一にも報い奉る所存に之有候

正昭にはよく勉強、立派なる人間になる如く御伝へ被下度 後にてお便りする期もなきかと思はれ候へば 祖母様、増田の祖父母様、伯父母様にも宜敷願上候 先は取り急ぎお別れ如此御座候

最後に母上様を始め皆様末長くお栄への程祈上候

敬具

昭和191125

正通拝

御母上様

(原文のまま)

 

前記遺書を受けとったあとに母上より福山宛に出された手紙がある。1228日の日付となっている。本人の手に届いたかどうか危ぶまれるが、どうもマバラカットから遺品と共に送り返されたものと思われるので、福山中尉は母上の手紙を読んだのち出撃したと信じたい。

 

○ 母上より福山への最後の手紙

 愈々第1線出撃命令を受けて近く征途に上られる由、まことにお目出度う。謹んで心からお祝い申し上げます。

1年有余、専門的の訓練の実を表す秋は立ち至って嘸々御満足のことと存じます。私も天晴れ海鷲を育てたる栄誉を負ふかと思ふと、そぞろ誇らしさを覚ゆる次第で御座います。しかし、さしたる功績もなく大きくしただけ、唯々、あなたの努力の賜が親の名を表はして呉れたことを厚くお礼申します。何卒事を処して下さい。切角御手柄を祈って居ります。

正昭も何としても有為の人物に仕立上げなくてはなりません。あなたの出陣を聞いては益々張切ることでしょう。

それでは御きげん好く、勇んで御出発なさい。武運の長久を祈りつつ、これにて。

かしこ

1228

母より

 

勇躍征途に上る正通へ

   

○マパラカットにて

舞台はつるべおとしに最終の基地マバラカットへ移ってゆく。

前述の通り福山中尉ら元山空から来た金剛隊員は、昭和191230日から31にかけて比島マバラカット基地に移動するが、マバラカットに着いてからの福山中尉の動勢ならびに基地に於ける兵馬倥惣(くうそう)″の状況などは藤田昇の玉稿「福山正通を直掩して」に詳しいのでそれをお読みいただきたい。福山が出撃の前夜(実際は敵情により出撃が2日延びている)便箋にペン書きでしたためた今生最後の筆跡が残されているので御覧いただきたい。

 

明日早朝攻撃に向ふ。2,600年の光輝ある歴史、皇国の隆昌を願ふのみ

生前今日迄の御養育を謝し正通は「にっこり」笑って敵に突込む

遥か母上様の御健康を祈る。

 

  昭和20年1月3日 出撃前夜2400    於比島基地

 

君のため盡す命は惜しまねど

唯気にかかる国のゆくすえ

たらちねの ちちはは 迎へん國に

明日はゆくなり 南冥の空

 

最後にもう一つ感動を呼ぶことがある。福山中尉の遺品は一緒にいた床尾勝彦中尉の手により遺族の許に返ってきた。内容物は、

○出撃前夜書いた前記遺書、

○遺髪、

○靴下と手袋(母上の毛糸手編み)、
○カメラ(注、靴下に包んであった形跡があるが現物はなかった。特攻隊の遺品を盗むとは罰当りがいたものだ)、

そして床尾中尉が次のメモ書きをそっと添えおいた。厚地の奉書紙を小片に切り表と裏に達筆で左記のごとく記されていた。

その床尾中尉も昭和20年4月1日、石垣島東方海面で特攻戦死している。

 

散って征く ああ散って征く 散って征く

元気ナ英姿ヲ残シテ福山ハ征キマシタ 皆様ヨ!

同期生 床尾中尉

 

○ 福山少佐の墓所に詣でる

福山家は、山(きょう)といっても陽当りのよい茶畑のある段丘にあった。黒い屋根瓦がまぶしいしっかりしたつくりの民家が50戸程、段丘にはりつくように建っていた。福山家は木戸門(瓦屋根のある門)のある家構えで、前庭の向うは、遮蔽物が一つもない借景の紅葉した丘陵があった。福山少佐と尊父の軍服姿(陸軍少佐)の写真が二つ並べて掲げてある仏間で終始話を承った。

その日は故少佐の墓所に詣でたあと福山家を辞去することにした。墓所は福山家より車で3〜4分のところにあった。段丘の狭い坂道を正昭氏の上手なハンドルさばきでのぼりつめたところにあった。菩提寺豊原山長久寺の墓地に先年亡くなった厳父と共に並んで眠っている。墓石の正面は「故海軍少佐福山正通墓」、右側面は「神鷲院偉烈正通大居士」の戒名、左側面に「昭和20年1月6日於比島戦死、賜、従6位勲5等功3級 行年24歳」と刻まれている。

秋のちぎれ雲の下、故少佐の魂魄(こんぱく)はどういう気持で国の行末を眺めてきたことか――。

(なにわ会ニュース60号14頁 平成元年3月掲載)

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